第1話 正直者の王子様
女神ヴィーナ
虚無の世界に創られたとは到底想像できない程、空は青く澄んでいて美しく、黒以外の多彩な色から為る景色は目を奪われるものがあった。
女神の手によって導かれた“物語”の中のこの“世界”には、生まれて育まれた歴史があり、生命の移ろいがしっかりと存在していた。
乾いた土壌に草が茂り、暖かな風に吹かれて揺らめいている。澄んだ青と草の緑、そしてその奥に霞んで見える人工的な暖色の外壁が、自然物と人工物の見事な調和を醸していた。
「さて、どんな人がいるのだろうね?」
「さぁ、私には知る由もありません」
その風景に溶け込む、不自然な人間。いや、人間とその形をした女神。どちらも黒を基調とした服を身に纏っていて、特に女神ヴィーナは刺繍が施された、目を奪われるほどの美麗さを宿したドレスを見事に着こなしていた。
「あの国に向かわれますか?」
タキシード姿の金髪金眼の少年グラは問いかける。すると、優雅にまったりと首を振ったヴィーナが、それに続いて言った。
「……そう、焦らなくてもいいだろう。
静々と麗しい声音でヴィーナは伝えた。グラは頭を垂れて、同意すると、
「……わかりました。では、持ち寄ったプリンでも食べながら、待ちましょう」
どこから取り出したのか、布に包んだ器に入った艶のあるプリンと銀の光を煌かせるスプーンをヴィーナのもとに差し出す。ヴィーナは表情を嬉々とさせて、
「……流石にわかっているじゃないか。……グラ、ありがとう」
口元を綻ばせて、一口、ツルっとした口触りのプリンを口に運んだ。
「……あの、申し訳ないのですが、何か食べ物を恵んでいただけないでしょうか?」
ベージュの柔く暖かな色をした家の壁とレンガの橙色の屋根などから為る、とある国の街。似たような家々が立ち並び、一度道に迷えば抜け出すことが困難な迷宮にだって思えた。
広大な丘の斜面に創られたこの街は、丘の頂上、そして、街の中心になるその場所に巨大な黒色の王城が建てられていて、そこに向かうためにはどこも坂道になっていた。街の中心に向かうほど、つまり王城に近づくほど、人の地位は高くなっていって、逆に言えば、中心から遠くなるほど民度は低くなる。
その民度の低い、スラム街にも似たようなそのとある場所で、やけにやつれた褪せた金髪と赤眼の細身の少年が、ボロボロの服を身に纏って、四十台の女性に聞いた。
「……えっ? あんたはもしや、あの愚王の息子かい。ダメに決まっているじゃないか。嘘つき者にやる飯なんてうちにはないよ。ほら、帰った」
そのやつれた表情の少年の顔を見た瞬間、女性は顔を
「……お腹が空いて、倒れそうなんです。どうか、どうかお願いします」
痩せ細った少年の体つき。一目見るだけで言っていることは真実に思える。けれど、
「知らないね。罪を犯し、国民を裏切った愚王の息子家族の言葉なんて、信じるに値しないね。私達は日々の生活に精一杯なんだ。飯なんてやる訳にいかないんだよ。ほら、早く帰れ!」
懇願し、頭を深く下げる少年を手で払い、近づくなと忠告するような動作をした。憎しみすら覚える怒号で強く
「……どうか、どうか」
弱々しい少年の声が、人の少ないその場所に消えて無くなる。そして、
「……どうして、僕がこんな目に。……嘘なんてついていないし、父上は何も悪くないのに」
自分の境遇を悲観した少年は枯れそうな声で、言葉を漏らす。
「嘘つき者は大臣なのに。なんで、僕達家族の言葉を信じてくれないんだよ」
ひどく疲れたその体。気力で動いていると言って過言でもないのに、その苦しみから言葉を漏らさずにはいられなかった。
彼の名をレント。前国王と妃の間に生を
しかし、一月前ほど、その状況は一変し、彼に悲劇が襲ったのである。
夏に近づき生暖かい雨がザァザァと降り頻る頃、国内に一本のニュースが舞い込んだ。国民に愛されていた前国王が、国民から徴収した税を自己の利益のために利用し、使い潰しているというものであった。
自分の部屋に飾るような貴金類や装飾品を買い漁り、売春婦を城へ呼んで、酒池肉林の毎日を過ごしていると国内の記者に報道されたのである。
「……違う。そんなことなどしていない。私は国民の大切な財産を使い潰すわけないだろう。誰か
国王様は強く民衆に訴えた。真剣に、ただ己の無実を。しかし、
「……私は国王の不法行為を告発する」
必至の訴えに民衆は国王を信じ、収束しかけたその時、大臣が声高らかに宣言した。
