第2話 希望の影

 リクルが案内した『家』とやらは、見るからにボロボロだった。壁も穴が目立つし、扉もがたついている。最低限の戸締りはできるようだが――逆に、この路地裏で少女が生き抜くためには、戸締り程度はできる家でないといけないのだろう。フリートが、リクルの勧めた椅子に座ると、椅子が軋む。フリートは気持ち腰を上げて、椅子の負荷を軽くした。




「こ、これ……酔い覚ましの薬です……あとお水です」


「ありがとう……」




 緑色の丸薬と水差しに入った水を差し出したリクル。フリートは、一言礼を言ってそれを受け取った。木彫りの水差しから水を一気飲みし、続いて丸薬を口に放り込む。フリートが飲んだ丸薬は『ゼペルの気付け薬』と呼ばれているもので、安価で効果が高い酔い覚ましの薬だった。庶民に人気の高い薬で、酔い覚ましの中ではもっとも一般的なものと言える。フリートも、何度も世話になったことがあるので、疑いもせずにそれを飲み込んだ。




(まさか俺を害するつもりじゃないだろうし――)




 という考えがあったのも、もちろんある。リクルに自分を傷つけるような覚悟はない、という判断もあるが、それ以上に、今のフリートを諦めの感情が支配しているせいだ。ここで毒を盛られ、殺されても。今死ぬか、あとで死ぬかの違いだけ。ならばどうでもいいという思いが、フリートにある。




「っ、はー……水をもう一杯、もらえるか?」


「は、はい!」




 木彫りの水差しを差し出し、フリートはおかわりを要求した。この町の水資源は地下水脈からの井戸水か、傍を流れるテフス川から汲んでくるしかない。この少女がテフス川から汲んでくる勇気があるとは思えないので、井戸水だろう。井戸から水をくみ上げる作業はそれなりに重労働であるため、あとでお金を払おうと決意するフリート。少女の純潔――かどうかは知らないので、貞操ということにしておこう――を守ったのは確かだが、少女の貞操と生きるための水、どっちが貴重かと言われれば、フリートは首を傾げざるを得ない。貧民の貞操よりも、生きるための水が大切だという人間もいれば、貧民だろうがなんだろうが、水に比べれば乙女の貞操の方が大切だという人間もいるだろう。助けた少女がどう思うかは、正直フリートには予測がつかなかった。




 フリートは絶望し、諦め、毎日のように安酒を飲みあさるどうしようもない男ではあるが、自分の口にした言葉に責任を持つ程度の人らしさは残っている。お礼は要らない、と言った以上、水の一杯や二杯貰っておこう、とは考えない。対価は払うべきだ。




 もとより使い道があるわけでもない、とフリートは水と薬で多少明晰になってきた思考で考える。貨幣という概念がまだ息をしているのは、せいぜいこの都市と王都くらい。ほかの村々に行くとすでに物々交換が主流になっている。食えない貨幣より食える食べ物ということだ、国としては終わっていると言っていいだろう。


 フリートの稼ぎはそこそこいいし、なにより安酒くらいにしか使わない。高い酒は悪酔いすることが少なく、悪酔いしたいフリートは、あまりお金を散財するタイプではなかった。




「お、お水です」


「ああ、ありがとう……」




 一気に水を煽り、フリートはようやく頭が動き出すのを感じていた。霞がかっていた意識が晴れていき、状況を冷静に把握する。どうやら渡された薬は本当に酔い覚ましの薬だったらしい、と、安堵と落胆の息を漏らす。殺されてしまえば、このどうしようもない世界で生きる絶望をこれ以上味わわなくて済んだのに、と。




