hosanna
三津凛
第1話
内臓の飛沫を浴びた。人が血の霧になるのを見た。砕けた骨が前を走る誰かを刺し殺した。
死神どもが私たちの故郷を蹂躙している。灰色の未来を、アルマは夢想した。
「もう人殺ししか教えてくれないわ」
瓦礫の隙間にうずくまって、膝を抱える。コンクリートの粉が黒髪を白髪に変えていく。
「ねぇ、アルマ…」
同じように隠れていたソフィーが脇腹を突く。
「いつになったら、また大学へ行けるのかしら」
「さぁ…」
父も母も死んだ。兄弟は散った。教科書は燃やされる。ペンは銃弾に変えられる。
「もう、死ぬしかないのかも」
ソフィーは黙って、遠くから響いてくる銃撃に耳を澄ます。昼間は生き残った同級生たちと、半分崩れかけた家の中に隠れている。
プロパガンダで溢れるラジオを音楽代わりに四六時中流す。一昨年から私たちの国には内戦の嵐が吹いている。
誰が敵で味方なのか、多分誰も分かってはいない。
内臓の飛沫を浴びた。人が血の霧になるのを見た。砕けた骨が前を走る誰かを刺し殺した。
「私はただの数字に還元されたくない」
ソフィーが呟いた。
アルマも頷く。この内戦は、一つ国境を跨いでいくたびに悲惨さが薄まっていく。地球の裏側に行く頃には、あの悲惨な死もただの数字に成り下がる。
昨日は百人死んだ、明日は千人死ぬだろう。
アルマもソフィーも、そんなただの数字になりたくはないと思った。
「…エマから聞いたんだけど、UNのボランティアが女の子をレイプしたんだって。何しに来てるのかしら」
ソフィーがコンクリート片を投げた。割れたガラス窓の向こうで、薄い煙が昇る。
「正しいものなんて何もないのよ」
正義も救いもない。
「お腹空いた」
ソフィーが身体を揺らした。
「暗いことばっかり言ってんじゃねえよ」
ずっと影で私たちの会話を聞いていたオリバーが脚を投げ出した。
アルマとソフィーは黙って俯く。
どこかで銃撃が行われている。こうしている間にも人が死んでいる。豚や牛が屠殺されるのと変わらない。
ラジオから、腐ったプロパガンダが流れ続ける。どちらが勝っても何も変わらない。死んでいった人たちは帰ってこない。喪われた時間は戻ってこない。ペンを握れない子どもたちは、ある日突然教科書を開くようにはならない。
「ホザンナ」
オリバーが野太い声で呟く。
「信じるしかないんだ」
それ以上、オリバーは何も言わない。
私をお救いください。
誰に、何を祈るのだろうか。オリバーは神を信じるのだろうか。
アルマとソフィーはそっと目を合わせる。
「…ホザンナ」
ソフィーも小さく呟いた。
相変わらず、内戦は続いている。思い出したように、停戦合意は話し合われているようだった。でも、一瞬でもあの銃撃や煙がなくなったことはない。
半分崩れかけたこの瓦礫の山も、そろそろ限界だった。
ここの他に行ける場所もない。
「また楽器を弾けるようになりたいな」
オリバーが呟く。彼の弦楽器の演奏は一流だった。ソフィーが調子を合わせる。
「私もまた声楽の勉強をしたい。歌いたい」
「みんなそうだよ」
オリバーが笑った。そして、ラジオから流れるアナウンサーの声に耳を澄ます。死神どもは、少しずつ退潮しているようだった。
大学は途中で壊された。楽器の弦は切られた。教科書は燃やされた。
「もう一度、みんなで音楽をやれたら素晴らしいと思わない?」
ソフィーが、久しぶりに声を張った。アルマはあの時砕けた骨が刺さった右手を眺める。
「…ねぇ、アルマもまた勉強したいでしょう?」
できることなら、なれるものなら、なりたい。
「うん。指揮者になりたいわ」
「君ならなれるよ。ならなくちゃダメだ」
オリバーが力を込めて言った。もう遠くに霞んだ大学生活がよみがえる。夢が、瓦礫と死体の山から立ち上がる。
アルマは指揮者になりたかった。
音楽大学は銃撃を撃ち込まれて死んでしまった。
それでも、諦めきれない何かがある。ただの数字に還元されたくない、あの固い思いと同じ根で繋がっている。
アルマは顔を上げた。
「また音楽をやらないと。このままだと、心まで死んでしまうわ」
「そうね」
「何を演奏する?」
アルマは底に沈んだ旋律たちの背を撫でる。
「救いと希望が欲しい。モーツァルトのレクイエムから、サンクトゥスをやりたい」
いと高きところにホザンナ。
私たちをお救いください。
見えないだけで、どこかにいる。アルマは天使の顔を眺める思いでオリバーとソフィーを見た。
内戦が落ち着く頃には、みんな痩せこけてしまった。それでも心までみすぼらしい肋骨が浮くことはない。
