怒りのち甘味

 ――氷見市。

 4つの市町村合併により出来た人口8万人ほどの比較的新しい市である。

 合併により出来た市ではあるが、その誕生を語るのに切っても切れないのが氷見神聖会の存在だろう。

 そもそも氷見市の名前はこの氷見神聖会から取られたのは周知の事実である。

 出自の怪しい部分もあるのだが、そんなことは市民は知る由もなく、一定以上の知名度のためか氷見神聖会の名は氷見市に当たり前のように浸透している。

 この氷見神聖会、地域密着型を謳って氷見市内に複数の教会を建てているためか、市民の心をがっちりと掴んでいた。その上、市内の事業に積極的に出資を行っているため氷見神聖会関連の施設が多くなっている。

 私立である氷見学園も、氷見神聖会が出資して経営も半ば氷見神聖会が担っているのは有名な話だった。

 そんな氷見市の氷見駅前を歩いているのは、櫛田天音くしだあまねその人である。

「もぉおお!! 虎ちゃんもあの人もまったく!!」

 彼女は怒り狂っていた。

 それはもう、怒り狂っていた。

「なんなのなんなのあの人!! 突然やってきたと思ったら、普通に虎ちゃん家住んでるし先生としてやってきちゃうし――あー、もう!!」

 もの凄い怒りは分かるのだが、全部口に出して怒りを表現しているので人通りの多い駅前では変な人として見られていた。だが、あまりの怒りで天音はそんなことを気にする余裕がない。

「そもそもあれよ、なんなのなんなのよ!!」

 最早、怒りのあまり語彙さえ乏しくなる。

 今すぐにでも立ち止まって地団駄を踏みそうな勢いである。

「はぁ、バカらしい……帰ろ」

 肩を怒らせ歩いていたのが一転、がっくりと肩を落とし歩調を心なしかどんよりしたものに変わった。視線もそれに倣うかのように斜め下向きに。

 それが良くなかった。

 ――刹那、誰かにぶつかってしまったようでその反動で転びそうになる。

「わっ――」

「――おっと」

 転んでしまうすんでのところで、天音の腕を掴むと引き寄せてくれた。

 そのおかげで尻餅をつくことは免れた。だが、引き寄せられたことで、必要以上に密着してしまったことに気付いてしまう。

「あ、あの……」

 声が上擦り顔が赤くなっていくのを感じる。

 こんな状態では、無闇に顔を上げることも出来ない。

 その事実がさらにパニックを助長していく。

 ただの天音の個人的な問題なのだが、何を勘違いしたのか目の前に人物は心配そうに天音の顔をのぞき込んでくる。

「大丈夫ですか!?」

「えっ、大丈夫です、大丈夫!!」

「本当ですか……でも、何か落ち込んでらっしゃった感じでしたよね?」

 どうやら見抜かれていた様だ。

 もしかすると怒りに身を任せてやらかした醜態の一部始終も見られていたのかも知しれない。

 そう考えた途端、一瞬にして茹で蛸も斯くやという風に真っ赤になった。

 そりゃもう耳まで真っ赤に。

 その結果、しどろもどろで顔を隠しながらもの凄い不審者的な対応になる。

「ちょ、ちょっと、嫌なことがありまして……すみません」

「そうでしたか。それなら甘いものはどうですか」

「な、何を突然――」

「良いから良いから。わたくし、こう見えても甘味処の主人なんですよ」

 天音の言葉を遮るかのように、柔和な表情で攻めてくるその男は一瞬済まないそうな表情を浮かべる。一瞬にして元の表情に戻るが、天音がその一瞬でがっちりとお客様心を捕まれてしまった。

