三章
万象斬り伏せ給え
気持ちのよい目覚めとはいえなかった。
彼は薄っすらと瞼を上げる。時刻は昼時か。
毎日規則正しく、深夜から早朝にかけての三時間の睡眠しかとらない彼にとって、それは異常なことだった。そうでなかったとしても、背伸びすら許されない拘束下での目覚めは、誰にとっても異常事態には違いない。
「なんじゃ……何時間眠っておった?」
男は欠伸をしながら、ぼんやりと問いかける。
独り言ではない。目の前に立っていた影を見上げての問いである。
「八時間ほどです」
「そりゃまたずいぶん長い」
場所は森の中らしい。地べたに座らされている。両手を後ろに回され親指を金属製の指錠で繋がれている。さらに両足を前に揃えて足首にも枷。胴はなにか頑強な縄のようなもので二箇所ほど背後の太い木に括りつけられている。
「ぬ。動けん」
ただ、状況は掴めてきた。
あのとき、彼は二体の機兵によって襲撃を受けた。
一体は盾を構えた緑の機兵。もう一体は兎耳の白と黒の機兵。
彼は盾の機兵と戦っていた。正確には、彼が刀を振るい、盾がそれを防いでいた。斬れぬものはないと自負していた刀が容易く防がれていた。ただの盾なら、鋼鉄製だろうと造作もなく斬り裂けるはずの刀が防がれていた。あの感触を思い出す。
硬い、わけではない。接触の直前で弾かれ、威力が大幅に減衰される。そんな感触だ。
「おい。ちょいと顎のあたりが痒いんじゃが」
ぼさぼさの黒い髪を後ろに束ね、無精ひげを生やした男は、横柄にも顎を突き出す。
「当機の任務は、ただあなたを観察することにあります。ラ次郎」
「融通が利かねえな」
言われ、ラ次郎はやむを得ず顎を引っ込めた。
目の前に立っていたのは、あのときの盾の機兵だ。
「観察……ってこたあ、このままだとどうなるかは知っておるわけじゃな?」
「はい」
「今思い出した。たしかお前ら、“保護する”とか言うてなかったか? “健康で文化的な生活”を保証すると。これがそうか?」
「あなたに関してはそれが不可能であると判断されました」
「へ。そういうとこでは融通を利かせやがる」
拘束されてはいるが、腰にはまだ刀が差さっている。
“九ノ事打”――究極の刀。彼らがこの刀を抜き、没収しようとしなかったのは賢明なことである。
「というより、知ってたわけじゃよな。あの眼鏡から。俺の固有魔術についても、この刀についても」
「はい。あなたについて我々は
「なら改めていうまでもないか。俺の刀を俺以外が下手に抜こうものなら、おそろしいことになるでの」
彼にとってこの状況は、いわば“敵”に捕まって拘束されている、絶体絶命。
だが、彼は焦ってはいなかった。現状の認識が甘いからではなく、正確な認識がそうさせていた。
問題は、時間が差し迫っていることである。
「いくつかの質問に答えてくれるか? いうて、聞くだけは聞くんじゃが」
「構いません」
「グラスはどうした?」
「我々との協力関係にあります」
「協力。あの眼鏡、やはり裏切りおうたか」
「グラスがあなたの意に沿わない判断を下したという意味では、“裏切り”という表現は正確です」
「……レシィは?」
「保護いたしました」
「無事なのか」
「はい。“保護”という表現にも含まれている通りです」
「どこに?」
「ゾルティアの南端、という答えで満足いただけるでしょうか」
「舐められておるの。場所が知れたところで俺にはどうすることもできんと?」
「不明です。あなたの処遇についての管轄は現在は我々“保護派”にありますが、場合によっては“殲滅派”に管轄が移ることもあります」
「危険すぎる場合には殺すと。まあ妥当だわな」
やがてそのときが訪れる。
舞い落ちる木の葉が、音もなく両断された。
その現象はカマイタチと呼ばれる現象を連想させるものだったが、真相は異なる。
拘束されていたはずの男が、立ち上がっていたからである。
「おっと、刀を振らねえとな」
指錠も、足枷も、縄も、いつの間に切断され地べたに転がっている。
彼は――ラ次郎は、たしかに両手を塞がれていた。その状態では、刀を振るうどころか握ることすらできない。
だが、その程度で斬れぬはずがない。
すでに八時間以上も同じ場所に留まり続けては、九代に渡り刀を振り続けてきた無限の剣筋が、もはやあらゆる合理を踏み越えてすべての結果に先行する。
刀を振るのは後からでいい。彼ならば斬れていて当然だからだ。
「もう一つ、聞くことがあった。この周辺にはお前以外には誰もおらんと思うてよいのか?」
「当機の他に複数の観測機器が設置されています」
「あー、人間はおらんのよな?」
ラ次郎は後頭部をボリボリ掻きながら辺りを見渡す。たしかに“鳥”と思しき気配は複数。ただし、人の気配ない。ならば、安心して刀を振るえる。
