第6話 人も獣も、朝ご飯


 チュンチュンチュンと小鳥たちのさえずりが、頭の上の方から聞こえる。

 室内に漏れ入ってくる朝日の薄明かりの中、タケトはまだ微睡まどろんでいた。


「ん――……」


 のろのろと寝返りを打つと、手元にある枕に顔を埋める。枕は弾力のある柔らかさで、ほんのりとした温かさが頬に伝わってきた。小鳥たちの声はもう朝だとしきりに訴えているようだったが、まだもう少し微睡まどろんでいたくて、タケトは枕を抱こうと手を伸ばす。その手はモフッとした、何か柔らかな感触のものを手のひらいっぱいに掴んだ。


 あれ? 慣れた自宅の布団の感触とは、何かが違う。でも、いつもよりずっと心地よい。タケトは手に触れる柔らかさがとても気持ちよくて、何度も何度もさわさわしながら夢の中にいた。


 でも少し目が覚めてくると、違和感が強くなる。枕が、というか寝ているベッド全体が、ゆっくりと上下を繰り返しているような奇妙な感覚。なんだろう、これ。


「……んー?」

 寝ぼけた頭のままタケトは薄らと目をあける。まず目に飛び込んできたのは、真っ黒な寝具だった。


(あれ……俺んちの毛布ってこんな色してたっけ……? いや……どこだ、ここ……)


 ようやく、ここが自宅にある自分のベッドの上ではないことに思い至る。手元にある毛布は真っ黒で、しかもやたら毛が長い。手でその毛をすくい上げると、指の間から長く黒い毛が垂れた。それをしばらくぼんやりと眺める。


(なんだっけ……これ……)


 タケトはベッドに手をついて身体を起こすと、もしゃもしゃと頭を掻いた。なんだか、ベッドがふにゃふにゃと柔らかくて、じんわりと熱を持っている気さえする。


「……?」


 ここ、もしかして、ベッドじゃない? 

 そう気づいた瞬間、さっと意識がはっきりした。え、これはもしや……と頭を掻く手の動きを止めて、恐る恐る顔をあげると。


 目の前に、ハッハッと真っ赤な舌を出してこちらを見下ろしている、巨大な黒犬の顔があった。タケトの身体などパクリと一口で飲み込めてしまいそうな巨大な口。そしてタケトの頭よりデカい、テラテラと光る真っ黒な二つの瞳が、こちらをじっ……と静かに見下ろしていた。

 いつのまにか、タケトはウルの腹の上で寝ていたようだ。


「ぎゃああああああああああああああ!!!!!!!!!!」


 思わず、悲鳴をあげていた。

 そして、ウルの腹から転げ落ちるように逃げ出したものの、納屋のはじっこまでたどり着いたところで、腰をぬかしたようにへなっと座り込んだ。


 そのとき、勢いよく納屋の扉が開き、心配そうな女の子の声が飛び込んでくる。


「ど、どうしたのっ……!?」


 開かれた扉の外から薄暗い納屋の中へと、朝の強い日差しが差し込んでくる。その光の刺激に目を細めながら、タケトは光の中にいる少女に目を向けた。そうだ。ここは彼女の家で、彼女はシャンテとか言ったっけ。覚めてきた頭でぼんやりと、タケトはようやく自分がここにいる理由を思い出した。


「そのっ、目が覚めたら、でかい口が目の前にあったから、びっくりして……」


 そのタケトの様子を見て、シャンテはきょとんと瞬きしたあと、すぐに顔を綻ばせてころころと鈴が鳴るように笑いだした。


「くっついて寝てたの? もう、そんなに仲良くなったのね。良かった! さあ、朝ご飯食べましょう? こっちに、来て」


 すっかりウルと仲良くなったなんて……まったくもってそんなことはないのだけど、いちいち否定するのもなんだか悪い気がして、タケトは黙って彼女についていく。

 今朝はすんなりと母屋の方にあげてくれた。


「ごめんね。部屋余ってるから、タケトにもこっちで寝てもらおうと思ってたんだけど、カロンとブリジッタが、同じ屋根の下で独身の男女が一緒に寝起きするのはよくない。タケトには納屋で寝てもらえっていうから」


 そんな事情でタケトは納屋行きになったらしい。まぁ、それはいいとして。

 母屋の一階は玄関などもなくいきなり部屋になっていて、木製のテーブルに数個の椅子、それに壁際にタンスが一つと暖炉があった。ここがダイニングといったところなのだろう。あまり物のない、どちらかというと殺風景な部屋だった。シャンテの寝室は二階にあるのだろうか。


 彼女はまだ十代後半といった年齢に見えたけれど、ここにウルと二人だけで住んでいるらしい。他の家族や両親はどうしたのだろうと少し気にはなったが、昨日知り合ったばかりの分際でそんな込み入った話なんて聞くことはできなかった。


 ただ、暖炉の上に飾ってある一枚の絵が少し気にはなった。誰が描いたのだろう。

もしかしたら、シャンテが描いたのかもしれない。あまり上手いとは言えないその素朴な絵は、どこかの田舎の風景のようだった。切り立った高い山のふもとにある、小さな町の絵。赤いレンガの家々や水車、それに羊のような家畜が描かれていた。村人たちの素朴で、質素だけど穏やかな生活が想像できるような、そんな絵だ。


