9.5 二通りの死

 九木崎女史は雪まみれだった。ほとんど霧氷になりかけていた。私は中からドアを開けて「乗って」と言った。女史は窓を覗いて乗り込むスペースがあるか確かめてから後ろの席に入った。シートを起こしてある方だ。軽く雪を落として一息つく。何も言わない。私は運転席で前を向いていた。九木崎女史が来たことに驚いていた。そしてその驚きにちょっと苛々していた。なぜだろう。一人で倉庫の中の出来事を整理しようと思っていたからかもしれない。

 とにかく女史が私の気に障らないように静かにしているのは確かだった。

「吸う?」私は左手でタバコの箱を見せた。

「禁煙じゃないのか」女史は震える声で答えた。

「積極的には吸わないってだけ」

「じゃあ貰おうかな。一式置いてきちゃった」

 私は自分のを咥えたあとで女史に先にライターを貸した。火をつける。逃げ場のない煙が天井の近くから溜まっていく。それはどこか牧場の柵に突き当たったヒツジの群れを思わせた。つまり今この煙は飼われているわけだ。野生の煙はもっと自由で、そして捕食者から守られていない。

 それからどうして女史が歩いてきたのか考えた。冬場は彼女の車の出番が少なくなるのは知っているけど、本部には業務用の車が何台か置いてある。女史の立場なら自由に使えるはずだ。それをしないということは、ここには誰にも知られずに来たかったということだろう。

「用は済んだのか?」女史が訊いた。私が振り返ると彼女は倉庫の方を見ていた。

「まあ」

 かなり色々なものを壊してしまった。損害だ。それを考えると明るい返事はできなかった。女史は体を伸ばして前の灰皿で灰を落とした。頭についた雪が溶けて毛先から水滴が垂れる。ハンドブレーキの横に落ちた。女史はそれを掌で拭う。

「中を見ても?」女史は訊いた。倉庫のことだ。

 私は頷いて車を降りた。ドアの気流に巻き込まれて煙の羊たちが雪の中へ解放されていく。そしてあとかたもなく消滅する。空気は冷たく湿っている。

 女史は扉のロックが壊れていることには気を留めなかった。もう一度明かりをつける。戦闘の跡のような状態が広がってる。それを見た女史はちょっと笑った。でもそれからリリウムが他の数機に囲まれて倒れているのを見つけてだいたいを理解したようだった。

「懐かしいな」女史はリリウムの胴に触れた。「しかしまたひどく散らかしたものだ」

「すみません」

「複数機の肢闘を一手に動かしたのか。どうやって」女史は倒れている他の肢闘を見て回る。一体一体立ち止まって型式を確認する。

「分配器で」

「分配器? そんなもの……」

「昔実験で使ったのを工場から」

「ああ、後ろに積んであったのはそれか。確かにそういうものもあった。うん。で、同時に何機?」

「八機」

「疲れなかったか?」

「それが分配器の限界なんです。ケーブルも余ってなかった。一機死にかけのケーブルを使ったせいでちょっと接続悪かったし」

 疲れているかどうかについては自分でも判然としなかった。早く休みたいという思いはあるから、確かに疲れているのだろう。でも肢闘を動かしたことだけが原因でないことも確かだった。

 女史は作業を中断して顔を上げ、私のことを振り返って見た。その視線は「おまえのことはきちんと評価している」と言っているように見えた。

「それでここの並べ替えをやったら楽そうだ」と女史は口に出して言った。

「それにしたってこれだけの数、一機一機火を入れるのは骨が折れるんじゃないかな。燃料だって食う」

 女史は奥の崩れた山に向かって歩いていく。

「でもいいよ。自分で始末をつけるならこのことは別に咎めない。きちんと並べ直して、壊れたものは一人でできる範囲でいい。あそこの壁もこっちで直す」女史は屑鉄が突き刺さって破れた正面の壁を指差す。相変わらずゲレンデの造雪機のように外から雪が吹き込んでいる。「今日はもういいけど、鍵は渡しておく」