「助かった。おかげで、少し復活した。感謝する」


「い、いえ、そんな! 私こそ、危ないところを助けていただいて……!」


「偶然と成り行きだからな」


「助けてもらったのは事実ですし……!」




 頭を下げるフリートに対し、慌てたようにリクルも頭を下げた。お互いに何度も頭を下げあう光景は滑稽なものだったが、幸いにしてその光景を笑う者はいない。




「おせっかいかもしれないが、これからは俺のようなヤツを家に入れないほうがいいぞ。なにかと物騒だからな」


「は、はい……」




 フリートの警告に、リクルもそれは思っていたのか、縮こまりながら答えた。助けてもらったとはいえ、見ず知らずの男性を家にあげるのは無警戒にすぎる。そう思ったフリートの親切心からの言葉だったが、だったらそもそもお前が断れ――と突っ込む人間は、残念ながらここにはいなかった。




「そうだ、水と薬の代金を払わなきゃな……えぇと、これでいいか?」




 フリートが袋から取り出した貨幣を見て、リクルの眼が見開かれた。ついで、両手を顔の前に持ってきて勢いよく横に振る。




「そ、そんなにっ! わ、私からのお礼なので、お金はいただけませんよ……!」


「まあまあそういわずに。あって困るものでもないんだし」




 あまりにも勢いよく否定するものだから、少し悪戯心が湧きだしたフリート。銀色に光る貨幣をちらつかせながら、リクルに迫る。その様子はお金を対価に関係を迫っているようにも見える。


 フリートが出している銀色の硬貨は、キュリスタ銀貨と呼ばれているものだ。その1枚で、外食で3日は食事に困らない。安い酒なら一晩中飲めるし、ちょっと高級な宿に泊まることもできる。質の悪い剣だって買えるだろう。今まで生きてきた人生の中で銭貨と銅貨しか触ったことのないリクルにとって、フリートが見せる銀貨は恐れ多くて手が出せないレベルの大金だった。




 と、ここで双方ともに失念していたことがある。リクルの着ていた服は破れてもはや布。そしてフリートが貸し与えたコートは、前が留まっていなかった。リクルもさすがにコートの前はしっかりと押さえてガードしていたのだが、銀貨という大金を前に両手を離してしまった。ついで、迫ってくるフリートから逃れようと、一歩下がった結果――




 ハラリ、という衣擦れの音を残して、コートの前面が開かれた。




 図らずも二度目を拝むことになった少女の裸体に、フリートの思考が止まる。ついで、リクルの思考も止まる。


 今日初めて会った男性が、顔を赤くした半裸の少女に向けて銀貨を掲げて迫る、という構図が完成した。




「……リクル……? さっきから、ゲホッ、騒がしいけどいったい……?」




 奥の扉から、顔色の悪い女性が出てきて、その状況を見て、固まった。




 フリートは社会的な死を覚悟した。














「――私は、ついに娘が……んんっ、体を売ったのかと……」




 顔色の悪い女性はそういうと、ゆっくりと椅子にこしかけた。椅子は二つしかなかったので、顔色の悪い女性と、フリートが向き合って座っている形になる。椅子が軋む音が響き、誤解が解けたフリートは安堵の溜息を吐いた。十代成りたてにしか見えないリクルに手を出そうとしていたと思われてしまえば、この都市での生活が難しくなる。具体的に言うと、フリートの知人が、乙女に手を出そうとするフリートを容赦なく責め立てるだろう。


 先ほどまでフリートに疑惑を含む冷徹な視線を向けていた女性。彼女の名前はテテリ――リクルの母親である。テテリは血色の悪い顔を俯かせ、重い溜息を吐く。ついで、大きくせき込み――




「お、お母さん!」


「ゲホッ、リクル……大丈夫、大丈夫だから……」




 喀血した。どす黒い血がテーブルを汚す。咳とともに血を吐き出す、その症状に、フリートは心当たりがあった。




「咳血病がいけつびょう……」


「ゲホッ、ええ、そうです。珍しくもない話でしょう……? 私は、もう長くありません。フリートさん、娘を助けていただいてありがとうございます。娘は少し、世間知らずのところがあるので……」




