8.9 ほほえみ


 私は西に向かって走り、途中で補給を挟んで大垣市内に入った。私は自分の動きがどれだけ察知されているのかまるで知らなかった。リリウムの通信能力が低いせいだ。当時の九木崎の肢機はせいぜいトランシーバー程度の送受信機しか積んでいなかった。だから余計に用心して街中に入らなければならなかった。

 でも結局のところ私の心配以上のことは起こらなかった。ほとんど誰にも見つからずに母親のアパートの前に到達した。夜明け前だった。薄赤い空に地平線から生えた細長い灰色の雲が突き刺さり、その縁を紫や紅色に染めていた。それは刃物に滴る血を思わせた。リリウムの手もすでに何人分もの血と肉に濡れていた。

 そのアパートには見覚えがあった。私の生みの父親がいた頃の私の家だった。次の男と結婚してからはその男の家にいたのだから、母親は前の家に戻ってきたということになる。それは別にどちらかの実家というわけでもなかった。まるで過去の記憶に縋っているみたいだ。馬鹿馬鹿しい、と思った。

 私はリリウムの手で部屋の窓を突き破り、頭を下げて中を覗き込んだ。リリウムは赤外線カメラもレーダーも装備していなかった。視覚センサーは人の目と同じレンジの可視光カメラだけだ。遮蔽物の向こうを透視することはできない。

 母親はまだ寝ていた。物音で飛び起きてリリウムの目をぎょっと見返した。

 私は母親の名前を呼んだ。リリウムにもスピーカーはついている。ちょうど口に当たる部分だ。

「碧波なの?」

「連中に私を攫ってくれって頼んだの?」

「その声」母親はリリウムの鼻先に抱きついた。それが私だとでも思っているのだろうか。

 それが私なのだろうか?

「私を攫ってくれって頼んだの?」私は同じ質問をした。

 母親は頷いた。「だって、その方がいいでしょう。もうあの人はいないんだから、なにもつらいことはないのよ」

「違うよ。その出しゃばった思いやりが嫌なんだ。それこそが嫌だったんだ。だから私は九木崎に来たんだ。自分の意志で来たんだ。あの男は、あの男を殺したのなんかひとつのきっかけに過ぎない」

「これからは上手くやる。約束するわ」

「できてないじゃないか。だったらなんで奴らなんだ。なんでフィリスだったんだ。なんで連中は別に子供を返すことを目的にしてるわけじゃないんだ。投影器を目の敵にしているだけなんだ。だからその穢れを浄化できれば子供がどうなろうと知ったことではないんだよ。そんなことはちょっと調べればわかることなんだ。なんでそんなものの口車に簡単に乗せられちゃうんだ」

「だって帰ってきたじゃない」

「違う違う。そうじゃない」

 私はリリウムの頭を部屋から引き抜いた。母親は手や服についた水っぽいものを見て「ひゃっ」と声を上げて後ずさった。それは血だった。返り血がまだ機体にも残っていた。それがうつったのだ。

 私はリリウムの手についたガラス片を払って操縦室を開け、自分の生身をつまみ出して床に置いた。

「まだ立てないんだよ。連中のせいだ。何をされたか、知らないでしょ?」

「そんな……」

「だから、思いやりなんかもういらないんだ。私に何かしてやろうなんて思うな。自分のことだけ考えて勝手に生きていればよかったんだ」

「ごめんなさい。ひどいことをしちゃって」

「暴力が口先のごめんなさいで許されると思うな」

「知らなかったの」

「なら、それがいけないんだ」

 私はリリウムの手で母親を掴んだ。

「そうね。私がいない方がいいのね」

「そうだよ」

 殺してくれ、と頼まれているような気がした。

 リリウムの手は血で汚れていた。でも母親はもう嫌な顔をしなかった。怯えた様子もなかった。ほほえんでいるようにすら見えた。

 私はリリウムの手に力を入れることができなかった。動かそうとしてもまるで力が入らなかった。それは生身の状態に似ていた。

 なぜ?

 母親が死を受け入れたから?

 死を拒む人間を殺すのは簡単でも、死を受け入れた人間を殺すのは心苦しいから?

 違う。

 私は黒い服の女を殺した。彼女も死を受け入れていた。

 だとしたら、肉親だから?

 私がまだ心のどこかで人間であろうとしているから?

 違う。それはきっと違う。

 黒服の女の時は耐えられた。でも今度はもう駄目だった。私は決意を貫くことができなかった。

 私は何をしているのだろう。このまま殺したとして、そのあとに何が残るのだろう。それは不快感と不可解さではないのか。私はこの得体の知れないものをこのまま消してしまっていいのだろうか。

 わからない。

 力を入れようとする意志とそれを止めようとする意志が最大出力でぶつかり合っていた。

「碧、離しなさい」無線のスピーカーが喋った。檜佐の声だった。

「邪魔するな!」

 リリウムの手は人間を離し、部屋の破孔から乱雑に引き抜かれたせいで屋根の一部を引っかけて崩した。

 逡巡しているうちに警察が集まってきてしまっていた。回転灯の赤い光が近づいてくる。ほら、計画通りにやらないからだ。

 そして一機の肢機が背後に現れた。

「檜佐?」

「あなたはもう十分復讐した。あなたに手を下した人たちに残らず仕返しした。もう十分でしょ」

「チューリップじゃリリウムには勝てないよ」

「そうね。でも碧と私ならどう? 今の碧は鈍ってるでしょう」

 檜佐のチューリップが構えた。私も応じた。檜佐のストレート、いや、肘を狙っている。

 躱して膝を蹴りつける。チューリップはその場に頽れた。

 私が母親の方へ戻ろうとした時、チューリップの手が伸びてリリウムの背中に何かを差し込んだ。

 チューリップの通信回線を介してタリスがリリウムにアクセス、投影器にでたらめな信号を浴びせかけた。

 私は堪えながら母親の方へ手を伸ばした。嵐のような信号の中から本物を探り出してリリウムの制御を握りしめていた。

 でも最終的に私はその奔流に抗うことができなくなった。水流に押されて手がかりのない崖を滑り落ちていく感覚。

 再び気絶。

「同じ負けはありません」タリスが私の首を絞めながらそう言っているように思えた。

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