第一章 始まりはいつも突然

普通の朝 いつもの朝

 ――pipipipipipipi!!

 ものすごく煩い。

「う゛う゛ぅ……」

 潰れた蛙のような声を出し、俺は枕元をまさぐる。寝ぼけ眼ゆえに焦点が定まらずに差し出したその手は左右に虚しく空を切るのみだ。

 ――pipipipipipipi!!

 そんな俺の格闘なんて知らん顔で、その悪魔は継続的に俺の聴覚に訴えかけ続ける。最早、軽い拷問といっても良いかもしれない。

「ほら、起きなさいとらちゃん」

 そんな言葉と同時に、耳障りな電子音は止まる。

 やっとハッキリしてきた瞳で声の方に目をやると、その声の主はにっこりと微笑んでいた。いや、わずかばかり引きつった笑顔だったか。

「あ、おはよう天音あまね

「おはようじゃないわよ! 今何時だと思ってんのよ!?」

 引きつった笑顔から般若のような形相に早変わりした彼女は櫛田天音くしだあまね。俺、こと紫堂虎しどうとらの幼なじみにして口うるさい小姑のような存在だ。

 いや、小姑は言い過ぎたかもしれない。でも、お隣という事もあってとある事情で一人暮らしの俺の事を必要以上に気に掛けてくるという点ではお節介で口うるさいのは変わりないのだが。

