第21話 托身の陽坐


(――ノン、カノン!)


(この声は……デーヴァ? デーヴァなの?)


 椛音がデーヴァと思しき声にそう呼びかけた途端、船内を駆け巡っていた激震が嘘のように鎮まり、彼女から少し離れた位置にある船窓の彼方には、僅かばかりの薄明かりが曇天の空隙より透ける、鉛色をした空が重々しく拡がっていた。


「これは、別の空間に出たの……? でも、今はデーヴァが……」


 椛音は再びデーヴァに呼びかけようとしたが、安定を取り戻したかのように見えたエピストゥラが、あたかも斜面を滑降するジェットコースターの如く、無制動のままで急速に降下してゆくような感覚を、椛音はその全身を以って知覚した。


「当機はこれより直近に存在する浮遊島に対し、胴体着陸を試みます! 皆さん、着陸時の衝撃に備えてください!」


「この感じ、着陸っていうより墜落じゃ……備えろって言ったって……!」


(落ち着きなさい、カノン。今のあなたになら、この船すらをも制御できる力があるはず。床に手を当て、あなたの力を送り込み、そして願いを吹き込むの)


 そうデーヴァに言われた椛音は、一度だけ深呼吸をしてから内側で荒ぶる拍動を鎮めるように間もなくその瞳を閉じると、自身の右手を通し、船の全体が安定するようにイメージしながら、身体の奥底から湧出する力をかつて疲弊したミルルに対して行ったのと同様に、エピストゥラへと送り込んだ。


 するとエピストゥラは、椛音が瞑力を送り込んだ影響なのか、大きく傾いていた機体のバランスを徐々に取り戻し始め、やがて失われていた水平をも取り戻した。


「……機体の重力制御システムが再始動! このまま通常着陸を行います!」


 エレナのアナウンスから間もなく、エピストゥラは目睫もくしょうかんに迫っていた浮遊島の陸地へと不時着し、その機体は水平を保ちながら地面に接触することなく、やがてその進行を完全に停止した。


「はぁ……やっと、船が、止まったみたい」

(上出来よ、カノン。その即応力は、やはり変わらないようね)

「みんな無事にって、ただそう願っただけだよ……本当に、どうなるかと思った」


 それから程なくして、明滅していた船内の照明は平常を取り戻し、先程まで乱れていた立体モニターの映像もまた、ほぼ元通りの状態に復した様相を呈していた。


「みんな無事かしら? 船は胴体着陸の直前に辛うじてその制御を回復したようで、何とか無事に着陸することが出来たわ。とりあえずエレナは、エピストゥラの機能診断と、可能であれば周辺の安全確認も行って頂戴」


 しばらくしてエレナは、機体の制御システムがまだ完全には復旧しておらず、次元転移が行えるまでには多少の時間が掛かることと、周辺の空間における大気組成や重力分布を始めとした環境調査を行った結果、いずれの項目も基準値の範囲内にあり、船外にも目に見えるような脅威は認められないとの判定が出た旨を皆に報告した。


「しかしセラフィナ、探査ドローンからの情報によると、ここから少し離れた東の位置に、地下に通じる入口のような構造物があるようで、微弱ですが、その奥底から複数の生命反応も認められます」


 エレナが立体モニターを通じて、ドローンが現地で直接捉えた風景を其処に映し出すと、別ウィンドウで静観していた様子のシルファが突然、その口を開いた。


「ここには、見覚えが……少し、お待ちください」


 シルファはそう言うや否や、目を閉じながら沈黙したが、程なくその瞼を開けると、それに続くようにして二の句を継いだ。


「私の記憶メモリーを参照した結果、ここが私が製造された旧研究所への入口とみて、間違いはありません」


「なるほど……ならその先に、きっと同程度の確率で、私達をここに呼び寄せた奴が居るってことね。シルファ、施設内部のセキュリティはどうなっているの?」


「同施設に関しては一部の区画しか把握していませんが、私が造られた当時においては防衛機構の存在を確認していません。しかし現在の施設内部には、私かエリスの生体認証がなければ開かない扉が存在するかもしれません」


「なら、皆で行くしかないわね。エレナはここに残って、念のため本部への遭難信号を発信しておいて頂戴。他の皆はこの後、私と合流しましょう」


 それからややあって、エピストゥラの乗降扉前でセラフィナ達と合流した椛音は、セラフィナから青い錠剤のようなものを唐突に手渡された。


「ん、これは……薬、ですか?」


「それは環境適応剤アクラメイトと言って、未踏の環境に対して身体の生理機能を短時間で最適化させる効果があるの。あなたが以前私の研究室に来た時に、食べたものと成分はほぼ同じよ。噛まずにそのまま飲んでしまうといいわ」


「以前……あ、あのグミみたいなやつかな……あれにそんな効果があったなんて」


 そして椛音達は、二重構造になっている乗降扉の中間に設けられた検疫用のスペースを通過し、セラフィナが船外へと通じる扉を開放すると、椛音達はそのまま外界へと足を踏み入れた。


「ここは……」


 エピストゥラから降りた椛音の双眸に自然と流れ込んできたものは、蕭条しょうじょうたる砂海が鈍色にびいろの雲下に広がっており、加えて起伏に富んだ浅黒い岩山が無秩序に散在している、酷く荒涼とした眺めだった。


