第7話~恋はトマトと梅干しと中濃ソースとチョコレート味 前編~

 じめついた空気が身体に纏わりついていた。生暖かい風が頬を舐めるように通り過ぎてゆく。天高く、遠くに昇った太陽の光はここまでは降りてこない。どこまでも暗く、光の届かない世界。

 パークセントラルにあるジャパリ総合体育館裏、そこでタヌキは絶体絶命の危機に直面していた。

「うふふ……。タヌキさん、今日何故ここへ呼ばれたか、もうあなたならわかるでしょう………?」

「あわわわわわわわ…………」

 目の前のコモドドラゴンが不敵な笑みを浮かべながら尋ねる。その有無を言わさぬ物言いが今の二人の立場を完璧なまでに表わしていた。

 数日前彼女からタヌキの元に届いた一枚の脅迫状もとい果たし状。そこに書かれていた一文は今日という日を迎えるまでタヌキの精神を極限まで蝕み続けていた。

 食事も喉を通らず、日課の書道もぱたりとやめてしまった。筆を握る右手がこんなに弱く、大きく震えているのを見るのは初めてだった。

 寝床から出ることすらままならず一日中布団を被っては震える日々を過ごす。そんな彼女を見てフェネックは『かたつむりだー』と笑っていたが、毎日欠かさずジャパまんを届けてくれるその優しさが有り難かった。

 ある日彼女が差し入れと一緒にPIPのファーストライブDVD持ってきてくれた。今ではプレミアがついて入手困難になっていたものを一体どこから入手したのか。相変わらず彼女は答えようとしなかったがとにかく気を紛らわしたくてその日初めて布団から出た。

 暗い部屋にぼんやりとテレビの灯りが灯る。画面越しからでもわかる躍動感、ファーストライブとは思えないそのパフォーマンスの完成度、やっぱりPIPは凄い。

 思えばPIPを好きになったのも彼が好きだと言っていたからだ。このファーストライブ後に彼が意気揚々とPIPは凄いと言い回っていたことを思い出す。二度目の再生で観客席が映る度に目を皿にして探したが彼の姿は確認できなかった。

 彼がタヌキの家を訪ねてきたのはその翌日のことだった。徹夜でDVDを鑑賞していたこともありきっと酷い顔だったに違いない。

 彼は何か悩み事があるなら相談に乗ると言ってくれたがあなたが原因で恋愛抗争に巻き込まれたなどと言えるはずもなく、結局その日はそのまま無下に帰してしまった。彼は自分が台風の目だということを知らない。どこまでも鈍感で、その鈍感さの上に成り立っている世界のことを知らない。

「あなたとは初めてお会いした時から一度、“腹を割って”話したいと思ってましたの」

「は、はははは腹を割ってって……」

 思わず自分のお腹を抑える。この前は威勢良く純情ぽんぽこ音頭と叫んでいたのに今のタヌキから出てきた声はその十分の一にも満たない、実にか弱いものだった。

 彼女のふふふ、という不気味な笑い声が耳にこびり付いて離れない。耳を塞いでもその声が呪文のように身体中を這いずり回り、全身を支配する。

 やはりフェネックを護衛につけるべきだったか。昨日あれだけ頼み込んだのに彼女は結局タヌキの願いを聞き入れなかった。『大丈夫大丈夫~』と耳を揺らしながら飄々とする彼女に一体何が大丈夫なのか、と詰め寄ったが最後まで危機感を覚えていたのはタヌキ一人だけだった。


『だからタヌキはコモモのこと誤解し過ぎなんだってー』

『でっ、でも!わざわざあんな所に一人で来いなんて呼び出すってことは……。わ、私、シメられちゃったり……』

『そんなひと昔前の恋愛ドラマじゃないんだから……。大体この手紙見てみなよ。園長大好き、なんてこんな可愛い丸文字で書くような子がそんなことすると思うかい?』

『そ、それは……』

『とにかく、何回も言うけど彼女は別に悪い子じゃないよ。タヌキも一回ちゃんと話し合えばわかると思うなー』

『う、うん……』


 しかし今眼前で構えている彼女はどうだろうか。人形のように整った口元を不自然に歪ませ微笑むその顔からはまるで生気というものが感じられない。機械がそうプログラムされてただそれを実行している、そんな無機質さすら感じられた。

