第35話 七色のクオリア


「カノン! あなた何を!」


 ティナの身体を両手に抱きながら愕然とした表情を浮かべ、顔色を失ったエリスは、青い光にその身を投じた椛音へとそう声を投げかけたが、対する椛音はその光の中に浮かびながら穏やかな面持ちで、眼前のエリスへと言葉を返した。


「考えるよりも先に、身体が動いて、いたんだ」


「そんな、こと……! 枷をもう一度解除する時間はもう、無いんだよ! どうして、別の世界から来たあなたが、私やこの世界のために、そこまで!」


「きっと、言葉だけじゃ、足りない……けど、こうすれば、伝わる、かな」


 椛音はそう言うと、自身の内側から淡い光輝を解き放ち、近くに居たエリスの姿を瞬く間に柔らかく包み込んだ。


 ――ある日、目が覚めたら、其処は、知らない世界、だった。

 瞳に映る景色、肌に感じる風、空から差す光、流れる時間、全て。

 

 私は、自分のことを誰も知らない世界で、独りぼっちに、なっちゃった。

 だけど、私の目の前に現れた子は、私の名前を知ると、すぐに呼んでくれた。

 そして元の世界に帰りたいっていう私の願いを、真剣な瞳で聞いてくれたんだ。

 

 その子は一見、何でも持っているように見えたんだけれど、

 一番欲しいものだけは、どうしても手に入れられないみたいで。

 だから私は、その子のために出来ることを、自分なりに探し始めたの。


 でもそうこうしているうちに、また別の子が突然、私の前に現れたんだ。

 彼女はとっても綺麗な瞳をしてたけど、まるで心が抜け落ちたみたいだった。


 結局、その子とは戦うことになっちゃったけど、おかげで気づけた事もあった。

 その子は心が無いんじゃなくて、ただ、上手く表せなかっただけなんだって。

 それで私は戦いのあと、彼女と話をしたんだ。彼女の想いを、知るために。


 そうすると彼女は教えてくれた。彼女が生きてきた中で見つけた、生きる意味を。

 それから、それを失うことに対する、絶対的で、いつも隣から自分を覗く恐怖を。

 そしてまた、それを護るために必要だった、見たくないものを見るための覚悟を。


 けれどその子は、ある時、自分が生きていくために必要な光と、

 自分が生きる世界、そのものとを天秤にかけることになった。

 

 彼女は、その光あっての世界、世界あっての光と考えて、

 その二つを釣り合わせるための手段を執ろうとした。

 

 でもそのためには、自らの命を賭す必要があった。

 だけど彼女は最初から、答えを決めてたみたい。


 そしてその一方で、この世界を別の手段を使って変えようとした人も居た。

 その人は、何も持っていなかったけど、やがてあらゆるものを手にして、

 他者にも与えようとした矢先に、全てを奪われてしまった人、だった。


 その人は、失った苦しみと、奪われることの痛みを、

 その元凶となった人達に与え、全てを取り戻そうとしてた。

 怒りという名の炎で、自分を抑えるもの総てを焼き払いながら。


 けれど、どんな強い火の中にあっても、燃えずに残っていたものがあったの。

 それは、人が、人を愛し、慈しみ、そして想う、あったかくて優しい、気持ち。

 だから彼は最期に、残酷でいて、それでもまだ望みは灯せる、光を遺していった。


 みんな、自分の世界を変えようとして、必死だった。

 そして私は、そんな想いのかたちに触れて、思ったの。


 自分のことを、誰も知らない、この世界で、

 自分が、誰かのために出来ることは、何だろうって。

 そうしてやっと見つけたんだ。私にしか出来ないことを。


 その瞬間、椛音達を包み込んでいた淡く柔らかな光耀が昧爽まいそう夢寐むびの如く晴れていくと、彼女達が居る船室内には機体の緊急降下を知らせる男声のアナウンスが響き渡り、けたたましいブザー音と共に赤いランプが明滅を繰り返していた。


「ただ今、緊急降下中。全乗員はただちに所定の座席に着き、安全ベルトを締め、酸素マスクを着用せよ。繰り返す、ただ今、緊急降下中――」


 輸送船は、生体ユニットの予期しない置換に対してシステム異常を検知したのか機体の降下率を一気に高めた様子で、エピストゥラに乗船していた時とは異なり、重力加速度と思われる感覚が光の中に浮かぶ椛音の身体にも強く伝わってきていた。


「もう、時間が無いみたい……エリスちゃん、ティナちゃんを連れて、一刻も早くここから脱出して!」


「でもカノン、あなたは……あなたは一体、どうするの!」


「私は……この、デーヴァの力を使って、何とか、してみせる……! だから、エリスちゃん、私を信じて……そして、行って!」


「くっ……!」


 エリスは椛音を正面に捉えながら、両腕にティナを抱えたままの格好で数歩だけ後ずさりし、そしてやがて彼女に背を向けて駆けだしたが、そこから船室の外に出た所で、椛音の居る方へと振り向き、