「私は、この目ではっきりと見た。邪な心を持った王が、国民の財産に手をかけるところを。証言者も私以外にもいる。優秀な私の部下達が、私と同じような光景を何度も見たと言っている。くだらぬ嘘に騙されぬ正しき心を持った民主達よ、どうか私の告発の意味を強く受け止めてほしい」
王族の家系を除いた権力者の中で、国の次席の地位を担っていた大臣の言葉は、民衆に向かって放たれ、信じ始めていた民衆の心を大きく変えてしまった。
「……違う。私は知らない、そんなこと、やっていない」
国王は再度訴えた。自分のあらぬ疑いを晴らすために。
「……誇り高き王国の民衆よ、考える力を持った賢き民達よ。今こそ、立ち上がる時だ。民を裏切った悪しき王を、そなた達の手で断罪する時だ。私の言葉を信じる者達は、立ち上がるのだ!」
しかし、民衆の心は大臣の言葉に傾いた。国の意思は、民衆の意思は、国王が仇為す存在だと認めたのである。
「信じてくれ、私は無実だ」
「黙れ、裏切り者。俺達の税をむしり取って、豪遊していたお前は、神が許したとしても、俺達は
「あんたが今まで取った、税金を全て返せ。それは、私達のもんだ」
「この国に近寄るな。ここは、俺達の国であって、お前が居ていい国ではないんだ」
最初は、国王を信じて、認めようとした人々も、大臣の鶴の一声から、連鎖的に手のひらを返していって、
「民よ、三度私の声を聴いてほしい」
非難を浴びせ続けられ、
「……
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
大臣の演説に歓声が沸き上がる。そして、少し止んだ時に大臣は声を張り上げて言う。
「だが、この国にはまだ愚かな王とその血族がのうのうと生きている。
「そうだ、そうだ!」
「見事な判断だよ、大臣!」
「次の国王は、大臣にするべきだ。いや、今からこの国の王は大臣だ!」
「それがいい、新国王!」
大臣の言葉に導かれた人々は、
「さぁ、まずは血族の地位を、私達の手で地に落とそうじゃないか!」
そして、始まった元国王になった家族達への抗議デモ。王城に立て籠もり、事態の収拾がつくのを、待ちわびていた妃とレントに外部から罵倒と非難が襲い来る。
「愚王の血族よ、その血で以って、我々に償え」
「早く出てきて、謝罪しなさい」
王城の美しい窓に罵詈雑言の嵐が吹き荒れ、軋むように揺れた。時に石や強固な刃物が飛んできて、窓を突き破り、部屋に侵入した。
「……大丈夫、大丈夫だから。あなたの偉大な父親が、きっと信頼を取り戻してくれるから。……だから、今は我慢して、レント」
レントの記憶の中に深く刻み込まれた母の言葉だった。だが、しばらく後、二人を今なお護衛し続けた執事の男からの知らせを気に、母の記憶は消えていったのである。
「……妃様、王子、僭越ながら、ご報告がございます」
「どうした?」
「――誠に残念ではありますが、国王陛下が遺体で発見されたとのことでございます」
「……嘘、でしょう? あなたは、嘘をついているのでしょう? そう言いなさい。私が嘘を吐きましたと、そう言って」
妃の何かに
「そんな、そんなわけが」
言葉にならない、絶句の声が微かに漏れた。動揺を隠しきれない母に、息子のレントもまた理解が追い付いていなかった。執事は、二人を優しく諭すように、ゆっくりと話をする。
「話によれば、腹を鋭利な剣で一刺しされ、そのまま
「……そんなこと、私は知らない。私は、私は認めない。最も大切な我が夫がこの程度のことで死を選ぶなど、絶対に信じない」
妃は狂乱した。部屋にある装飾品を、大切な家族の思い出の品を、その手で振り払って、破壊して、
悲哀に満ちた母の姿に、レントは声を掛けることもできず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
レントの記憶はそこから、途切れ途切れになっていた。特に、母親の妃だった人の記憶が、少しずつ霞んで、
そして、元国王の父親が非業の死を遂げた、僅か数日後、母親は“命を絶った”。
「……レント、ごめんなさい。私はあの人のところへ行きます」、そう、書置きを残し、猛毒の液体を摂取し、苦しみ悶えながら死んでしまった。
