5.1 残された影

 九木崎の工場では檜佐機の胴体後部に新しい操縦室モジュールを取り付ける作業をしているところだった。モジュールの角についたポイントに鎖を渡してそれを天井クレーンのフックが吊っている。がつがつと打つように鎖の軋む音が響いている。ほぼ唯一装甲されている区画だから重いのだ。作業員はクレーンの操縦室に一人、機体の上に二人。二人は吊り荷の下ろしどころを見ている。今は近づけない。

 遠巻きに正面へ回って電源・通信ケーブルが接続してあるのを改めて確認した。私より先にタリスがこの機体のデータを取り出しているわけだ。それから機体の他の部分を調べる。胴体の方はほとんど修理されていない。被弾の痕跡も全くそのまま残っていた。新しいモジュールの方は傷一つない。水垢さえない。光沢が見えるくらいだった。それはある種のキメラのようなものを思わせた。傷つき古びた胴体にぴかぴかの首が乗っている。致命的にちぐはぐだ。せめて傷を塞いで綺麗に塗り直すくらいでないと似合わないのだが、新しい操縦室モジュールを取り付けるのはあくまで調査のためであって可動状態に戻すためではない。今はまだその段階ではないのだ。

 クレーンのエンジンが止まる。整備士三人が固定作業に入る。私も機体を登っていって操縦室の中に潜り込み、配線類を接続していった。シートは新しい石油製品の匂いがした。

「すぐ潜るのか?」と一人が訊いた。

「そのつもり」と私も答える。

 それから少し話したけど、檜佐の事情はきちんと伝わっているみたいだった。作業が終わると彼らはそそくさと機体を下りて引き上げていった。

 私は一人になる。それでも不意に誰かやってきて邪魔されるのも嫌だったのでハッチを閉じた。ダイヤルを出力限定に合わせてプラグを挿す。

 こういった電子的なところを具体的な空間として、つまり自分の体の外側にあるものとして認識するのは松浦の専売特許みたいなもので、私はどちらかというと得意ではないのだが、集中して機体の中に感覚を浸透させていく。その末端に意識の視点を置いてみる。自分の体の中にある血小板の一つになったような気持ちで、例えば回路の中を流れる電子の一つを意識してみる。そんな小さなものは当然私自身の感覚では捉えることができない。だから想像する。一種の比喩、置き換え。

 私は細い通路を抜けて聖堂の前にたどりつく。南のファサード。聖堂と別棟に挟まれた中庭の渡り廊下。屋根がかかっているので聖堂の全容を見上げることはできない。ファサードのアーチをくぐる。

 聖堂は静かだ。窓は明るいが鍾乳洞のように広大な空間を十分に照らすほどの光が差し込んでくるわけではない。床に細長い窓の影が落ちて、それが枠の十字型にきっちりと区切られている。天井は遠く宇宙のように暗い。ヴォールトの一番高いところに空間全体から逃げてきた暗闇がぎゅうぎゅうに押しあって集まっているみたいだった。暗闇には重力が逆に働くのだろうか。そこから骨組みと明かりだけの簡素なシャンデリアが吊り下がっている。私は身廊を奥へ進む。

 「彼女」はタリスと一緒だった。私は最初にタリスを見つけた。奥の方にあるテーブルの手前側に座ってこちらに背を向けていた。黒髪と白いワンピース、肩の肌合いでそれとわかる。けれどそれはタリスの意識そのものではない。私たちとある程度対等にコミュニケーションするための像に過ぎない。タリスそのものはどちらかといえばこの聖堂全体なのだ。だからその像がこちらを向いていなくてもタリスは私が来たことをきちんと知っている。そう、それはちょっと癪なことだ。知ってやがるんだ。

 タリスが振り返る。金色の瞳が斜めにこちらを見る。それから自分の膝の上に視線を落とす。そこに彼女が眠っている。並べた椅子の上に体を寝かせて、タリスの膝の上に頭を乗せている。黒いクルーネックのTシャツに戦闘服のズボン。裸足。シャツの裾は出してある。

 タリスがその頭に手を当てる。私が来たことを知らせたようだ。

「上手く眠れないの」彼女は言った。「とても眠りたいのに、眠気がやってこないの。ううん。眠気がないわけじゃない。ちゃんとそこにいるの。でも迎えに来てくれない。私を引っ張っていってくれないの。そういうのってわかるかな。眠気にも段階があって、活動を鈍らせる眠気と、横になってから引き込んでくれる眠気と、その二つはちょっと別物でしょう?」