「ありがとう……カノン。私、信じてる、から」

 とだけ残し間もなくその身体を浮揚させると、猛然とした勢いを以って上下に大きく揺れ始めた船内を一気に駆け抜けていった。


 そして椛音はエリスの反応が遠のいて行くのを感じると、両方の瞼を閉じ、両手を胸元に宛がった状態で、自身の内側から発せられる生命の鼓動を噛み締めながら、

今一度、自分の力で何が出来るのかを考え始めた。


「ユベールは、生体ユニットが死を迎える時に発生する、負の瞑力アンティ・クオリアを流せば、ウイルスを無力化できるって言ってた……」


(そして、純粋な瞑力であれば、逆に活性化するとも、ね)


「けど、私のこの、想いの力……なら、きっと奇跡だって、起こせるはず……ううん、起こして見せる。だから私は、私を……信じる!」


(ならば、解き放てばいいわ。ただあなたの、想いのままに)


 すると一瞬の後に、椛音の内側から様々な色彩に変転する光が煌然こうぜんと燈り始め、彼女を包んでいた青い光でさえもその中に同化していき、周囲の空間は陽炎のようにゆらめきながら緩やかに、しかし確かに高まっていく熱を伝播させていた。


「我が想いよ、その姿を今、ここに顕し……そして拡がれ、全てのものたちに」


 椛音が纏う瞑力は、その様相をさらに目まぐるしく変容させながら、猛火と見紛う程のほとばしりをその全身から噴騰ふんとうさせると、彼女の中心から、七色の彩光がかさの如き円を宙に描き、それは波紋が伝うように辺りに向かってゆっくりと拡がり始めた。


 そしてその光輪はやがて輸送船の内部のみに留まらず、程無くその外界にさえも達したのも束の間、なおもその拡がりを止めることなく、船の後部ハッチからティナを抱えて脱出し、空中に在ったエリスの背中を、玉虫色に照り輝かせていた。


「この光は……カノンの……!」


 それから間もなく、エリスの気配が十分に離れたのを認識した椛音は、まるで鳥が広げていた翼を一気に折り畳むかのようにその拡げていた暈を急速に閉じ始め、周囲に遍く広がっていた光輝を自身の下に向かって収束させた。


「我が元に集え、想いのかけらたち。は全てを包み込み、七色に耀かがようゆりかごとなって、今こそ此処ここに、紡がれん……虹霓の揺籃イファルジェント・クレイドル!」


 その刹那、椛音を中心として吸い寄せられるようにして集まった輝きは、極彩色に煌めく大きな光球となって見る見るうちに膨れ上がり、それはあたかも第二の太陽と言わんばかりの凄まじい眩光を天空に赫然かくぜんと放ちながら其処に莫大な熱量を漲らせていたが、その光圧は相手を焼き尽くすようなものではなく、むしろ何者をも分け隔てなく抱擁する朝日あさひの如く、穏やかで優しげな温もりを持ったものであった。


(私が全てを……この光で包み込んであげるから、きっともう、大丈夫)


 しかし程なく極大にまで膨張したその曜霊から鋭い閃光が突然、空を切り裂くように四方八方へと次々に放たれ始め、そしてほぼ時を移さずしてその中心から淡い光耀が皓然こうぜんと漏れ始めた次の瞬間、周囲一帯が全て七色に染め上げられた。


 椛音が光の中で感じたものは、自身の内外に渦巻く鮮やかな色彩の移り変わり。

 その中で彼女は、溶け合った複数の意識と向かいあうような感覚を認めた。


 目の前の『誰か』が、椛音の声を借りて、語りかけてくる。


 苦楽、喜怒、哀歓、愛憎、嫌悪、憧憬、羨望、嫉妬、虚飾、欺瞞、そして後悔。人の感情はあまりにも複雑で、常に誰かを振り回し、誰かに振り回されるままならないもの。しかし七色に変容するその想いのかけら達が何処かで一つになった時、初めて人は人の気持ちを受け容れ、自分を知って、そして誰かを想うのだろう、と。


 それから目の前の『もう一人』が、語りかけてくる。


 人はあまりに不完全な生物。しかしながら人には悩み、考え、そして過ちから学ぶことが出来る、生きてゆく力と、他者の想いを自分の想いとして受け留め、噛み締められる、共感の力がある。そしてそんな人と人との繋がりは時として不可能すらも超越し、独りでは到底起こし得ない奇跡となって、人の前に顕われるのだ、と。


 そして次に現れた『自己』が、語りかけてくる。


 誰も知らない世界に来たからこそ、誰かを知ろうとする気持ちが、気付こうとしなければ気付かないものを、明らかに浮かび上がらせ、そしてまた誰かと知り合い繋がり合うことが、こんなにも人の心を豊かにし、時には苦しめながらも、お互いに通じ合いさえすれば、人は、その想いを分かち合うことが出来ると知ったのだ、と。

 

(うん……だから私は、この力を全部使って、賭けてみたいの。この世界に生きる人達、ミルルちゃんやエリスちゃん達の、これからと、ユベールが観られなかった未来とに。それは今の私にしか出来ないことで、きっと私がこの世界に来た、本当の意味……願わくばどうか、この想いが、みんなへと伝わります、よう……に……)


 そう祈りながら、やがて遠のき始めた意識の中で、重力の枷が外れたような感覚を覚えた椛音の身体は、七色に煌めきながら空を遍く伝わる光の奥底へと地面に水がみ入るように自然と吸い込まれて行った。どこまでも緩やかに、そして穏やかに。

 

 それはまるで時が、動くことを忘れたかのような、永遠の、一瞬だった。

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