レントは慟哭した。そして、この世を憎しんだ。己の無力さを悔いた。なぜ、自分達が国王の一族であったのか、普通の家庭でなかったのか、王子だったのに何もできなかったのか、自問自答しても永遠に答えなどでない悩みを何度も繰り返し考えて、そして、途方に暮れた。
「レント様、私達が忠義を尽くせるのは貴方様しかいません。どうか、苦しい生活にはなるでしょうか、身を投げ出さず生きてください」
懇願するように訴える執事の声が、何とか、最悪の結末に向かうことを引き留めたのであった。
それから、現在に至るまで、執事の補助を受けながら、城を抜け出し、レントは貧しく生きていた。付き従っていた執事の何人かが、暴動に巻き込まれ、血を流した。それを見かねたレントは、「僕の近くにいなくていいよ。もう、君達が傷つく姿を見たくはないんだ」と優しく言って、執事と自分との距離を開けたのである。
そして、レントは、痩せ細りながらも、執事の願いを裏切らぬために、必死に生きていた。
「あの大臣が国王。絶対に間違っているはずなのに、どうして、気づいてくれないんだろう」
ボロボロの布切れを身に着けたやつれた表情のレントは、スラム街と言っていいこの付近の住人よりも酷く残念に見えて、人間と言うより、奴隷か家畜のように思えた。
「……誰もいない。もう、頼れる人も」
辺りはシンとしていて、静寂の最中にあった。弱々しく、生気のない彼の声が、存外に響いて聞こえるくらいに。
倒れ込んだ体を、おもむろに、持ち上げ、ふらつきながら立ち上がった。すると、
「……やはり、グラの作る料理は最高だ」
とても薄く、消え入りそうな声が、今にも意識を失いそうな彼の耳にツンと響いた。そのか細い声が、幻聴でないことを心で祈り、トボトボとレントは歩き出した。
「誰とも会わないな。やはり、妾達も街に向かうべきであっただろうか?」
どこからか引っ張り出したのか、深く腰掛けられる座り心地のいい木製の椅子に足を組みながら座るヴィーナはそう言う。
「……さて、どうでしょうか。私には何とも。ただ、全く関係はないのですが……どうも、不穏な気配を感じます。この感覚は何なのでしょうかね」
「おや、気が付いたのか。流石はグラであるな」
納得するように首肯しながら、ヴィーナは微かに笑った。
「この物語は“妾”が書いているから、結末は大体理解している。グラの胸騒ぎの理由もな。……とはいえ、まだその兆候すらないのに、よくそれを感じた。流石は神の従者と言ったところか。勘が鋭いな」
「とんでもないことです。ヴィーナ様のお力添えがあるからこそ、それが為すことができるのですよ」
「いつも、嬉しいことを言ってくれるな。やはり、グラはいい子だ」
「ありがたき幸せ」
二人で笑みを
「……誰だ」
途端に強張った表情に変わったグラは、主に肉薄しつつある少年を
「僕はレントと言います。誠におこがましいお願いではありますが、何か食べ物を恵んではいただけませんか?」
街から外れた荒野の大地を、ふらつきながら、女神ヴィーナに近づいていくレントの行く道を遮り、その眇めた瞳をさらに鋭く尖らせる。
「……あなたは、この方の存在を理解していない。あなたのような
タキシードの内に忍ばせた鋭利なナイフに手をかけつつ、殺気をにおわせながら言い放った。
「……申し訳ありません。逆鱗に触れたのであれば謝罪いたします。ですが、僕は数日まともな食事を摂っておらず、時期に餓死してしまうかもしれない。どうか、どうか」
地面に頭を擦りつけ、靴でも舐める覚悟でレントは懇願した。
「くどい、あなたにそんな資格はない。ここで、殺してもいい……」
「まぁまぁ、グラ。そのくらいのところにしておくのだ。妾は別に
傍らで座るヴィーナは荒ぶるグラを
「……どうやら、君が“主人公”のようだね。ここで衰弱死してもらっては、妾としても些か残念だ。グラ、この子に何か美味しいものをあげてくれ」
「――ヴィーナ様がそう、おっしゃるのであれば、わかりました。レントと言ったな。残り物のサンドウィッチだ。ヴィーナ様に感謝しながら食べるといい」
「ヴィーナ様、従者様、至上の感謝を」
むしゃむしゃと家畜の豚が残飯を漁るように、編みこんだバスケットに入った幾つかのサンドウィッチを口の中に放り、胃に蓄えていく。
「……美味しい、美味しい、美味しい。どうして、こんなに美味しく感じるんだ」
「それはきっと、余程君のお腹が空いていたからだろうね。まぁ、妾の舌を唸らせるほど、グラの腕は一流であるから、それと相まって余計にそう感じるのだろう」
