心水体器:リリウム

前河涼介

プロローグ:戦場

1.1 雪煙

 風の上に自分の腕を押し伸べて体の重さを支える。空気を掴む。それってどんな感覚だろう。自分の肉体だけで飛行するというのは。

 雲と空の境界から一羽の鷹が静かに姿を見せる。遠い。カメラを望遠に切り替えて捉える。尾羽の形、風切り羽の模様、ノスリか。緩く右巻きに旋回を続けながら少し羽ばたいて上昇を始める。

 何の機械も介さず自分の肉体だけで飛行する感覚をイメージする。両腕を広げ、脚を伸ばしてやや開く。背中を反らさずに前方が見えるよう、首を前に出して上を向く。皮膚の周りには空気だけが存在している。その全てが私の飛行に影響を与える。姿勢、速さ、高度。わずかな掌の動きで左右にバンクする。

「碧?」レーザー通信受信のサイン。檜佐機からだ。檜佐ひさエリカが私を呼んでいる。「もしもーし、柏木碧かしわぎ へきさん?」

「何?」私は答える。

「あ、やっと通じた」ばりばりとノイズの混じった音。機体の位置を微調整して受信強度を上げる。結構シビアだ。檜佐も随分時間をかけて私のところまで信号が届かないか試していたようだ。冬で葉が落ちているとはいえ林の中だ。落葉樹ばかりでもない。トウヒやスギの葉の上には雪も積もっている。

「結構音が飛んでるけど」私は言った。

「あれ、今のはクリアだったよ」と檜佐。

「こっちも。今調整したから」脚を組み直してヒーターを少し緩める。

「さっき下にいるトリナナを見に行ったの。知り合いがいたよ」

 トリナナというのは自走火砲のことだ。鳥脚プラットフォームのFH70でトリナナ。単純明快。我々の肢闘はトリナナ隊の防空を担っている。

「そう。私に言っても憶えていないと思うけど」と私。

「向こうは碧のこと憶えてたよ」

「誰?」

「ツゲイ」

 私は檜佐が機体から降りて木の幹を伝うように山の斜面を下って行くところを想像した。トリナナの下で同い歳か一つ二つ違いの下士官と談笑する。息が白く凍る。誰だろう。思い当たらない。だいたいどんな字を書いてツゲイだったかも判然としない。

 音。ノスリと同じ雲の中から観測機が現れる。だがもっと手前だ。プロペラの回転で空気が震える。その振動の後にタービンエンジンの低音が響いてくる。

 ノスリ。そうそう、檜佐に話しかけられるまで空を飛ぶイメージをしていたのだ。機体コンピュータの中を漁ってイメージの痕跡が残っていないか確かめる。中途半端なプログラムになって残っていると後々削除するのもちょっと手間だから確認しておく。

 観測機は全身が艶のない灰色で塗り込められ、その表面に水滴の筋が汗のように這っている。繭型のすんなりした胴体の後ろでプロペラを回し、こーん、おーん、とくぐもった音で空気を震わせる。やや前線に突出して敵の対空陣地を炙り出し、もっと上空に控える電子戦機に対レーダーミサイルを撃たせる。観測機を狙ったはずの敵の対空ミサイルは電子戦機が発する偽の反射波に誘引されてほとんど真上、見当違いの方向へ飛んでいく。遠い稜線の向こうで何度か爆発があり、観測機はこちらへ戻ってくる。細長い翼を少し傾けて上空待機の旋回に入る。太陽の高度は低い。それでも南中に近い。どこか金属的なぎらぎらした光を放っている。地上を真っ白に覆った雪がその光を照り返す。それはまるで水の結晶のひとつひとつが個別の生命で、自分のエネルギーを世界に向かって次々と示そうとしているみたいだった。

 データリンクから観測機の観測装置のモニタ情報を選び取る。視界を借りる。圧倒的な広がりを持った広大な地上世界。上空からこちらの布陣が見える。稜線に沿って対空装備の肢闘隊、その後方の斜面に山林機動砲兵(トリナナ)隊、もっと後方の平野部に牽引砲の砲兵本隊が散らばっている。その本隊から戦闘配置の暗号無線。