停戦されたら、その瞬間にあることをやろうとアルマたちは話し合った。それはかつての同級生たちの間に広まっていった。
ラジオの声は段々張り上がるようになった。死神どもは徹底的に叩かれている。次第に彼らは、山々が背骨のように連なる国境間際まで追いやられた。
一つの終わりが近づいていた。
そしてついに、停戦が約束された。
銃撃は止んだ。あの腐敗した煙も立ち昇らない。
全てが終わっても、一度空いた穴は簡単に塞がらない。死んだ人たちは帰ってこない。喪われた時間は戻ってこない。ペンを握れない子どもたちは、ある日突然教科書を開くようにはならない。
それでも、私たちは生きなければならなかった。心に肋骨が浮かずに済んだのは、音楽の息吹のおかげだった。
死んだ両親に、友達に、子どもたちに、時間に。そして生き残った私たちと未来のために、歌う必要があった。
「もう一度楽器を握れるなんて、思わなかった」
「歌えるなんて思わなかったわ」
「顔を合わせられるなんて思わなかった」
「生き残れるなんて思わなかった」
いと高きところにホザンナ。
私たちをお救いください。
頭の中の旋律を頼りに楽譜を書いた。オリバーは泣きながら、生き残った楽器の弦を調弦した。ソフィーは瓦礫のあげる砂埃に喉を潰されないように、澄んだ青空に唇を向けた。
会えないままになった同級生と、会えることができた同級生のための捧げ物だった。壊れたこの国への癒しだった。死んでいった人たちと、生き残った全ての人への約束だった。
アルマは街並みがコンクリート片に変わってしまった様を、初めて見た。肉を削がれて、骨だけになった人のようにそれは悲惨で哀しかった。
死んでいった人たちは帰ってこない。喪われた時間は戻ってこない。ペンを握れない子どもたちは、ある日突然教科書を開くようにはならない。
あぁ、それでも生きるしかない。
アルマはコンクリートの塊の下から、木の棒を見つけた。
「ちょうどいいタクトじゃないか」
オリバーが呟く。
右手に力を込めて、アルマは応える。
「そうね。…またみんなに会えるとは思わなかった」
「そうだね。早く始めようよ。まだ美しいものじゃないだろうけど、やっぱり生きるためには芸術が必要なんだ」
二百人以上いたはずの同級生は、たったの二十三人になっていた。力強い音楽は望めない。
それでも、ようやく静かになった私たちの空に向かって救いを乞い、変わらず広がってくれることへの称賛をしたかった。
まだ完璧に引っ張ることなんて、できない。楽器の調弦も十分ではないし、声の張りも頼りない。
瓦礫を押しのけて、かつての広場に世界で最も弱いオーケストラを作る。
アルマは右手を上げた。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
万軍の神なる主、
主の栄光は、天地に充満てり、
天の最上に於て尊まれ給え。
いと高きところにホザンナ。
私たちをお救いください。
死んでいった人たちは帰ってこない。喪われた時間は戻ってこない。ペンを握れない子どもたちは、ある日突然教科書を開くようにはならない。
あぁ、それでも生きるしかない。
ようやく悲鳴と銃撃以外の音が、空に満ちて消えていった。それに誘われて、隠れていたあの死神どもの生き残りが物陰から銃を向けていた。
みんな気がついていた。でも誰一人、逃げなかった。
アルマはもう一度、と合図をした。音楽は続いていく。
ドイツの作曲家は言った。
人類に必要なのは、自由、平等、博愛。音楽はそのためにのみ存在する。
いと高きところに、ホザンナ。
私たちをお救いください。
あぁ、それでも生きるしかない!
「ようやく、停戦合意が結ばれました。ただ停戦合意が結ばれても、散発的に銃撃戦が行われているようです。
東部では二十三人の男女が撃たれて死亡しました……」
誰も読み上げるアナウンサーの顔を見ることもせず、ニュースを聞くこともしない。地球の裏側で起こっていることは分からない。
二十三という数字も、すぐに忘れられていった。
引用
いと高きところにホザンナ。
『マタイによる福音書』21章9節 および『マルコによる福音書』11章10節
人類に必要なのは、自由、平等、博愛。音楽はそのためにのみ存在する。
ベートーヴェン
モーツァルト 「RequiemよりSanctus」
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
万軍の神なる主、
主の栄光は、天地に充満てり、
天の最上に於て尊まれ給え。
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