ふふふっと、自分自身が作ったものを自慢するかのように、嬉々として微笑を浮かべるヴィーナ。夢中になり過ぎて、レントは気にも止められない様子だった。
「……ふ~っ。十分にお腹が満たされました。旅のお方、本当に感謝を致します。僕にできることがあれば、微力ながら何かさせていただきます」
満足したのか、ややその肌が、色を取り戻したように、僅かに艶が戻っていた。表情も幾分か柔らかくなっている。
また、足を組みかえて、ヴィーナは口元を
「君は少し勘違いしているようだが、妾達は旅をしているわけではないのだよ」
深く腰掛けるヴィーナのすぐ近くで、主を守るように侍るグラ。一定距離を保ち離れるレントの脳裏に薄く広がる疑念。レントは小さく首を傾げた。
「と言いますと、どういう訳なのですか?」
問いかけるレントに、ヴィーナは赤い双眸を差し向けて答える。
「妾はな、君達の言うところの神様なのだよ」
「……神様? そんな存在が、この世にいるとは思えないのですが」
「あぁ、そうかもしれないな。君達、人間が妾達の存在を捉えるのは難しいから。だが、妾は嘘などついていない。紛れもない事実だ」
「……はぁ、なるほど。理解しました。それで、女神様はどうしてここに現れたのですか?」
レントの疑念は心に生まれたままであるが、何よりもその質問が先に出た。
「そうだな。端的に言えば、君達“登場人物”の運命を見守るため、だね。妾の一番と言っていい楽しみだからね、君達には楽しませてもらわないといけない」
「僕達の運命? それは、どういうことですか?」
ヴィーナのその言葉はよく理解ができない。それはレントだけでなく、付き従っているグラ以外の全人類だってそうだ。ヴィーナは心底楽しそうに微笑を湛えて、言う。
「……それは、残念ながら教えることはできないな。けれど、君達“登場人物”に何かがあるということは変わらない。それが、君達の運命だから」
「……よくわかりませんが、わかりました」
答えになっていない答えに困惑するレントであるが、考えるだけ無駄だというのに、理解するのには至っていた。
「質問ばかり、ヴィーナ様に無礼だ。そろそろ帰るべきでは――」
ヴィーナへの忠義を持った言葉であったが、今の彼女には少し不満であったようで、赤い
「……出過ぎた真似を、失礼しました」
「いいのだよ、グラ。妾のことを大切に思っているからであろう。そのくらい、言わずともわかっている。……だが、妾はまだこの子と話をしたいのだ。いいか?」
「当然であります」
一息、呼吸を整え、ヴィーナは言葉を発する。
「さて、先ほど君はこう言ったね。己のできることであれば、何でもすると」
「……は、はい。何をお望みでしょうか?」
強張るレントの表情。神の願いなど自分に叶えられるのか、という疑問が恐怖を掻き立てた。けれど、その答えは思いがけないものであった。
「別に過酷なことを要求したりしない。君が今、深く悩んでいることを、妾に教えてくれればいい。君の言葉で、伝えてくれればいい」
「僕の悩み……。あります」
「そうであろう。妾はそのくらいわかる。さて、君の心の闇を打ち明かしてくれるかな?」
女神の優しい微笑みに導かれるように、レントの口はおもむろに開いた。
「僕は……父さんは、僕達の家族は、何も悪くない、何も悪くないんだ」
心に蓄えていた、恨みつらみ、憤怒、怨恨、憎悪、慟哭、あらゆる闇の感情が溢れて、決壊した。
父親が大臣に裏切られ、失墜したこと。そして、両親が共に死んでしまったこと。そして、その大臣が今国王としてのうのうと生きていること。自分が親の罪によって、不幸な目に合っていること。自分が体験した全て、起こった事件の内容を知り得る限り、事細かに説明した。
「……僕は嘘をついてなんていないんだ。嘘をついたのは大臣に決まっている。僕は知っている。大臣が、自分の地位に納得がいかず、僕の父さんを、前国王を妬んでいたことを。きっと、大臣の臣下と口裏を合わせて、父さんを失墜させるために手を回したんだ」
際限なく溢れ出る不平不満の数々。心に深く負った傷から血が止めどなく流れ出るように、その惨めな吐露は続く。
「父さんが死んでしまったのもきっと裏がある。僕達家族を残して、自殺なんて真似を選ぶ弱い人間じゃないはずなんだ。これも、きっと大臣が裏で手を引いていたに違いない。悪いのは大臣なんだ。のうのうと王として生きている大臣なんだよ!」
