4.1 内的損傷

 檜佐は九時頃にゆっくり風呂に入ってほとんど裸同然で出てきた。白く薄そうな肌の下に赤い血色が透けていた。彼女はあまり体力のある方ではないけれど、それにしても綺麗な体をしていた。滑らかで――柔らかいといってもいい。肉付きというものがある。肋骨の下が細く、そこから腰にかけて広がり、足先に向かってほとんど一定に細くなる。私なんかもう少し筋肉質だ。ただこの時私が見ていたのは檜佐の体つきではなくて彼女の傷だった。まず正面、右、左、それから背中を向けた時、痣やカサブタがないか探してみた。けれど何もなかった。そこには滑らかな白い肌があるだけだった。彼女が自分で言った通り、外傷はひとつも負っていなかった。

 昼寝もしたのにその夜は十時過ぎには眠くなってしまった。座っているのも体が重くて、瞼も瞑っている方が楽だった。檜佐はまだ元気そうだったけれど、テレビと部屋の灯りを消して私に合わせてベッドに入った。眠ろうとしているわけではない。ベッドサイドのオレンジの豆球が点いていた。本を読んでいるか携帯でチャットをしているか、そのくらいだろう。

 ただ漠然と今夜はこの部屋に一人で眠るものだと思っていたのだ。檜佐はまだ入院しているだろうと思っていた。酷い重傷を負って痛々しい格好をしているだろうと思っていた。でも実際には多くのことが今まで通りだった。変わっていなかった。私はむしろ現実の好ましい結果を受け入れるための努力をしなければならなかった。天井にぼんやり反射した橙色の光。それと同じくらいうっすらと、まだ夢の中に閉じ込められているような感覚があった。とても精巧な別の世界に飛んで来てしまったような気がした。


 そしてまたあの森の夢を見た。私は暗い森の中にいた。私は岩と巨木の間に立っていた。既に周囲の状況は把握できている。一人だった。足元の地形もわかっていた。進むべき方角もわかっていた。

 けれど同じではなかった。いつも見る夢と違うところがあった。そんなものは記憶にはない。あるわけがなかった。

「碧? ねえ、どっちへ行けばいいんだろう」

 檜佐が木の幹に手を当てて立っていた。私より高い位置にいて、彼女の回りにだけ光が降り注いでいるみたいに明るく見えた。服が白いせいかもしれない。

「全然出口がわからないの。助けに来てくれたんじゃないの?」

「こっちも今帰ろうとしているところなんだ」と私は言った。

「方角はわかるの?」檜佐が訊いた。

 そう言われて私は辺りを見回した。目が止まった先に二本の太い木が並んで立っている。その間にずっと先まで見通せる隙間があって、向こう側は遠すぎて真っ暗に見えた。

「どうだろう。あっちじゃないかな」私は答える。

「なぜわかるの。こんなに暗いのに」

「暗い?」

「うん」

「そうか、暗いのか。気づかなかった。でも、わかるよ」

「一緒に行っていい?」

「いや、まずいな。私が帰るところまでエリカを連れていくわけにはいかないよ」

「平気。ここさえ抜ければ大丈夫だから。そのあとは」

 そうして何日も岩と木々の間を歩いて道に出た。ああ、車が来た、と振り向いた時、檜佐の姿は消えていた。

 焦って目を覚ますとまだ夜中だった。二時か三時くらいだろう。暗くて時計の針も読めなかった。記憶の補正はあるにしても夢の中の森の方が現実より明るく見えたくらいだ。檜佐のベッドの豆球も消えていた。息を止めると檜佐のゆったりした呼吸が聞こえた。眠っている。そこにいる。私の夢の中に消えてしまったわけではない。

 そう、早く眠りすぎたせいで目が覚めたのだ。それはわかっていた。体を起こす。夜中はセントラルヒーターが切れていて部屋の空気が冷たい。鼻の頭に氷柱でもできそうなくらいつんとした冷気だった。布団の中にある脚は温かく、外に出ている首や肩ばかりが冷えていった。動悸が収まるのを待って布団を被り直す。まだ眠れる。でも瞼の裏にはまだ森の中に表れた檜佐の白い姿が壁紙のように焼き付いていた。

 なぜ?