 私は手を出す。女史はその上に札のついた鍵を置く。

「終わったら返しに来なさい」

「はい」と私は答えて鍵をポケットに仕舞う。「でも、本当にそれでいいんだろうか」

「何?」

「あの時はお仕置き部屋に入れられた」

「そうだったか」女史は再びリリウムを見る。

「私は何か罰を受けなければいけない気がする」

「受けたくて受けるのか?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

 台車に乗った発電機が壁の近くで止まっていた。私がそこに置いた覚えはない。さしずめ山が崩れた時に運よく弾かれて巻き込まれなかったのだろう。角に何かが当たったらしいへこみがあるだけで、あとは無事だった。そいつを押して入口の方へ戻る。まだケーブルをトランクに戻していなかった。二人でフラフープくらいの輪にまとめて肩に掛けて外に運んだ。依然として吹雪は強く視界は悪い。

 エンジンをかけたままだったので車内は暖まっていた。煙草の煙の臭いは残っていた。私が車を出して少ししてから九木崎女史が口を開いた。

「私は昔、遠い昔、タリスを自分の分身のように思っていた。でもそれは間違いだった。あれはあれなりに私とは別の経験を積んで、とても多くの経験を積み、多くのことを調べ、知り、成長していった。それは最初こそ私の与えた指示から始まったものだったかもしれない。でも今はもう完全に私とは別個の、異なった存在になっている。機械にも人格や意識のようなものはある。ただそれは人間が自分の肉体や精神に自覚するものとは大きく違っている。その二つを重ねようとするのはナンセンスだ」


 私はそれから数日かけて倉庫の中を片付け、その合間にもう一度だけリリウムに潜った。そこにはもう森も砦もなく、雪原のような一面の白い空間が延々と広がっているだけだった。

 そして現実に帰って倉庫の外に出ると森の中でシカの死骸が凍ったまま朽ち果てようとしていた。

 その時わかった。意識の消滅は何もあとに残さないのだ。きれいさっぱり消えてしまうことができる。でも生き物の肉体はそうではない。死体はまだ生きている生き物を煩わせる。あるいはその糧になる。土に返り森の養分となる。そこから新しい命が孵化し、芽生える。意識の死は何も養わない。そこにあるのは喪失だけだ。

 結局、ルークの上にいた女は私自身のひとつの可能性の姿だったのだろうか。もし私が人体実験のような目に遭わなかったら。もし九木崎に来なかったら。もしろくでもない男の娘にならなかったら。元を辿ればそれらは全て「私の母親に人を見る目があったなら」という仮定に帰結するような気がする。もし私の母親がもっとまともな親だったら、私はあんな女になっていただろうか。あんな母親に似た女は嫌だ、と私は思う。だがあんな女の母親は人を見る目を持ったまともな親なのだ。あんな女はそんな母親を恨まないし、恨む必要もない。だとすればそれは別に不幸なことではないのかもしれない。幸せなことかもしれない。

 でもそれは私じゃない。今の私は過去の全ての経験の上に立っている。私の可能性の姿というのは私とは別の人間のことだ。私じゃない。

 私はリリウムを殺し、一方で母を殺さなかった。結局のところそれはどちらも今ある自分自身を肯定するための選択だったのかもしれない。別の生き方を選んでいた可能性を殺し、母親の写しになっていく可能性を殺し続ける。私は私だ。他の誰でもない。他の誰かが私を騙ることもない。

 可能性は消え、現実は残る。恨むべき母親もまた恨むべき母親であり続ける。

 ルークの女は私が私の母親に似ていた可能性を置いていった。

 あるいはそれはまだこれからの可能性であるのかもしれない。

 私はまだ生きているのだから。

 私はまだ変化していくかもしれないから。

 彼女の姿は憶えておこう。

 記憶に焼きつけておこう。

 私が私であり続けるために。

 そして私の生と死を糧とする者たちのために。


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