荒涼とした大地に惨めな叫びが霞んで消える。そして、続いて響くのは女神の柔く、艶やかな声音。
「その事件の中で、君の一番嫌なことは父親が死んでしまったことなのかな?」
問いかけに一度思案して、レントは首を左右に振った。
「……確かに、父さんも母さんも死んでしまったのは残念だ。大臣が国王になっていることも許せない。けれど、何よりも許せなかったのは、国民が父さんの言葉を信じなかったことだ。僕達王族だった者達の言葉を信じてくれなかったことだ。……少なくとも、前国王は、妃は、そして僕は、僕達家族は、国民のことを信じていたんだ。清く美しい関係が、繋がりがあることを。けど、皆裏切った。そんな思いを裏切ったんだ。どうしても、それだけは赦せないんだよ。女神様、僕はそれだけはどうしても……」
「確かにそうかもしれないね。信じていた人に裏切られるというのは、誰だって心に刺さるものがあるというものだ。理解できるよ」
レントの告白に、ヴィーナは小さく頷き、そう言った。
「わかっていただけるだけで、嬉しい限りです。溜まっていたものを吐き出せた感覚のようで、とても心地いい気分です」
溜まった
「……それはよかった。けれど、少しいいかな?」
「はい、何でしょうか?」
「君に少しだけ、神の教え、みたいなものを授けようと思ってね。話してもいいかな?」
「もちろん、お聞かせください」
一呼吸、間を置いて、ヴィーナは語る。
「君が裏切られたという話。それは、案外仕方のないことかもしれない、という話だ」
「えっ、それはどういう意味でしょうか?」
明らかに
「人間は弱い生き物だということだよ。群れてしか生きていけない、虚弱で、矮小な存在だということなのだよ」
「訳が分かりません、詳しく教えてください」
レントの怪訝な表情は変わることなく、小さく微笑を湛えたままのヴィーナは言う。
「突然だが、質問だ。例えば『1』足す『1』、その答えを問われたとしたら、君は何と答える?」
「えっ、……それは、『2』だと思います。これが、何か関係を?」
「あぁ、その通りだ。もちろん、君の答えは正解だよ。けれどね、もし君以外に九人いたとして、その九人が九人答えを『3』と言ったなら、君はそれでも『2』だと言えるかな?」
「えっ、それは……」
「それが、百人だったら、千人だったら、君はそれでも『2』が正解だと言えるのか?」
「……それは、その。……できないと、思います」
「そうだろう。君が感じた裏切りの正体は、結局このことなんだと妾は思うのだよ」
僅かに頭を垂れたレントをその紅い双眸で見つめ、教え諭すようにヴィーナは言う。
「先ほども言ったが、人間は群れてしか生きることのできない脆弱な生き物だ。それは、身体的な意味だけでなくて、精神的にもそう言えると妾は考えるのだ。例えば、さっきのように、たとえ正しい答えが示されていたとしても、それが複数の人によって否定されれば、人間の心は簡単に揺らぎ、正解を、正しさを簡単に捻じ曲げてしまう。そんなことが容易にできてしまうのだよ」
「……ヴィーナ様の仰っている意味が君にはしっかりと理解できているのか? 私は理解しているつもりでいるよ」
苦渋の表情になるレントを追い詰めるように、グラが言った。
「……それは、それは――わかりません」
「つまりはね、君の言う大臣が訴えを出した時点で、疑いを持ってしまった“弱い人間”がいたとしたなら、それはどうやっても覆すことができなかったということだよ」
「はっ、確かに……そうだ」
ヴィーナとグラが伝えようとしていた、曖昧なことに、点と点が繋がり、ようやく合点がいった。レントの口から、薄く言葉が漏れる。
「この国の人間は人間らしく“弱い人間”だ。だとしたら、たとえそれが嘘だとしても、間違いを真実に変えてしまったのだよ」
「でも、それなら、父さんの言葉を信じてくれる人だっていたはずだ。なのに、どうして皆、嘘の言葉に傾いてしまったんだ」
惨めな吐露が再び続く。レントの未だ消えることのない闇が、グラグラと溢れる。
「それは、今まで君の父親を、王様を信じていたからだよ。そんな人に一度でも疑念を抱いてしまったら、どうあっても取り返しがつかなくなる。そして、生まれた疑念の種は人の心に息づいて、発芽する。爆発的に増殖したその闇の花に、脆い人間は屈するのだよ。『周りが言っているから、この選択が正しい』、『皆がそう言っているから、間違いない』って。わかるかな?」