機兵は、そんなよそ見をしている男に対し、八時間前にその男を昏睡させた麻酔弾を射出した。
ラ次郎は当然、それを斬ることができる。ただ、麻酔弾を斬るだけでは内部の液状ガスが揮発し同じ結果となる。だが、ラ次郎は躱さない。再びそれを吸引しながらも、平然と立っている。
「ぬ。眠気が――」
それも一瞬。足元がわずかにぐらついたが、即座に彼は身を立て直した。
「薬効が斬れたようじゃな」
彼に斬れぬものはない。なぜなら、一度は斬れたのだ。むしろそれが困りものであった。
「盾を構えい。決して防ぎ切れぬがな」
機兵は言われるままに盾を構える。ラ次郎もまた上段に刀を構える。
両者の距離は十歩ほど離れている。だが、もはやいうまでもないことだが、その程度で彼に斬れぬはずがない。
「
刀を大きく回転させ、地を掬い上げるかの軌跡で放たれた遠隔斬撃。
魔術の常識として、擬似質量を射出するだけの遠隔斬撃は、射程の利はあるものの威力としては劣るものだ。ゆえに、通常は多人数で続けて放つなどの運用で火力を発揮する。
そんな常識など、彼にとっては関係のない話だ。
電磁斥力シールドは恒星間航行船を小惑星などの衝突から守るために開発された技術である。それを小型化し、白兵戦用に携行可能にしたものが防御型の構える盾であった。
ラ次郎の剣撃は鋭かった。人類の筋力で、ただ刀を振るうだけで、たった二万の試行回数でその盾を破れるという算出結果は、Nα-3以前の常識では到底考えられない驚異であった。
それすらも容易く更新される。彼らはそれを確認しなければならなかった。
結果。防御型機兵はその盾ごと、縦に両断された。彼らの有するあらゆる
ゆえに、観察を目的としていた彼らの通信網が状況を正確に把握できたかは不明である。
なぜなら、ラ次郎は“同じ場所”に、九時間も留まり続けてしまったからである。
舞い落ちる木の葉は言うに及ばず。大木の幹も、枝も、そこに止まる偵察機械も。両断され機能を停止した機兵の残骸も。あるいは、大気を組成する分子までも。通信網という概念までもが切断された。
まずは横薙ぎ。彼を中心とした円の軌跡。
次に袈裟斬り。次に逆袈裟。刀は止まらない。間合いに存在するすべての物質は、一度斬られ二度斬られ、三度斬られ、それ以降は数えられぬ。塵芥と化すまで。
秒間九撃の煌めきは、次の秒で八十一。その次で七百二十九。さらにその次で――。
それが九秒間。
それくらいは、彼ならば斬れて当然だからだ。
「……あー。うん。こりゃひどい」
その光景を目にするのはいつ以来だろう。
九代目にして完成せし“究極の剣術”。最高の刀として極まった“九ノ事打”。
――万象斬り伏せ給え。
妄念に似た願いの体現である。彼はその刀によってすべてを斬ることができる。同時に、すべてを斬らずにはいられない。
一帯の木々は
さらには、空気分子まで切断してしまうためしばらくは呼吸すらままならない。歴代に大地まで斬ろうとした
「いずれにせよ移動じゃな」
ラ次郎は袖を引っ張って口元を押さえながら歩き出す。塵を吸い込むわけにはいかなかったからだ。
彼は同じ場所に留まり続けることができない。
彼自身はかつてそう説明したし、今もそう思っている。
ただし、その真なる所以は、すべてを斬り伏せようという刀を制御しきれなくなるためである。
彼とて、斬ることを望まぬわけではない。斬らずにはいられないのはもはや呼吸と等しく自然なものである。一族の宿命としてそれは避けられない。
ただし、これでは、切実な問題として生活に困るのだ。塵を吸引する危険性があれば息を止めるのと同様に、生活のためには斬ることも助長せねばならない。なにより、傍に人がいれば無論巻き込むことになる。
その悲劇を経験してから、彼は歩みを止めるわけにはいかなかくなった。
一方で、盾の機兵を斬り伏せずにいられなかったのも性分である。
祖父より刀を受け継ぎ、父と共に鍛錬を積み、すべてを斬ることを夢見て刀を振っていたころは、ただ無心に楽しかった。その父を斬ったあの日さえも、悲しみよりも高みに立ったという昂奮が優っていたほどだ。
だが、やがて、もはや斬れぬものなどないと知った。
――ならば、俺はなんのために刀を振るう?
立ち止まって黙考した。彼は毎日のように続けていた鍛錬を怠った。だが、それは許されることではなかったのだ。
立ち止まっている暇があるなら、彼はすべてを斬り伏せているはずだ。
叡海に刻まれた
幸いだったのは、彼の屋敷が人知れず山奥に位置したこと。住まいにいたのは彼の他に数人の給仕のみであったこと。ゆえに、被害はそれだけで済んだ。
「……南か」
歩まねばならない。過ぎたる力で、為すべきことを成すために。
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