 そこまで話、再びせき込むテテリ。咳血病は今までの人類を最も多く病死させてきた最悪の病気だ。比較的簡単に発症し、初期症状が咳程度と軽いために無理をすると、すぐに手遅れのところまで進行する。この病気を治すための特効薬は存在せず、温かく安静に、栄養を摂るのが一番。ゆえに裕福な人間はかからないか、かかってもすぐに治るのだが、テテリのように娘を養うために働かなければいけない女性がかかってしまえば、治す手段はない。この病気を治すのに必要なのは高価な薬ではなく、暖かく休むことができ、腹を満たせる食事だ。それは高価な薬と同じ、もしくはそれ以上に価値のあるもの。




 そのことをわかっているのか、リクルは悔しそうに視線を下に向けた。フリートにも彼女が必死に涙をこらえているのがわかった。重苦しい雰囲気になってしまったことを恥じるようにテテリが視線を逸らし、フリートは困ったように天井を眺め、頭を掻いた。そのままフリートが口を開きかけたところで




「あ、あのっ!」


「ん?」




 先に声を上げたのは、リクルだった。思いつめた表情で、少し赤くなってしまった目を決意の色で上書きして、フリートを見る。その気迫に、フリートがわずかに気圧された。




「私とお母さんを……もらってください!」


「いやいや、ちょっと待って。うん、予想はしてたけどね、ちょっと待って」


「やめなさい、リクル。恩人のフリートさんに迷惑でしょう」


「でも、お母さん! このままじゃお母さん死んじゃうよ! そんなの嫌だよ!」


「リクル……」




 椅子に座ったままテテリが腕を広げ、リクルがその中に飛び込む。母の胸で泣き始めるリクルの頭を、あやすように撫でつけるテテリ。テテリがちらり、とフリートを見る。その目は『今のうちに去ってください』と告げており、テテリが本気でフリートに迷惑をかける気がないのがわかってしまう。


 フリートは濁った眼のままで天を仰いだ。これを『茶番だ』と笑って家を後にできるほど、フリートは外道になったつもりはなかった。だが世界が終末に向かっている今、一組の親子を助けることになんの意味があろう――助ける意味はない。




 意味はないが、助けない理由もなかった。お金には比較的余裕を持っていることもあり、フリートは決意する。




 もしもこの状況じゃなければ。魔王によって人類が窮地に立たされていて、明日への希望も願いも夢もないこの状況でなければ、フリートはこの親子を救わなかっただろう。魔王を倒すために勇者が戦っていた時期ならば、フリートは魔獣や魔族を少しでも多く倒すためにこの親子を見捨てていた。


 だから、フリートはわかっている。この親子を救うのは、己が善人だからではなく――死ぬ前に、善行を積んでおきたいだけなのだ、と。自分は良い人だと思いながら滅亡を受け入れたい……ただそれだけの偽善であることを。




 これでは、カロシル教のことを笑えんな、と思いながらフリートは口を開いた。




「わかりました、リクル、テテリさん。テテリさんの病気が治るまで、宿と食事を提供しましょう」


「えっ」


「本当ですか!?」




 驚きの声を漏らすテテリと、勢いよく顔を上げるリクル。降参、と言わんばかりに両手を上げたフリートは肩をすくめて頷いた。見る人が見ればイラッとする感じの動作だが、フリートがやると不思議と様になっていた。どこか諦観が漂う男だからこそ、芝居じみた動きが様になるのかもしれない。




「ま、どうせ使い道もないお金ですし……いいですよ」


「あ、ありがとうございます……! 私、精いっぱい頑張りますから!」


「……ん?」




 意気込みを現すかのように拳を握りしめたリクル。その様子を見たフリートは首を傾げるが、まあいいかと無視することに決めた。大した勘違いではあるまい――と思ったからなのだが、続くテテリの言葉で、フリートはさらに首を傾けることになった。




