8.10 事後処理

 再び病室で目覚めた。服を間違って着ているような、袖から首を出しているような、そんなちぐはぐな気分だった。体の感覚が正常に落ち着くまで三十分くらいかかった。

 私はどこにいるのだろう。

 そう、ここが九木崎の病室だってことはわかっている。でも何がどうして自分の体がここに流れ着いたのか、その経緯を上手く思い出すことができなかった。

 いや、それは仕方がないんだ。私は自分でこのベッドに潜り込んだわけじゃない。誰かが勝手に私の体をこのベッドに押し込んだのだ。

 その事実を確認するのにまた時間がかかった。

 サイドテーブルに新聞が並べてあった。各社その日の朝刊だった。「肢機暴走」の見出しが並んでいた。私一人の行動がそれだけ大事に発展している。なんだかそれは実感のわかないことだった。

 事件になるのはいけないことなのだろうか。だとして、その罪は私のものなのだろうか。いや、違う。それは連中の責任だ。原因をつくったのは連中であり、私の母だ。

 私は自分の中に入り込んできそうになった罪の意識を上手く受け流すことができた。私の内側はぽっかりとした空白のままだった。母親に対する怨嗟は本人にぶつけられることなく行き場を失ったはずだった。でもそれも私の中には残っていなかった。

 檜佐が入ってきた。

「私が目を覚ましたってわかるの?」

「わからないよ。ただ時々見に来てるだけで」

「時々?」

「一時間に一回くらい」

「暇だな」

「心配してるんだよ」

「また私が逃げないかどうか?」

 檜佐は鼻を鳴らしただけで答えなかった。それからサイドテーブルの新聞を覗き込むと、ざっとひと纏めにして抱えた。それを並べたのは彼女ではなかったようだ。

「あ、それとも読みたい?」

「うん。置いといてくれれば、それくらいなら動ける」

 ヤブカンゾウが花瓶にささっていた。檜佐が持ってきてから何日も経っているはずだ。でも三輪の花は刈り取ってきたばかりのように生き生きとして鮮やかだった。

 私はそれから一週間ほどで歩き回れるまで回復した。日ごとの回復は次第に速くなっているように感じられた。最初の日、私は夜になっても這うのが精一杯だったのだ。でも今度は一日でほとんど立てるくらいまで回復してしまったのだ。

 新聞やテレビの中で私は「十二歳の少女」だった。名前は報道されなかった。メディアが飛びついたのはむしろ私に殺された人々の名前だった。メディアは肢機の危険性を糾弾していた。対人兵器として軍事転用も可能だ、という「軍事専門家」のコメントも引っ張っていた。そして九木崎とフィリスの関係には一切触れなかった。拷問もなかったことにされた。彼らが貶めたいのは九木崎だった。彼らは「倫理」を振りかざして投影器と肢機の研究を非難した。児童虐待、人体実験だ、私設武装だ、と。そのせいで九木崎博士と女史は数日の間取材の対応に追われていた。慎重な言葉選びに神経をすり減らしていたと思う。

 九木崎女史は事件について特に何も言及しなかった。説教も罰も何もなかったし、かといって、君は悪くない、というような慰めもまたなかった。それは暗に私自身で自分の責任を問えと言っているみたいに思えた。

 ただ女史は私に中高生の制服のような服を与えた。緑と茶色と白の糸で織り込んだチェックのスカートとベスト、白いブラウスに赤いリボン、茶色いローファー。そして私を連れ出した。

 高速道を走るスープラの中で私は女史と二人きりだった。女史はその間やはり何も言わなかった。私はむしろ叱られるのを待っていた。自分の責任を早く清算してしまいたかった。

 でも女史は黙っていた。

 かといって私から弁明を始めるのもおかしい気がした。


 私は東京という街を初めて見た。大勢の人間がいて、誰も私のことなんか見ていなかった。

 九木崎非難は二週間ほどすると急に鎮まった。報道の焦点はフィリスに移っていった。メディアは九木崎の子供に対するフィリスの暴虐よりも組織の成り立ちを重視した。つまり議論の矛先を九木崎から逸らす何らかの力がそこに作用していた。それはおそらく樺太電信からの圧力だった。

 女史は地下の駐車場に車を止め、私の襟についたリボンをきちんと水平に直してからエレベーターに乗った。一階で降りると広いロビーが広がっていた。天井のシャンデリアが黄色い石の床に映り込んでいた。上を見ると目が回りそうだった。だから私は俯いて床に写り込んだ天井の模様を眺めていた。

 二分ほど待つと人が来て私たちをエレベーターに乗せ、一つ上の階にある別の部屋に通した。そこには墓石のように重々しいアームチェアが向かい合わせに並んでいて、でも座ってみると座布団のように柔らかかった。私の体重ではあまり沈み込まなかったけれど、底なしみたいに感じられた。