「ですから。ぶつかってしまったお詫びにご馳走させていただきますよ」

「――それなら、お言葉に甘えちゃおうかな」

 天音は恥ずかしそうにはにかむ。

 この期に及んで、やっと天音は目の前の男を直視する。よくよく見ると、その男は仕立ての良さそうな藍染めの着物に灰色の羽織を羽織っていた。

 掛けている眼鏡もなかなかに特徴的なものだったが、和風と言うよりはゴシック調を感じさせた。

「そう来なくては。すぐそこなのでね、ご案内させていただきます」

 どうぞと促されるまま、その男の案内する甘味処へと向かうのだった。




 案内された店は、路地裏に面したこぢんまりとした雰囲気の良い古民家風の店舗だった。大きな看板はなく黒猫庵と書かれた立て看板が小さく主張するだけである。

 中に通されて適当な席に座ると、店主は奥の方へ引っ込んでいった。

 何気なく周りを見渡すと半分が座敷席で、奧にはくたびれたクッションが置いてあった。その上には、毛並みの良い猫が丸まってあくびをしている。

「どうぞ、抹茶と小豆のロールケーキとカフェオレでございます」

 そうこうしている内に出てきたのは、抹茶生地に小豆とクリームが入ったロールケーキとカフェオレだった。机にそれらを置くと、店主さんは正面に腰を下ろす。

 甘味処でイメージしたメニューではなかったので正直面食らったが、和洋折衷という事で納得することにした。何より、おいしそうなものは正義なのである。

「あ、どうも……なんか本当すみません、こっちの不注意なのに」

「いえいえ、気にしないでください。これも何かの縁ですから」

「なぁーお!」

 突然、得意げにひと鳴きする黒猫。

 どうやらこの店の看板猫らしく、定位置のクッションの上でくつろいでいた。

「シロも同意見だそうです」

 そう言ってにっこりと微笑む店主さん。

 黒猫なのにシロなのか――と、口に出しそうになったがやっとの事で飲み込むと、代わりにずっと気になる事を聞く事にした。

「今更なのですが……あの、お名前は」

 本当に今更なので恐縮してしまう。

「そういえば、自己紹介してませんでしたね。私は黒井と言います」

「黒井さんですか。私は、櫛田天音って言います。よろしくお願いします」

 二人とも律儀に立ち上がると軽くお辞儀をして握手をした。

 正直良くわからないが、それが正しい気がした。

「あ、カフェオレ冷めちゃうからどうぞどうぞ」

「はい、ではいただきますね」

 手を合わせて、まずカフェオレに口をつける。

 続いて、美味しそうな抹茶ロールを一口。

「ふあぁ――おいひい」

 間抜けな声が出てしまった。

 とろけるようなおいしさ――そう表現するしかなかった。

 それこそ絶妙なのだ。

 抹茶生地にしても小豆にしてもクリームにしてもすべてがすべて引き立て合い絶妙なせめぎ合いでその味わいに繋がっているのを感じるのだ。カフェオレもカフェオレで、このロールケーキに合わせた配合がなされているように感じた。

 あっという間になくなっていた。

「ごちそうさまでした!!」

「お粗末様でした――どうでしたか、割と自信作なんですが」

「最高です、本当に最高でした。こんな美味しい甘味は初めてでした!!」

「そう言ってもらえると嬉しいですね。作った甲斐があるってもんですよ」

 興奮気味な天音を見て本当に嬉しそうな表情を黒井は浮かべていた。奧のクッションに鎮座するシロもどこか得意げな様に見えたのは気のせいだったろうか。

「迂闊でした。こんなに美味しいお店なのに、知らなかっただなんて!」

 オーバーリアクションで天音は悔しがっていた。ただ、ふざけているわけでないのはその顔が割と真面目なところを見るとわかるだろう。

「知らないのも無理ありませんよ、うちは結構特殊なんです」

「そうなんですか」

「そうなんですよ」

  黒井は意味ありげな表情を浮かべるのみだ。

「さて、そろそろお帰りになった方が良いでしょう」

「そう――ですね。今日は色々ありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。少しでも気が晴れたのなら良かったです」

「それはもう! あのロールケーキで全て吹っ飛びました、本当に最高でした」

「それは良かった。」

 席を立ち上がると天音と黒井は店を出る。

 先程まで明るかった外はすっかり薄暗くなって、ぽつぽつと街灯が点き始めているようだった。

「あ、それと、これを渡しておきます。今度はお友達とでもいらしてくださいね」

 そうして手渡されたのは、この店――黒猫庵の名刺だった。

 ただ、名刺とは言ってもこの名刺、ただの名刺というわけではなく明らかに高級そうな和紙に金字で印刷された上、透かしまで入っている気合いの入りようである。

 高級感を感じずには居られなかったので、天音は大事に大事に持って帰る事にした。

「本当に、色々ありがとうございました。それでは」

「はい、ではお気をつけて」

「なぁーお」

 いつの間にかその隣にやってきていたシロと黒井は、小さくなる背中を見送っていたのだった。

 その背中が見えなくなって暫く経った頃にぼそりと黒井が呟いた。

「送っていくべきだったかもなぁ」

「なぁ~あ」

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