ラナとまおうさま

結城 慎

プロローグ ~ 少女とラナ ~

 薄暗い部屋の中、少女が見つめる視線の先、堆積した埃でひどく汚れた床にぼぅっと微かな灯りが点る。その光は俯瞰で見れば床に円を表し、その中に走る何本もの線は幾何学的な模様を描き出していた。それはしるし。描き出された模様により超常の現象を起こす、魔方陣と呼ばれる魔の業。

 平凡な人の身では生涯見ることの無い光景だが、少女は別段何を思う様子もなく魔法陣へとゆっくりと近づいていく。まるで恐れることもなくただゆっくり、ゆっくりと。コツコツと乾いた音を響かせながら魔方陣へと近づいた少女は、静かに光る魔方陣の円の縁でその足を止め、その両の手を魔方陣の上へと翳す。



「––––」



 二・三度、少女の唇が小さく動く。聞き取れないほどの微かな呟きに反応してなのか、先ほどまで頼りない光を放っていた魔法陣は突如激しく力強く輝きだした。



「懐かしい………… ひかり」



 はるかに想いを馳せているのか、遠い目をしながらポツリとこぼす少女の言葉に応えるかのように、光は揺れ、少女の濡れた頰を照らし出す。

 魔方陣から溢れる光を暫く見つめていた少女だが、やがて「ふぅ」と小さく息を吐くと、その瞳に力を滾らせ、誰へとなしに宣言する。



「………… 始める」



 少女は瞼を閉じる。目尻からこぼれた雫が再びその頬を濡らすが、拭うこともせずにただ小さく息を吸い込んだ。逡巡か何かの機を伺っているのか、一拍、二拍と部屋を沈黙が支配する。そして………… 幾拍の後、少女は瞼を開くと、その薔薇の花びらのような小さな唇から、まるで歌うかのように言葉を紡ぐ。



「■■■■■■」



 それはある権能を持つものだけが唱えることのできる強い言霊を帯びた言葉。たとえこの場に少女以外の者がいても、果たして幾人がその言葉を聞き取れ理解することができたか。いや、おそらく誰も理解することはできないだろう。そんな不可思議な言葉は、床に描かれた魔法陣真理と結実し一つの現象として力を顕す呼び水となる。



「さぁ」



 少女は目を開く。魔方陣から溢れる光は更に強さを増して部屋を満たし、音もなく揺れる空気は、まるで部屋自体が笑っているかのようである。

 少女は掲げていた手を戻し、胸の前で組みなおす。



「来なさい」



 短く、しかし力強い少女の呼び声に、魔方陣は応える。 

 まるでこの世ではない場所へと繋がる通路を創り出すかのように溢れる光は収束し一条の光の柱を成す。

 やがて光の中に一つの蠢く影が現れる。

 影は光の柱を、まるでそれは雛鳥が卵の殻を破るかのように何度も何度も内側から叩く。周囲には「ミチリミチリ」と濡れた分厚い膜でも破るかのような音が響き渡り、本来実態を持つはずもない光の柱は、やがて水風船が割れるような鈍い水音を響かせながら砕け散った。

 そしてそれは顕現する。

 それは少女が–––– いや、つい先ほど当代の魔の王と成った彼女が、自らの権能で生み出した最初のシモベ。人々から【魔物】と呼ばれ忌避される存在。

 魔王よりも一回り小柄な赤毛の少女の姿。しかし、その下腹部と背中より二十六本の悍ましい触手を生やした、まさに魔物にふさわしい姿。

 魔王はまだうまく体を動かせない生まれたばかりの魔物に近寄ると、身を屈め、その赤毛を愛おし気に撫ぜる。まるで少女の脳裏に浮かんでいる光景をなぞるかのように、ゆっくりと何度も何度も。その表情は慈愛に満ち、この姿だけ見れば誰も少女が魔王という名を冠する存在だとは夢にも思わないだろう。

 魔王は魔物へと語りかける。



「お前の名前は…… ラナだ」


言葉が理解できていないのか、頭を撫ぜる魔王に、魔物は上目遣いで不思議そうな表情を作る。


「そう、ラナだ。私の最初に創り出した愛おしい存在よ」


魔王は立ち上がる。


「共に征こう、永遠を掴むために」


魔王は、頭を撫ぜていた手を名残惜しそうに見上げていた魔物に微笑みながら手を差し伸べる。その頬を濡らしていた涙は既に渇き、その瞳には王たる強い意志が宿っていた。


「そう、必ず」

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