 その部屋に窓はなかった。風景の代わりに山の絵がかかっていた。横長の絵で、雪を被った裾野の広い大きな山が描かれていた。

 相手は間もなく入ってきた。脚の短い、血の気の多そうな老人で、細い髪を黒く染めていた。彼と女史は握手をした。私の方には手を出さなかったので私は座っていた。老人が女史の向かいに座った。老人と一緒に付き人が三人くらい入ってきて、右手の席、部屋の隅、扉の前、といったふうに持ち場についた。

 ああ、この人は偉い人なんだ、と私は思った。

 老人と女史は長い話をした。私はその全部を真剣に聞いていたわけではないし、聞いていたことも全て覚えているわけじゃない。

「我々は決して歩行兵器を必要としているわけではないんです。ただ肢機が暴力になりうること、兵器をあてがわずにその暴力を阻止するのが困難であることは今回の事件で明らかとなったわけです。前々からその懸念はあったわけですが、やはりその技術は国家として管理する必要があるのではないかと、そういう意見に基づく方針なのです」

「それで、研究所を接収しますか」

「いや、そういうことは考えていません」

「じゃあ富士か相模原に移転を?」

「千歳です。実験用地のことを考えるとやはり北部がいいということで。それに、中等機関を樺太に移すということであれば、北海道というのは立地として悪くない」

「用地という観点では富士でも同じように思えますがね」

「ええ。ここだけの話なんですがね、鷲田空将の肝いりなのです」

「ほう」

「空自にも技術移転したいと、そういう考えのようで」

「海自はハブですか」

「ええ、まあ、そういうわけでもないんですが、これだけ個人的なものを艦に応用するというのもなかなか無理があるでしょうし」

「九木崎としてはね、肢機というのは道具に過ぎないのです。ただね、兵器となるとハードウェアだ。ドクトリンに合ったハードウェアを開発する。そのハードウェアに適した人材を育てるのは九木崎の研究理念と齟齬を起こすかもしれない」

「必ずしも符合しない。必ずしも。九木崎は自らの研究の余地を残すことができる。今より大々的に人材を集め、より膨大なデータを集めることができる」

「子供たち」

「ええ」

「人材ではない。私たちは彼らの時間を借りているに過ぎない。今まではその先に隊員、軍人という将来を見据えていなかった」

「大人になったら放り出す、そういう環境ではなくなる、ということでは?」

「それ、子供たちの自由を担保する言質と取ってよろしいですね?」

「構いません。自衛隊が彼女たちにとって魅惑的な職場でありさえすればいいのです」

「ふうむ。では魅惑的な職場に変えてくださると」

「努力しましょう」

「ロシア軍や人民解放軍の方が待遇がいいというのでは困ります。樺電はそういうコネもある会社ですから」

 老人はそこでちょっと大げさに笑った。でもなんだか不機嫌そうだった。そのちぐはぐな態度が私には理解できなかった。

「それで、先の話ですが」老人は言った。

「ええ」

「樺太は九木崎博士に、千歳はあなたに任せようと思います」

「年少者が樺太というプランでしたね」

「そうですが」

「逆の方が適切では?」

「いや、タリスは国内に置かなければならない。タリスを扱えるのは博士ではなくあなただ」

 女史は脚を組み直して上になった膝の上に手を重ね、一息置いてから「なるほど」と言った。それだけだった。

 二人の話の間、私は徹頭徹尾斜向かいのソファでただ無表情に座っていただけだった。

 私の存在に何の意味があるのか当時の私は考えなかった。私の中にあったのは、自分がこれからどうなっていくのかという不安と、母親をどうすべきだったのかという迷いだけだった。私は滝壺に飲まれたようにその場にぐるぐると留まり続けていた。

 しかし考えてみれば私は十分に役目を果たしていたのだろうと思う。その時女史が行っていたのは軍隊に対する九木崎の位置づけの取り決めだった。相手は防衛省の高官だった。政府は九木崎程度の規模の組織なんていくらでも思い通りに処理できるに違いなかった。でもそこに私という不確定要素、権力に服従しない存在、破滅をもたらすおそれのあるリスクを掲げておくことによって必要以上の干渉を阻んでいたのだ。政府にとって手懐けようのない獣としての役割が私には与えられていたのだ。彼も事件の真相は把握していた。私が誰なのか知っていた。復讐に駆られて六人も握り潰した子供。それがむすっとして何も言わずに座っているのだから、彼も少しは困ったことだろう。

 でも女史が私に与えた意味はそれだけではなかった。たぶんそれは私への罰でもあったのだろうと思う。当時はその意味なんて分からなかった。女史が何か難しい局面に臨んでいて、私もそこに付き合わされているんだ、というくらいの認識しかなかった。だから、きっと後で思い出した時に事の重大さを理解できるように、ということだったのだと思う。


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