9.1 吹雪
十年。思えばそれだけの年が経っていた。タリスの中で事件に関する記録を漁ってもリリウムを調査した痕跡は見られなかった。それなら私がフラクタルに陥った時の状態がそのまま保存されているのではないか、私が無意識に書き込んだプログラムが残っているのではないか、もしそうならリリウムはまだ私の母親を殺そうとしているのではないか。そう思った。
次の月曜、吹雪で午後の訓練が中止になった。野外の予定が入っていた部隊はどこも手持ち無沙汰になっている。トレーニングをするにもそんなに都合よく室内の施設やら大部屋が空いているわけじゃない。施設や大部屋にだってきちんと予定があるのだ。結局することがなくなる。かといって天気のせいで外に行って遊ぶこともできないので、解散がかかっているにもかかわらず食堂に集まって教材のビデオを見たり戦術の話をしたり、何人かは廊下で走り込みのトレーニングをしているし、何人かは窓の桟に溜まった埃を払い落している。
私はそんな日を待っていた。降雪なんて珍しくもないけど、外に出れないほど降ることはなかなかないし、休日や夜中ではなく平日の昼でなければいけなかった。平日なら多少やかましくしても誰も怪しまない。特にフェンスの外の人間は気にも留めないだろう。訓練があるのだからこの程度の騒音は当たり前だ、と。視界が通らないのも好都合だった。まるで大気そのものに雪が溶け込んだように白んで霧になっていた。それどころか大気の中を渡る音だって降りしきる雪に次々と撃ち落とされて急速に勢いを失っていくようだった。普段ならフェンスの外を走る車のタイヤやチェーンの音が地鳴りのように響いてくるのだが、今日はそれもほとんど聞き取れないほどだった。
必要なものは自分の車の後ろに乗せてあった。大物は投影器の配線の分配器とそれ用のケーブルだった。どちらも容積を食うので後部座席は片方倒してある。バンパーの前に積もった雪を少しばかり掻き分けてから乗り込んだ。九木崎の建物の横に出た時に同僚のワゴンとすれ違った。外から帰ってきたところのようだった。しっかりヘッドライトを灯していたけど、その光は白い闇の中から一種の爆発のように現れた。きちんと左に寄っていなかったら危ないところだった。それくらい本当に視界が悪いのだ。
押し入れ倉庫の前につけてこの前の夜と同じように扉を開けて中に入り、今度は手っ取り早く事を進めた。自分がすべきことの順序だけを考え、頭の中にリストをイメージして、済んだ項目にチェックをつけた。倉庫の空気の質感や屋根の高さや窓から差し込む光のことは考えないようにした。まず通用口の横に置いてあった発電機をリリウムが埋もれている奥の山まで転がしていってブースターケーブルを伸ばし、その先端を投げ上げてから前と同じ手順で下敷きになっている機体の脚をよじ登る。それから外側に覆い被さっている機体の胴体と腕の間の隙間に体を捻じ込み、リリウムの大腿部の側面にあるアクセスパネルを手探りで開く。蓋の裏に「2908818L」とシリアルがサインペンで手書きしてある。この機体だ。間違いない。一度腕を引っこ抜いて電源用端子の色を確かめ、手を伸ばしてクリップに噛ませる。下に戻って発電機のスターターを引っ張る。倉庫に備えつけのものだが最近使ったばかりなので一発でかかる。
もう一度山の裾野をよじ登り、今度は体を全部ねじ込んで操縦席のドアに手をかける。ちょっとモーターの引っかかる音がしたがきちんと開いた。中は黴臭い。肘くらいまでキャビンに差し込んだところであることに気づいた。電源系のコンソールで充電中のランプが灯っているのはいいのだが、シート正面のディスプレイが点いていた。画面は真っ黒で何を映しているわけでもないのだがバックライトが点灯している。液晶と枠の間から微妙に光が漏れていた。ディスプレイの点灯は機体コンピュータの起動と連動しているはずだった。シャットダウンされていればパイロットの操作なしにコンピュータが起動することはない。休止状態にあったのだ。それを維持していた。
体を引き抜く。肘が引っ掛かった。ヘッドレストの横にくっついている頭を押さえるためのバンドだ。振り払ってドアを閉じ、地面に降りて参道の手前に置いた分配器のところまで走って戻る。奥の山を正面に捉え、反響していた自分の足音が収まるのをじっと待つ。
やがて発電機のばたばたした回転音が山の後ろから遠く聞こえてくるだけになる。動きはない。書き割りのように静止している。吐く息が白く凍る。吹雪の冷たい圧力が壁をすり抜けて倉庫の内部まで浸透してくるかのようだ。
ここに来て私はようやく辺りの様子に意識を向けた。高い窓からぼんやりした白い光が入り込んでいる。それは筋といえるほどはっきりとしたものではない。ポプラの種の綿毛のようにぼんやりと窓の回りだけが白かった。その光の不鮮明な輪郭に白い吐息が重なり、混じり、やがて見分けがつかなくなる。
そうして窓を見上げているうちにほんの少し後ろに振り出した右手が冷たいアルミニウムの角に触れた。分配器だ。本体はほとんど完全な縦長の直方体だが、脇腹からクモの脚のように投影器のケーブルが伸びている。ケーブル自体決して軽いものではない。家電の電源コードの十倍くらいの太さがあって、それが二十か三十メートル。リールから外して肩に担いで運んだけど、気絶したアナコンダのようにずっしりと重かった。八本のうちの一本は参道の左側の一番手前に控えるマーリファインの操縦用端子に繋げておいた。つい数日前に倉庫の整理のために動かしたばかりだ。燃料は残っている。整備も行き届いている。よく動いてくれるだろう。窩を開いて分配器の後ろから尻尾のように生えている太いケーブルの先を差し込む。端子が古いせいか摩擦がちょっとじゃりじゃりした。後ろを押さえてしっかりと差し込む。まだマーリファインのエンジンはかけていない。ハリボテのように静かだ。
リリウムに目を向ける。直接は見えない。積み上がった機体の陰になっている。でもそれはきっと蛹のカブトムシのように固く閉ざした殻の内側でぐるぐると生命活動を続けている。私が感覚的に組んだプログラムが生きていたとして、それはパイロットなしで機体を動かすほど完結したものだっただろうか。
もしそうだとしても充電が済むまでは動かないだろう。私ならそうする。たとえどんなに激しい感情を抱えていたとしても手段は選ばなければいけない。さもなければ蚊のように殺されるだけだ。もちろん古い機体だし、バッテリーの持続はカーベラよりずっと短い。電源を繋いだままなら話は別だが、山を崩せばケーブルも確実に引っこ抜ける。
次第に寒さが身に浸みてきた。体を動かさずにじっと腕を組んでいるだけだし、アドレナリンも収まって心臓の鼓動が低くなっていた。落ち着きすぎて眠いくらいだった。
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