「――リクルをよろしくお願いします、フリートさん」


「……んん?」




 フリートは首を傾げながら、会話の流れを思い起こした。




 『私とお母さんをもらってください!』というリクルの言葉に対して、フリートは『テテリさんの病気が治るまで宿と食事を提供しましょう』と返した。そのやり取りが、彼女らにどのような印象を与えたのか。テテリは感極まったように手を組み、テーブルに肘をついた。




「まさか、私の娘に婚約者ができるなんて……実にめでたいことだわ……!」


「いやちょっと待て。待ってくださいお願いします!」




 それはおかしい! とフリートは抗議の声をあげた。確かにリクルは、『もらってください』という表現をしたが――




「婚約という話ではなかったと思いますが!」


「え……でも、もらってくれるって……」




 リクルが絶望したような表情でフリートを見てきて、フリートは一瞬怯んだ。




「俺はもうちょっとメリハリのある体が好きだ」




 怯んで咄嗟に出てくる返しがこれなので、フリートの人生で恋人がいたことはない。ショックを受けた表情で固まるリクル。フリートがリクルを撃退し、素早くテテリの方に目線をやると、テテリは青白い顔色ながらもほほ笑んで二人を見つめていた。




(この人わかってて言ってるな……!)




 もしくは娘を婚約させることでフリートを縛ろうとしているのか。テテリの微笑みを見て、フリートは内心で頭を抱えた。




「まだ可能性はあるし……膨らむし……膨らむもん……」




 ぶつぶつと呟くリクルから目を逸らし、フリートはテテリを見据えた。




「いや、婚約するつもりはありません」


「えー……」


「えーじゃないです。あくまでも! 俺の気まぐれで! お二人の生活の面倒を見ましょう、というお話でして――」




 おかしい。善意の手を差し伸べたのはフリートであるはずなのに、ニコニコとほほ笑んでいるテテリに、フリートが押されている。




「というか、そんな簡単に信じていいんですか? 騙して二人とも売り払うかもしれませんよ?」


「ここにいる以上、まともな生活は無理そうですし。なにより、人間である以上、いつかは死ぬ――そう思いませんか?」




 ――ああ、と。


 フリートはテテリがさらっと言ったその言葉に、納得してしまった。人類に逃げ場はなく、魔族たちの軍勢は、いずれこの町を飲み込むだろう。




 そう思うと、真面目に考えることがバカらしくなるのだ。




 咄嗟に善行を施そうとしたフリートのように。テテリもどうせなら賭けてみよう、と。そう思っただけの話なのだろう。


 ある意味、人類が絶望的な状況だからこそ進んだ話。テテリも、フリート以外の希望を見出す時間があればもう少し慎重な判断をしただろう。そして、ついでに――




「ごほごほっ、ところで、フリートさんには恋人が……? げほっ、奥さんはいらっしゃらないようですが……うちのリクルは良い娘ですよ?」


「いやいやいやいやいやいや!」




 娘の晴れ姿も見たい、とでも思ったのだろうか。せき込みながらも婚約の方向に話を持っていこうとするテテリに、フリートは必死に首を振った。もちろん、横に。




「そんなに嫌なんですか……」






 落ち込むリクルにフリートが慌てて、それをテテリが見ている。お世辞にも立派とは言えない居間は、混沌とした雰囲気に包まれていた。混沌としつつも、朗らかで明るい雰囲気――




 そんな雰囲気を、リクルの次の一言が貫いた。




「……フリートさんになら、私の『祝福ギフテッド』を教えても――!」


「リクルッ!!」




 リクルが決死の表情で言った言葉に反応し、テテリが焦った声を上げた。それ以上言うのは許さない、と何よりも目で語りながら、リクルを睨みつける。心配からとはいえ、鋭い表情で睨まれたリクルが震えた。




 『祝福ギフテッド』。




 それは、人間だけが持つことができる――特殊な能力の名前だ。

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