「……とても、理解できます。なぜなら、僕自身きっとそうしてしまうし、そうしてきたから。今までだって、父さんが死んでからだって、傍にいた執事の言葉にずっと従い続けてきた。それが正しいって思いこんでいたし、僕はそうしなければいけないと思っていたから」
レントは膝をつき、思い出す。今まで生きてきた中、周りが言っていることが全てだと思って生きてきた。「これで、間違いない」とそう信じて。結局自分も民衆と同じ、“弱い人間”だってことを、今更ながら実感してしまった。
「これが、人間の同調する心理ってものだと、妾は理解しているのだよ。得心がいったかい?」
「はい、とても」
「ほら、簡単に今も、他人の言葉に従ってしまっている。これも、君の弱さだ」
今の言葉は、ヴィーナにとっては冗談のつもりであったけれど、それ以上にレントは落ち込んで、ヴィーナは薄く笑った。
「……さて、いい話ができた。妾は満足をしたのだよ。グラ、そろそろ帰ろうか?」
ヴィーナのその微笑には充足感に溢れていて、頬は柔らかくなっている。赤い双眸の視線も怪しくはあるけれど、どこか柔和な印象だ。
「かしこまりました。……ヴィーナ様、準備はよろしいでしょうか?」
「あぁ、そうだな。最後に一つ、君に神様の言葉を残しておこうか」
ずっと座っていた椅子からおもむろに立ち上がり、ヴィーナはレントの方へ視線を寄せた。
「君は妾の物語の“主人公”だ。その運命からは逃れられない。けれど、妾はその運命を乗り越えるほどの“君の強さ”が見たいのだ。本物の国王の言葉を信じることができなかった民衆のように、今までの君のように“弱い人間”ではなくて、もっと己の信ずる
微笑を湛え、ヴィーナはその言葉を残し、グラと共に光の中へ姿を消した。
「素晴らしき言葉、ありがとうございました。女神様」
荒涼とした大地には、静かに頭を下げたレントが、一人ポツンとその言葉を落とした。
「さて、面白い余興だったね。グラ」
「確かにそうでございますね」
街が見渡せるくらいの中空に、ヴィーナとグラはまだいた。にこやかに微笑みながら談笑を続ける。
「それにしても、帰らなかったのですね。ヴィーナ様も嘘をおつきになって、誠に面白い限りです」
「グラ、それは妾に対する皮肉かな?」
微笑み交じりにヴィーナは言った。グラもまた笑みを浮かべて。
「えぇ、そうかもしれませんね。まぁ、これもただの冗談なのですが」
「おぉっ! グラも言うようになったのだな。全く神相手に肝が据わっている。いい心がけだよ」
「それは、どうもありがとうございます。……それにしても、あれほどまで教えを説いて良かったのですか?」
「あぁ、そのことかい。運命で未来が決まっているとはいえ、妾も、彼の助力となりたかったのだよ。きっと彼が強くなることをどこかで信じていたから」
「なるほど。では、戻ることをしなかったのは」
「そうだ。君の思う通り、彼の様子を見るためだよ。折角だからね」
「彼の成長を見られればいいですね」
「そうだね。結果はわかり切っているけれど、彼に期待して気長に待とうか。それでも、いいだろう?」
「当然でございます。では、紅茶でも飲みながら、見届けましょう」
「流石にわかっているね、グラ。甘い紅茶にしてくれるかな?」
「もちろんです」
どこからか用意したテーブルと椅子、それを空中に浮かべて、ヴィーナを座らせると、香り高い紅茶に角砂糖を落として、ヴィーナに渡した。品のある茶器に映る紅茶の淡い茶色に溶ける、角砂糖の白から透明への色と形状の移ろい。
「さぁ、楽しませておくれよ」
一口、紅茶を口に含み、ヴィーナはそっと笑った。
「さて、これからどうしよう」
久方ぶりに腹が満たされ、心の闇も吐き出して、本当にやることが無くなってしまったレント。呆然と立ち尽くし、遠く映る街を見つめて考え耽る。
空は青く輝いていて、見渡す限り、青色が続いている。
「……街に戻ったところで、きっとまたひどい目に合うだけだろうし、そうかと言ってここにいてもなぁ」
レントはふと三百六十度、ぐるりと地平を一瞥する。すると、
「……何だ、あれは!」
叫び声と共に、目に留まった光景に愕然とした。
目を見開き、広がる地平を確かに捉える黄金色の双眸。
急速に、発達するその黒雲の中で、稲光が
明らかに異様で、不自然なその黒雲を、レントは動揺しながら見つめる。