 私は答えなかった。それはたぶん本物の眠気の話ではなかった。私は彼女が寝そべっている椅子の列の一端に立ち止まった。膝の先に彼女の足があった。私の知っている檜佐の足と同じだった。指の形、甲の高さ、血管の色。

 彼女はタリスの右手を支えに体を起こす。腰を上げてテーブルの縁にちょこんと座る。

「あの機体の部屋の中でずいぶん長いこと一人ぼっちだった。何も知らないまま何日も待って。こっちに移してもらってから色々聞いて、状況は把握してるわ。とにかく来てくれてありがとう。あなたは実際の碧なのね?」

「うん。檜佐のカーベラに潜っている」

 彼女は頷く。それは知っている。こちらからも現実のことは見えている、という意味だ。

「欲を言えば、碧じゃなくて現実の私が来てくれたんなら今すぐに自分の中へ戻ることができたんだろうけど」

 タリスはテーブルの反対側へ回って、私たちの真ん中くらいのところで止まって椅子の背の上に手を置いた。

「二人だけで話したい」私は言った。

「いいえ。それはすべきではありません」とタリス。「もし彼女が現実のエリカの元に戻りたいのなら――あるいは擦り合わせを試みる、という言い方の方がいいかもしれませんが――いずれにしても、碧、あなたは彼女だけに長々と接触しているべきではないのです」

「碧とタリスの二人で話すのがいいんじゃない? あまり意見がまとまっているとも思えないし、私が聞かない方がいいこともあるでしょ。私の処分をどうするかという話なんだから」そう言って彼女は微笑した。それはとても檜佐らしい微笑だった。

 翼廊を南に向かって歩く。私が入ってきた方角だ。ファサードをくぐって渡り廊下を引き返す。

 正直驚いていた。確かにデータは人格そのものは保存しない。正しく終了しないとソーカーの意思が残留することはありうる。けれどそれは電子的には機体のコンピュータに残された命令やプログラムに過ぎない。それがソーカー自身の言葉で書かれているせいで、場合によっては本人の姿を再現することがある。もちろんそういったプログラムはかなり高度で複雑なものでなければならない。それでも大抵の場合は何らかの感情や言葉をひとりでに繰り返しているに過ぎない。私が潜っていって話しかけてもほとんど反応しない。反応があったとしてもそれは何らかの刺激に対して反射的に訴えているだけで、私の問いかけの内容を理解しているわけじゃない。その時多くの場合ソーカー本人は既に死んでいる。正常なプロセスを踏まずに投影器の接続が断絶するというのはそういうことだ。したがって檜佐が生きているのは本当に特殊なケースだった。そして檜佐であるがゆえにあれだけリアルな像が残ってしまっている。彼女のように冷静で柔軟な幻影というのは例がなかった。

 向かいの別棟に入る。のようなもので、装飾は最低限。左右に廊下があって等間隔に扉が並んでいる。二階も三階も同じ造り。中は小部屋だ。最上階の一室に入る。屋根裏のように天井が傾いている。ベッドがあり、小さなテーブルがあり、テレビがある。

「どうして私が潜るより先にこっちに繋いじゃったんだよ」私はタリスに訊いた。

「彼女のログを削除してしまえばいいと思ったのですか?」

「場合によっては」

「エリカにとってそれは彼女自身の一部なのかもしれませんよ。今まで地道に建設してきた自分の思考領域を一度失えば、それは感覚で積み上げてきたものですから、全く同じように一から再現するというのは現実的な選択肢ではないですね。女史とも話し合いましたけど、そういった情報をエリカ自身がサルベージするという行為が必要ではないでしょうか。それが彼女の言う『戻る』ということだと思います。だから彼女を保護したのです。私の中にあるエリカの記録を見せたのです」

「檜佐のカーベラの方に残っていたデータをこっちに移した?」私は訊いた。

「いえ。実は残したままです。その方が個の維持が容易でしょうから。彼女がここにいると感覚しているのはあくまで私との接続が維持されているからです」

 私はちょっと頭を抱えた。

「つまり、ああ、なんだ、だから、現状だと檜佐機のコンピュータが檜佐の――というかあの彼女の思考と記憶の領域になっているわけ?」

「だいたい」

「ああ、ややこしいことをするなあ」

「いいえ。これは必要なのです。そしてそれが必要なのはこのケースがエリカのものだからにほかなりません」

 タリスはそこで手元にモニターを開いて現実の様子を確かめた。診療室のベッドの上で檜佐が眠っているのが見える。

「やはり引き合わせなければならないでしょうね。彼女の言うとおりです」タリスは言った。

「わかったよ」私はそう言ってタリスへの接続を遮断した。



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