 確信する。もはや彼女は言葉が通じるような相手ではない。手に持った表紙の黒いノートがまるでこれから起こる不幸を予言しているように見えた。

「……さて、あんまり焦らすのも良くないしそろそろ始めましょうか」

 そう言うと彼女はおもむろにノートを持っている手とは逆の手をゆっくりと持ち上げた。

 一コマ一コマが一時停止しているかのように切り替わってゆくのを見ながら、あぁ、死ぬ直前というのは本当にスローモーションになるのだな、とどこか他人事のように感じていた。

 彼女の懐から現れた赤いきのこに意識が集中する。

 このきのこは今まで何人の血を吸い続けてきたのだろう。彼女に楯突いた者は皆このきのこに喰われ、その実をますます猩々とさせてゆくのだ。そんなB級映画じみた妄想がたまらなく今の状況に場違いで思わず笑いそうになる。こんな今際の際でもそんなことを考えられるなんて結構度胸があるじゃないか。最後の最期で、自分を褒めた。

 そして血に染まったような赤いきのこがタヌキの目の前で、弾けた。パァン、と虚空を切り裂きタヌキの頭の上をひらひらと紙吹雪が舞う。

「第一回、コモモとタヌキのジャパ之手線ゲーム。お題は園長さんの好きな、と、こ、ろ♡」

「………………へ?」

 一瞬何が起きたのか理解できなかった。腰を抜かして尻もちをついたタヌキをパフパフ、と場違いなまでになさけない音が迎える。全身の力が抜けていくような、そんな間の抜けた音だった。

「あら……?ライチョウさんの台本通りにやったのにちょっと刺激が強過ぎたかしら」

 残念、と独りごちるように言いながら彼女は膝をくの字に曲げると、地面に散らばった紙吹雪をおもむろに拾い集め始めた。汚れても構わないといったように彼女のスカートの裾が地面につく。澄んだ瑠璃色のフリルが茶色くなっていくのが見えた。

 その時になってようやくタヌキは自分の身体が解放されたように軽くなっていたことに気付く。

「あら……?」

「わ、私も……手伝う。こんなにたくさん、一人じゃ大変だろうから……」

「うふふ……。ありがとう」

 そのまま二人は暫く黙ったままバラバラに散らばった紙吹雪を一枚一枚拾っていた。足を屈めて見た地面は思ったより乾いていた。日の位置が変わり少しずつ足元を照らす光が増え始める。

「この辺り、園長さんのお掃除ルートから外れちゃってるの」

 先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「え?」

「園長さん、毎朝自主的にこのパークセントラル周辺のお掃除をしているのだけど、この辺りはちょうどそのルートから外れてるの」

「う、うん……。私もそう思ったから綺麗にしておかなきゃって……」

「うふふ……。まさか園長さんのお掃除ルートまで知ってるなんて。今日は楽しいゲームになりそうね」

 彼女が笑った。画になる、と思った。

 先程人形のような無機質さだと言ったがそれは少し違う。彼女は完成されているのだ。絶対的な美貌とそれを裏付ける自信、隙と呼べるものが存在しないその楚々としたイメージはまさに西洋のお伽噺から飛び出てきたお姫様そのものだ。浮世離れした現実味のない存在は、時として人を恐怖させる。

「げ、ゲームってやっぱり死の……」

「何を言っているの?私はただあなたと純粋にお話したいと思ってライチョウさんと一緒に企画したのよ。……まぁ、あまりお気に召さなかったようだけど」

「そ、そんなことない!わ、私臆病だからちょっとビックリし過ぎちゃっただけで……。本当は……とっても嬉しかったの」

「ふふ……なら良かった。きっとあの子も喜ぶわ」

 最後の一枚を拾い上げる。一度地面に落ちてもなおその光を失わずにいたそれをゆっくりと彼女に手渡す。二人分の紙吹雪がようやく一つにまとまった。

「……わ、私、あなたのこと、誤解してた。ごめんなさい」

「慣れっこよ」

 よくあることだから気にしないで、と付け加える。ただの強がりなのか、それとも本気でどうでもいいと思っているのかは判らなかったが、不思議とそこに悲しみは感じられないように聞こえた。

 彼女は強い。他人から自分がどう見られているのかなどまるで興味がないというのは、真に自分に自信のあるものにしか許されないスタンスだとタヌキは思う。一体何が彼女をそうまでして強くさせたのか、タヌキはもう気付いていた。

「えっと……コモドドラゴンさ……」

「コモモでいいわ」

「あっうん。コモモ……さんはいつ園長さんと知り合ったの?」

 彼女は微笑む。長くなるわよ、と。それでも知りたかった。彼女のことを。もっと。もっと。

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