「……あれは、ただの嵐じゃない。間違いなく。この不穏な空気は、いつか教えられた、『魔物の襲来』、もしくはそれに近い災厄だ」
ヴィーナが描いたこの世界には、『魔物』なる存在が息づいていた。歴史上、そして現在でも、その魔物によって、少なからず影響は出ていて、魔物側と人間側で交戦を続けていた。
人々は武器を手に、そして、神から与えられた“魔法”という人知の及ばぬ力で抵抗し、街や国を作ってきたわけだが、それでも魔物の力は強く、一度に多量の魔物が現れれば、抵抗虚しく国が滅びの一途を辿ることは必至であった。
それを、王子であったレントは文献や執事達からの教育によって、知り得ていたが、辺境の地であるが故、魔物と縁のなかったこの国の人が、その脅威を知る筈もなかった。
その人々が知らないことを、レントは把握していた。だからこそ、焦りを見せたのである。
「危ない、この国が。……魔物に
体が震え、冷や汗がタラリと流れた。そして、レントは走った。
「……救わなくては。民衆達が死んでしまう。僕の、僕達の愛したこの街が滅んでしまう!」
迫る黒雲を背に、レントはボロボロの体を動かし、走った。
「……皆さん、聞いてください! 激しい黒雲が急速にこの国に近づいています。あれは、ただの嵐ではありません。甚大な被害をもたらす、魔物の襲来の凶兆です。とにかく逃げてください。必要なものだけ手にして、逃げてください!」
国壁を抜け、街へと戻った瞬間、息切れを起こしながらもレントはそう叫びを上げた。焦りを滲ませるその表情とその脆く壊れそうな声音からは疑いようのない真実が含蓄している。
「あぁっ! 何を言っているのだ、罪人。そんなことあり得る訳がないだろう」
国とその領域外の荒野とを区切る国壁の門の兵が、戻ってきたレントに鋭い眼光を向け、きっぱりと否定。国の中では郊外に位置するこの地域に住む、それほどいない人々も、その光景に興味を抱いたのか、視線を寄せた。
「そんなことはないです。僕は、この目ではっきりと見た。
訴えるように強く言う元王子のレント。己が教えてもらった知識と記憶に刻んだ光景を取り合わせ、的確に説明する。
「僕が王子だった頃、仕えていた者達に教えられました。魔物による危機が迫る時、黒雲が凶兆として現れると。皆さんは、魔物を見たことがないから知らないかもしれませんが、他国の文献によれば、間違いのない事実です。皆さん、どうか一緒に逃げましょう。きっと、まだ間に合います」
嘘も陰りもない、紛うことない真実。しかし、
「そんなことは、嘘だ!」
現国王の部下のような存在である門兵がそう強く断じた。
「全くの偽りだ! 私は国王様にそのようなことを教えられてはいないし、国王はこの国は平和で、安全だとそうおっしゃっていた。これは、裏切り者が民衆を騙すために行った、ただの虚言に過ぎない!」
それは、ただの無知で、ただの現国王とその部下達の勉強不足でしかない。悪いのは、そちらであるはずなのに、人々の弱さの種は既に花を咲かせていた。
「そうだ、忘れるなよ、皆。こいつは裏切り者の血族の生き残りだ。こいつの言葉に耳を傾ける理由なんてないんだ」
「そうだ、彼の言う通りよ。私達が、こいつの家族に何をされたか、思い返して」
同調は、同調を呼び、レントが嘘をついているという思い込みは広がる。
「違う、本当に、違うんだ。どうか、お願いします。信じてください」
そして、レントの願いは虚しく、崩れ去った。
「嘘つき者に、従う道理はない。皆、こいつの言葉に騙されるな!」
「おぉ~!」
レントの言葉に耳を傾ける者は、存在しなかった。
――そして、しばらくの時が経ち。
レントは街の閑散とした場所で、一人物思いに耽っていた。
「僕は、何をするべきなんだ?」
自問自答を繰り返す。そして、思い返したのは女神の教えであった。
「『僕が“強い人間”になることを信じている』か。強い人間って、何だろう」
ボロ屋の壁に背中を押し付け、膝を曲げて、地面近くに屈んでいる。ふと見上げた空は、未だ青く澄んでいるけれど、先ほどより幾らか雲が増えているように見えた。
「民衆は結局、気に留めてくれない。僕の言葉を信じることは無い。けど、このままならジリ貧だ。皆死んで、国は終わる。だったら、僕も皆と一緒に死んでしまった方が」
独り言を淡々と落とす。そして、自分の言った言葉に首を振った。