 電源を一度ミリタリーまで開放して全身のモーターを温める。その間に生身の装備を確認して対Gシートを膨らませる。全身が羽毛布団の間に挟み込まれたような具合になる。もう十回ほどやっているがまだ慣れない。やっぱりハーネスの方がいいんじゃないかな。

 機体のセンサー類を確認する。動作は問題なし。レンズやガラスも汚れていない。斜面の下に二機トリナナが見える。視線指示灯を点滅して挨拶すると、腰部前面のハッチから顔を出している操縦手が手を挙げて返事をする。車長は砲塔の上で周りを見渡しているが気付かない。どちらもヘルメットを被って顔も黒く塗っているので歳や性別は分からない。

 無線で火点集中の指示。攻略対象の戦略爆撃機基地から北西に1キロの辺り。後ろにいるトリナナも駐鋤を打ち直して砲の仰角を微調整する。砲身の撓りも次第に収まる。

 斉射。胸腔が空気の壁に叩かれる感覚。衝撃波が辺りの枝を揺すり、葉っぱが降ってくる。砲煙と雪煙が混じって舞う。弾道はほとんど見えない。稜線の向こうなので着弾の様子も分からない。電線が震えるみたいな空気の唸りが残っているだけだ。トリナナの防楯の裏では二人の装填手が砲弾と火薬を装填アームに乗せている。最前線の戦車部隊から着弾観測の詳報が届く。間もなく第二斉射。二三門遅れる。装填が間に合わなかったというよりは砲の動揺が収まる瞬間を待ったような感じだ。鋼の筒とはいえ六メートルもあれば釣竿のように撓る。

 もう幾斉射かして撤収。トリナナは駐鋤を引き上げ最大駐退位置で砲身を持ち上げる。ゆっくりと旋回して雪を削りながら斜面を下る。木々の幹や枝を避け、谷線に沿って後退。敵砲兵のカウンターが飛んでくる。第一斉射はさっきまで布陣していた稜線に着弾。かなり集弾率が高い。正確だが誘導弾ではない。弾道が素直だ。第二斉射はトリナナの集団の二百メートルほど後方に落ちて足跡を掘り返した。雪煙が辺りを飲み込む。一気に視界が通らなくなる。

 近くに敵の観測役は見当たらない。ということは対空ミサイルの射程外から見ているのだろうか。するとかなり画が薄くなるし、起伏で視界が遮られる。

 開けた谷あいに出て右に転進。ユーコン川の氾濫原の縁を下流へ向かう。左へ大回りして後方の警戒。一小隊の方が二小隊より内側を回る。ツンドラのような疎らな林を突っ切る。木々の間を走り、倒木を踏み越える。


 その時、嫌なものを見た。左手、ずっと遠く。木の板だった。生木の板。最初は欠片のように見えたが雪の中に埋まっていた。さしずめその下の雪を固めておいて、上には柔らかい雪をかぶせている。板のスロープの下に埋まっているのは戦車だろう。全身を埋めておいて退避の時にはスロープを上って雪の上に出られるようにしている。しかし味方の部隊などいないし、戦車などどこにも見当たらない。見えないだけだ。可視光だけでなく、レーダーや赤外線でも見えない。一面の雪だ。その下に隠れているのだ。

 敵のカウンターの第三射。トリナナの周りに落ちる。機影が雪煙に飲み込まれる。こいつらが観測していたのだろうか。しかし無線の類も感知できない。どこか稜線の上までレーザーを飛ばして、あるいは有線を引いてそこからまたレーザーで陣地か航空機に送っているのか。

 だが、どうする。知らせなければいけない。でも気づいたことに気づかれれば周りから戦車が出てきて囲まれる。命がない。かといってそのまま離れて相手に有利な距離で発砲が始まるだけだ。とりあえず中隊の中だけでもレーザーで伝えておこう。そう思った矢先だ。

 檜佐が撃たれた。


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