 なぜ彼女が現れたのだろう。本人はすぐそこにいるのに。隣のベッドの上で眠って――。

「どうかした?」檜佐が小声で訊いた。

「起きてた?」と私。

「今の物音で。最近眠りが浅くて」

「あのあと?」

「どうかな。こっちへ来たら?」

「いいよ」遠慮のニュアンス。肯定ではない。

「じゃあ私が動こうか」

 檜佐は私の布団の端を持ち上げて滑り込んできた。彼女の纏う冷気が一瞬早く押し寄せてくる。マットレスが沈み、布団の端が閉じる。閉じた空間の中に彼女の息と熱が溶け込む。リンスの匂いがする。私と同じ匂い。もともと別のを使っていたのに、詰め替えが切れた時に仕方なく私のを使って、それでも全然問題ないということになったようだ。それから減るのは早くなったけど彼女が詰め替えをやっておいてくれるのであまり悪い気はしなかった。そういうところはそつがないというか、拘りがないというか、柔軟なのだ。

 彼女は私より少し下の方で横になって私の胸の下に額を押し当てた。手を出さずにネコのようにぐりぐりぐりと押し付ける。

「あの時、撃たれた時、怖かったな。なんだか怖かった」

 怖いという感じを認識するだけの猶予があったのだ。私はまずそこに驚いた。投影器の感覚から締め出されれば問答無用で失神するものだと思っていた。私自身の経験論ではない。そこまで外部感覚に没入した試しがないからだけど、回りを見ている限りではそういう傾向が強いといっていいはずだった。

「何を感じた?」と私。

 檜佐は少しの間目を瞑って言葉を探した。

「落下」と彼女は言う。

「落下?」

「底のない大きな穴の中に墜落していくようだった。壁と水底のない井戸だよ。すうって空気を切る音がするから、でも穴なんだ。機体に向かって伸ばしていた感覚の糸がそのままもっと引き伸ばされて、だんだんゆっくり限界に近づいていって、張力の限界でぷちっと切れて、私の意識の方は深い穴の中に突き落とされる」

「そういう感覚があった?」

「そう、感覚。でも身体感覚というより心の中に直接生まれるイメージのようなものだった。上手くは言えないけど、それは恐怖や怯えを強く呼び起こすものなの。本当に怖い時って、頭が真っ白になって、全身が心臓の鼓動だけでいっぱいになっちゃうでしょ。ものも見えているし、音も聞こえる。感覚は入ってくる。でもそれを認識や判断することができなくなってしまう。そういう感じ。そんな感覚の余韻の中で私はきっとそのあと眠っていたんだと思う。いきなりこっちに戻ってきて中隊の誰もいないから、私だけあの世に送られたみたいな気がしてたよ」

「檜佐のカーベラ、あのあと勝手に陣地まで戻ってきたんだ。聞いた?」

「いいえ」

「じゃあ、知ってた?」

「知らない」檜佐はほとんど無感動に答える。「でもどうなったのか私も考えていたの。そして色々な可能性に思いを巡らせた。だから、そういうこともありうるだろうって」

 私は檜佐の頭と肩に手を乗せて落ち着かせる。

「これがちゃんとした現実なのか、そうじゃないのか。もし違っていたら、眠った時にこの世界が途切れてしまうような気がして少し不安なの」

 触れられるものは存在しているのだろうか。

 触れられるものが世界の全てなのか? 

 檜佐は檜佐だ。外傷もない。でも内的な損傷が全くないなんてことは言えない。

 何かが損傷している。

 きっと何かが損傷している。

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