「違う。そのままだったら、僕の発言は嘘だということに断定されてしまう。闇に飲み込まれてしまったただの“弱い人間”に成り下がってしまう。そんなこと、女神様は望んでいないはずだ」
ヴィーナの言う運命を当然ながら、レントは知らない。けれど、彼女が望む理想が、こんな結末ではないことはわかった。
「もしも、自分を信じることが“強い人間”のあり方なんだとすれば、僕にできることは、きっと一つしかない」
自分の信じた事実を、真実を、貫き、数多くの他者の言葉に流されないことが“強いこと”なのだとするならば、ヴィーナの理想が、きっとそうするべきだと導いているに違いないと、レントは断じて、そしてこれからの行動を決断する。
やや暗くなり始めた空を、もう一度見上げ、レントは立ち上がった。
「はぁはぁはぁ」
どこかから拾った数少ない食糧や水などの必需品を、布に包んで、背負って走るレント。どこまでも先の長い荒野を当てもなく、ただひたすらに。
「これでいいんでしょうか、女神様」
そう想起してしまうけれど、レントの脚は止まらない。息が上がっても、ひどく疲労が溜まっていても、足を止めるわけにはいかなかった。
レントは国から脱出し、一人遠くまで逃げていた。自分の信じたことが、間違いなく真実だと証明するために。
「……民衆達、皆、僕は信じていたよ。愛していたよ。けど、皆、信じてくれなかった。僕達家族を認めてくれなかった。だから、残念だけど、その罪を償わなくてはいけない。僕が、僕達が受けてきたように。その体を焦がして。それが、弱い人間であり続ける君達の宿命だよ。神様の意思だよ。だから、残念だけど、さようなら」
王国は既に霞む程遠く離れている。しかし、その上空には歪な黒雲の影がはっきりと現れていた。そして、薄く響く絶叫と苦しみに悶える声。
時折聞こえる、人間とは異なる、異形の何かの咆哮。いつの間にか、爆発するように、身震いするような衝撃の波が僅かにレントの肌を
「くっ、うぅ」
苦虫を噛み潰したような、歪んだレントの表情。過酷な運命を辿る彼の苦渋の決断がそこから滲み出ていた。
「……レント様!」
遠く響く遠雷の如き音の中に、聞き馴染みのある声がポンとレントの
「……ふふ。君達は――やっぱり、僕を信じてくれたんだね。本当に、ありがとう」
涙で歪んだ顔には、僅かに弛緩してできた喜びの笑みが浮かんでいた。
「いやぁ、妾が描いた物語だから、結末は見えていたけれど、なかなかに面白いものを見れたとは思わないか?」
「それは、当然です。ヴィーナ様は、何よりも叡智を持ったお方なのですから、描く物語が面白くないはずが、ございません」
どこかの国の中空で、ヴィーナとグラは、その国の滅びの様子を俯瞰する。
異形の存在である『魔物』に、抗う術なく蹂躙されたその国は、いたるところが瓦解し、倒壊し、見るも無残な瓦礫の山と化していた。そこに生きていた人々は、時に焼かれ、時に喰われ、時に
全人口の大半が死に絶え、まさに地図から消えてなくなってしまうほどに、滅亡と言う言葉が似つかわしい状態だった。
「何人かは、生きていたようですね。一体誰でしょうか?」
「それはね。“主人公”を信じていた、強い者達だよ。闇の花を咲かすことのなかった、真実を追い求めたそんな者達だ。彼らは、正直者な王子様の言葉をしっかりと受け止め、行動に移した。だからこそ、助かることができたのだよ」
多数の犠牲者のことなど気にも留めず、強者を讃えて、ヴィーナは微笑む。グラは少し、訝しんだような表情で言った。
「全く、皮肉なことですね。本当の嘘つき者を信じてしまったが故に、こんな結末を迎えてしまうなんて」
「まぁ、それが妾の物語だからね。悪いものにはそれなりの罰を与えないと面白くない。けれどね、妾は思うのだよ」
「何を、でしょうか?」
「きっと、人間っていうのは何よりも欲深くて、小賢しくて、愚かだって。けれど、それだから面白いのだろうとね。それが、妾とは違う“人間らしさ”だから」
にこやかにヴィーナは微笑を湛えた。グラも同調するようにしずしずと頷く。
「さて、満足した。今度こそ帰ろうか、グラ?」
「はい、ヴィーナ様の思うままに」
ヴィーナとグラは光に消える。眼下の瓦礫の山が、霞んで見えなくなるほどに強い輝きの中へ。そして、光に飲み込まれたその“世界”は、同時に姿を消した。
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