 砂丘を嫋々じょうじょうと吹き抜ける風の声は、僅かな湿気と寂寥せきりょうの色とを帯び、そして彼方から伝播する遠雷の呻きを誰も受け取る者が居ないであろう空虚な大地に、ただ延々と送り続けて届けているようだった。


「何だかとっても、もの寂しい場所だね……」


 辺りを一頻ひとしきり見渡しながら、ふとそう零した椛音に、彼女の傍らで、エリスと共に佇んでいたシルファが、反応を示した。


「やはり人間は、そのような感じ方をするのですね。私にはそれを具体的に表現することはできませんが……こことは違う風景を初めて見た時、何かを感じました」


「そっか……シルファさんは確か、感情と向き合うことが許されなかったんだよね。でもね、たとえ上手く言えなくても、あなたが感じたその何かは、人が……私達が感じているものときっと同じ、確かな感情だと、私は思うの。そしてそれは決して、不要なものなんかじゃない。人が人であるために、必要なものなの」


「人が、人であるために……必要な、もの」


 シルファは椛音の言葉を反芻はんすうするように、静かに何度も繰り返し、そしてその様子を隣で見ていたエリスもまた、形容し難い妙な表情を花顔かがんの内に幾度と無く往来させていた。


「さぁ、施設の入口に移動しましょう。これを耳に装着したら、警戒しながら私の後に付いてきて頂戴」


「セラフィナさん、これは?」


「これはクレールといって、瞑力を用いて発信する、通信機のようなものよ。これを使えば、大深度領域でも地上にいる相手との明瞭な通信が可能なの」


 セラフィナはそう言いながら、小さな通信機器のようなものを椛音達に配布し、それを右耳に装着し終えると、緩やかに上空へと向けて浮かび上がり、椛音達もそのセラフィナの後をついて、ゆっくりと低空飛行を開始した。

 

 そして椛音達は灰色がかった砂床の上に列を成して進行し、巌々がんがんと連なる黒い岩肌を撫でるように通り抜けると、やがてクレーター状に窪んでいる人工的な地形が椛音の眼前に突然現れた。


「皆、あのクレーターの中央にあたる部分を御覧なさい。不自然な建造物が見えるでしょう。あそこが問題の施設入口に違いないわね」


 それから間もなく目的地へと降り立ったセラフィナの一行は、辺りを警戒しながらも、その入口と思われる横長に広がった大きな扉の前へと足並みを揃えた。なお、その扉の周辺には開閉を制御するパネル類は見当たらなかったが、シルファが扉の直前にまで進むと、時を移さずしてその扉が音も無く左右へと開いた。


「やはり、私の生体認証が有効でしたか」


「ええ、そのようね。それと、ここからは一端あなたに先導を任せるわ。まずは地下へと向かい、その先で生命反応の正体を探りましょう」


 セラフィナはそう言うと、右耳に装着した通信機器と思しきものに手を当て、

「こちらセラフィナ。これより施設の内部に侵入するわ」

 と、エピストゥラで待機するエレナに対して報告した。


 そしてセラフィナに先導を委任されたシルファに続いて、全員が施設の中へと足を踏み入れると、入口の扉は静かに閉ざされ、外界の環境音はその悉くが完全に遮断された。そして無機質で閑散とした施設の内部には椛音達の足音が反響として捉えられるばかりで、人が居たであろう痕跡は其処に微塵程も感じられなかった。


 シルファはエレベーターを通じて、遥か地下にあるという広大な中央ホールに向かい、そこで再度生命反応を探れば、対象の位置がさらに絞り込めるはずだと、セラフィナに提言し、一行はひとまずその中央ホールへと赴くことになった。


「しかしこの施設の規模を鑑みるに、どう考えても逃奔の身にあった個人が建造できるレベルではないわね……ユベールは一体、どうやって……」


「残念ながらそれに関しては、私も詳細を知りません。本人に直接訪ねる他、ないでしょうね」


 ややあって、シルファの言う中央ホールへと到達した椛音達は、其処に伽藍堂がらんどうの如く寂寞じゃくまくとした空間がドーム状に広がっている光景を認めた。そしてその中で椛音が視線を巡らせていると、彼方に見える壁面に小さな扉と思しきものが、等間隔で配置されている様が辛うじて確認できた。


「あれは扉……だ。しかも複数あって……一体どれが、どこに通じているんだろ」


 すると椛音達が居る位置からちょうど正面の遠方にある扉が開き、その奥から何らかの物体が浮かび上がり、そしてそのシルエットはこちらへと近づくにつれて次第にその不明瞭な輪郭を徐々に露わにし、椛音はやがてそれが人の形を成していることに気が付いた。


「セラフィナさん、あれって、人なんじゃ……」


「ええ。そしてまるで瞑力を感じないところからして、ほぼ間違いないわ」


 それから椛音達との距離をさらに縮めたその存在は、白衣を纏い、僅かに白髪が交じった紺青の髪を蓄えた、痩身の男性であることが明らかとなり、そしてそれは椛音が以前エピストゥラの中で見た、ユベールの若かりし頃の姿と酷似していた。


托身の陽坐ティファレトへようこそ、お客人。私の名は、ユベール・シャントルイユ。ただのしがない、持たざる者ハヴナットだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る