 暖炉の前でその絵を眺めていたら、シャンテが戻ってきた。彼女の手には持ち手のついたカップが二つと、丸っこいものが四、五個のった大皿がある。それらをテーブルに置いて、シャンテは椅子に座る。タケトも向かいの空いている席に腰を下ろした。そして、シャンテがするのを真似して、テーブルの真ん中に置かれた大皿の上から、丸っこいものを一つ手に取った。パンのようだ。どうやらこれが、朝ごはんらしい。


 パンはいわゆる黒パンというやつで、かなり固い。噛むとほんのりとした酸味が口の中に広がった。カップの中身はドロッとした黒い飲み物だ。なんだろうこれ、と恐る恐る口に含むと酸っぱさと苦みのある薄いビールみたいな味がした。あまりアルコール度数は高そうにない。


 パンもビールも、どちらも普段タケトが口にしていたものより癖と雑味が強い。しかし、食べ物を口にして初めて、自分が酷く腹を空かせていたことにタケトは気づく。考えてみると、タイへと向かう飛行機の中で機内食のランチを食べて以来、何も口にしてはいなかった。そりゃ腹も空くだろう。タケトはもそもそと黒パンを噛むと、カップの中のビールらしきものでいっきに流し込んだ。


 朝ご飯のあと、タケトはシャンテに連れられて外に出る。シャンテの家は森と街のハザマのような位置にあった。家を出てしばらく森沿いに歩くと、その森を貫くように走る一本の幅広い砂利道に出た。人通りは多く、徒歩の人たちだけでなく、馬車や荷馬車も多く行き交う。


 その道をさらに数百メートル歩くと、突き当たりに立派な門が現れた。門番をしている衛兵たちに挨拶をしてその門をくぐると、目の前に広がるタイルで装飾された大広場。そのさらに奥には、シャンテの家とは比べものにならない、大きく立派な建物がそびえていた。


シャンテが言うには、ここが昨日タケトが意識を取り戻した、あの建物らしい。昨日帰るときにはもう日が落ちた後だったので外観まではわからなかったが、今日、明るい日差しの中で見るとはっきりと分かる。


(うん。いわゆる、宮殿って奴だな、これ)


 まさしく『宮殿』とか『城』と呼ぶのがぴったりくるような外観の建物だった。ヴェルサイユ宮殿とかバッキンガム宮殿に似たような、横に長い構造の五、六階建ての建造物。金色の細やかな装飾が施された窓が、整然と並んでいる。


 シャンテたちは、ここを『王宮』と呼んでいるようだった。


 その王宮の周りを深い森が囲んでいる。この森全てが王宮の直轄地なのだという。

 ウルとは森の入り口で一旦別れていた。そのあと、ウルはどこへともなく森の中へと姿を消してしまっていたが、シャンテたちが王宮の裏手に回ると、そこにあるちょっとした野っ原にウルがちょこんと行儀良くお座りをしていた。森を駆け抜けて先回りし、ここでシャンテたちが来るのを待っていたらしい。


  そこへ、よいしょよいしょとふーふー言いながら台車を引っ張る、腹の出た中年男性がやってきた。その台車の上には、太い動物の骨のようなものが山になっている。まだ、赤い肉が骨に残り、その肉から血が滴っているものもあった。


「いつも、ありがとうございます。ゲルナーさん」


「ああ。シャンテちゃん。お早う。いや、なに。国王陛下の直々の命令だしね」


 ゲルナーと呼ばれた男は腹をゆさゆささせながら止めた台車の上に上ると、大きなフォークのようなもので台車から、骨の山をウルの前へと降ろした。ウルは、尻尾をパタパタさせて、待ちきれないという様子でお座りしている。


 そして、シャンテの「食べてもいいよ」の言葉で、骨に食らいついた。バリボリと小気味よく骨が砕ける音がする。その食べている姿は豪快で、野性味あふれていて……なんていうか、俺、昨日こいつの腹の上で寝てたんだよな、よくこの骨みたいに喰われなかったよな……とタケトを不安にさせるのには充分な食べっぷりだった。


 ウルの食事風景に心の中でどん引いていたタケトとは違い、シャンテにとってはいつもの光景らしく、優しい眼差しをウルに向けて「いっぱい食べてね」とその前足を優しく撫でている。


 ゲルナーはこの王宮で料理長をしているコックらしい。彼が話してくれたことによると、この王宮で食事を作るときに出るくず肉や骨のガラをウルのために取っておいて、こうやって数日おきにエサとしてあげているのだそうだ。そりゃ、これだけ大きな身体をしている肉食獣だもの、相当な量のエサが必要だろう。それをいちいち自分で買っていたら、あっという間に破産しそうだ。


「さてと。ウルの食事が終わったら、今日は魔獣保護園の方、見に行こうか。ウル、乗せてくれる?」


 シャンテの言葉がわかるのか、ウルはご機嫌な様子で『ワフッ』とひと言吠えると前足を前に伸ばして、「乗れ」というように伏せをした。ウルの奥歯にはまだ牛の後ろ足みたいなのが挟まっていて、それがウルが動くたびに口の端でぷらぷらしている。その光景が、さらにタケトの中のウルへの恐怖心を煽るのだった。

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