 そんなことを考えて苦笑すると、般若も裸足で逃げ出すような形相にまでなった天音が低い声を出す。

「何ニヤニヤしてるのよ。そんな暇があるなら着替えなさいよ!」

「え、脱いで良いのか?」

 そう言いながら寝間着にしているTシャツに手を掛ける。

「バッッ……で、出て行くわよ。でも、二度寝したら駄目だからね!」

 瞬間湯沸かし器も斯くやという様に顔を赤くすると、背を向け一目散に俺の部屋から出て行った。もちろん念押しは欠かさなかったが。

「ふぅ……」

 台風一過のような清々しい気持ちになりながら、俺は制服に着替える。まだ新しい馴染んでいないブレザーに袖を通すと鞄を手に居間へと向かった。

 居間にはエプロンを着けた天音が上機嫌でコーヒーを淹れていた。といっても、普通にコーヒーメーカーで淹れているだけだが。

 鼻歌混じりの彼女が踊るように動くと、癖っ毛の短い黒髪が同じく踊るように揺れている。居間の扉を開けた俺に気づくと首だけこっちに向ける天音。

「お、ちゃんと着替えてきたね。いつもので良いかな?」

「時間ないんならなんでも良いよ」 

 そう言いながらいつもの席に腰を下ろす。

「誰かさんのせいでねっ」

「んー……」

 天音が出してくれたトーストにバターを塗りながら、眉間に皺を寄せる。

 いつもの光景。

 だからこそ俺は救われている部分もあるんだが、それこそ耳にタコが出来るぐらいに聞かされ続けた言葉だ。うんざりもするというものだろう。

「運動不足の誰かさんは歩くべきなのよ」

 天音の熱弁はなおも続く。

 それも仁王立ちしながら、ぐっと手を握りしめながらである。穏やかな朝食のひとときにたまったものでは無い。

 トーストをかじり野菜サラダを突きつつ気のない返事を返す。

「あー、はいはい」

「何その煩いなこのお節介っていうような目は!」

 まるで信じられないとでも言うように、天音は肩をいからせる。

 本当に、朝から元気なことだ。感心さえさせられる。

 まぁ、これも大体はいつもの光景。

「でも、事実だろ?」

 トーストとサラダを完食して、食後のコーヒーをすすりながら、勝ち誇ったような表情を浮かべてそう言ってやる。

「虎ちゃんが運動不足なのも事実よ」

 びっくりするほどの完璧などや顔を浮かべ、腰に手を当てて無い胸を張りながらそう言い張られては、こちらの負けを認めるしか無かった。

「返す言葉もありません」

「よろしい」

 上機嫌にそう言う天音を横目に見ながら、朝食の食器をシンクの洗い桶に浸して手を洗う。

 天音はというと、既にエプロンを仕舞い玄関先に立って俺を待っているようだ。

「虎ちゃんはやく」

「あー、ちょっと待って」

 俺はそう言うと、奥の部屋にある仏壇の前に言って線香をあげて手を合わす。既に仏壇には線香があり煙を燻らせている。これは天音があげたものだろう。

「行ってきます」

 目を瞑り、口の中でそう言いながら手を合わせた。

 もう一度行ってきますと言って、天音と一緒に家を出た。



 何の変哲も無い住宅街。

 特に、高級住宅街というでもなく治安が悪いわけでも無い平々凡々な住宅街だ。

 家を出た俺と天音は、学園へと向けて歩いていた。

 徒歩で向かう場合、50分ほどかかる道のりだが学生用に格安のバスが運行されていた。

 地元のバス会社が登下校時に何本か特別に専用のバスを走らせているというもの。学生であれば誰でも利用可能で、学生証でほぼ無料で利用できる。

「やっぱ、バス乗らない?」

「駄目です」

 バス停を素通りしながら、とりつく島も無い天音。俺が名残惜しそうにバス停を横目で見ても、その意思が揺らぐことは無いようだった。

 バス停を過ぎ、商店街を通り抜けると木漏れ日がまぶしい林道へと出る。さらにその林道を抜けて、小高い丘に立っているのが我が学園であるところの私立氷見学園だ。

 氷見市の名前の由来になっている氷見神聖会という宗教法人が出資しているらしい私立校である。

 中高一貫の私立校で、宗教法人が半ば経営しているのだが、特に宗教臭はない。

 校風は一言で言うなら自由。

 制服はあるものの私服でも可であるのもその校風を表しているとも言える。が、俺の場合は私服を考えるのが面倒なので制服で登校している。

 天音の場合は、馬鹿真面目に制服を着ているんだろうが。

「何?」

「いや、天音は真面目だなって思って」

「え、どうしたの急に」

 褒められたと勘違いしたのか、顔を真っ赤にする天音。こういう部分も馬鹿真面目で単純だと思う原因の一つだ。

「別に、ふと思っただけだよ」

「ほ、褒めても何も出ないわよ」

 ふ、ふんと鼻を鳴らすが、嬉しそうな顔は隠そうともしていない。やはり、こいつは単純なんだなと思った。

 因みに俺たちは、今年の春に高校に上がったばかりだった。生徒数は多いが、複数の科が存在するわけではなく普通科のみである。

 基本的には、中学からエスカレーター式に高校まで行って卒業という形ではあるが、高校から編入する事ももちろん可能である。

 そんな事を考えたり、天音と他愛もない話をしながら住宅街を抜けると林道があった。その林道を暫く歩くと道の真ん中に二つの影がある。

 漢字で表すなら凸凹。

 おっきいのとちっさいの。

 読んでそのままの凸凹コンビだ。

「おっ、おっはよー!」

 最初に口を開いたのはちっさい方。

 名前は、棟木宙むなぎそらだ。

 ぴょんぴょんと跳ねながら、手をぶんぶんと振り、大声でこちらに向かって声を掛けている。天音以上の元気の塊のような少女である。

 その人なつっこさは、さながら仔犬のようにも感じられる。実際、ちっこいのもいくらかはあるだろうが。

「おまえは朝から元気だな……」

「おう、私はいつも元気だぁ!」

 わっはっはと高笑いを浮かべる。わずかな嫌味を含めたのだが、宙には褒め言葉に聞こえたようだった。

「あ、おはようございます」

 遠慮がちに話しかけてきたのは、おっきい方。

 名前は、柏野乃々かしわのののだ。

 宙とは対照的に、いつもおどおどしている印象のある少女。動物に例えるなら子兎だろうか。

 ただ、子兎と言うにはでかすぎる――どこが、とは言わないが。

「柏野さんも、いつも通りだな」

「なんか、すみません……」

「こら、虎ちゃん! 乃々っちいぢめちゃだめでしょ!」

 柏野さんに謝られ、天音に怒られる。

 これもまた、いつもの光景だ。

 こんな日常がいつまでも続くだろうってなんとなく思っていた。でも、この穏やかな日常を崩壊させる悪魔は静かに近づいていることを俺はまだ知らなかった。

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