第10話 印なしに神はいない
印なしであることが知られて、かれこれ4日目になる。
俺は男たちに追われていた。穴倉に住む、大人の男たちである。
手頃な水路を見つけ飛び込むと、水路の底を舐めるようにして上流へと泳ぐ。
水路を満たす水は、お世辞にもきれいとは言い難い。濁っていて底は見えないし、臭いも悪い。
ガンジス川とどっちがマシかと問われると、同じくらいなんじゃないかと思う。
実際に見たことがないので断言はできないが。
泳ぎというのは、地球の人類史にあってかなり特殊な技能だ。内陸では顔を水に着けるのすらできない人間が多かったと聞く。
だからひとつの賭けとして水路に飛び込んだわけだが、幸いにしてその常識はこの世界でも通用するらしい。
途中何度か息継ぎをして、再度潜水で人気のない場所まで逃げる。
水路からあがって通路の陰に身を隠し、ため息。
身体に残る淀んだ水の感触が気持ち悪い。臭いは、今更か。
比較的水がきれいな場所を何か所か知っているので、そこでまた飛び込めばいい。
しかし、これからどうしたものか。
俺が印なしである件は、上にも漏れ聞こえているだろう。
大人たちは捕縛のために意気込んでいたが、上から直接そうした人間が送り込まれてこないところからすると、関わり合いになることを避けているのかもしれない。
印なしである以前に、闇月の札付きだ。
詳しい情報を持たない俺にだって、厄介事だってことくらい分かる。
あわよくば、このままくたばってくれないか、なんて考えを持つのは至って普通。俺だって似たような状況に置かれれば、同じようなことを願うさ。
当事者である俺はどうすればいい。
子供たちはみんながみんな俺の敵になった。
札付きということで初めから毛嫌いされていたのだ。印なしなんていう得体の知れないものを、異物として排除するのになんの躊躇いがあるだろう。
フィオとエムリは害意こそぶつけてこないものの、俺を見ると怖れを顔に逃げ出す。
もう食い物もまともに手に入らない。
分配場所をこそこそ嗅ぎまわって、取りこぼした残りカスを漁るくらいしか術はない。
飢えて惨めにくたばるか。私刑で嬲られてくたばるか。
どうしてこうも俺は詰めが甘いのだろう。
徹し切れていない。
考えに穴がある。
いや答えは知っているのだ。
所詮、俺は凡愚。
ラクハサやキースのような才能ある人間ではない。
ただ少し見た目よりも生きた時間が長く、異なる価値観を知っているだけの小人。
なら、それに見合った運命を、神サマとやらは見繕ってくれたってよかったんじゃないのか。
ああ、印なしに神はいないんだったか。
近くで複数の足音が響く。
軽さからいって子供たちだろう。
「なあ、やっぱあんなの放っておこうぜ。印がないなんて気味悪りーよ」
「だからだろ!
ガキどもまでそんなこと言ってるのか。下手な知恵つけやがって。馬鹿どもが。
クソ。ここには馬鹿しかいない。
上が動いていない理由をまるで考えていない。
俺がここでこのままくたばるのが、上にとって最も都合がいいことなのだ。
都合が、いい?
俺がこのまま上に行ったらどうなるんだ。
厄介事の種が増えたと、それはもう悪感情を抱くはずだ。
手間を惜しんでいるだけ、という線もあるな。
しかし印なしを裁くのになにも不都合は……札があったか。
積極的に動かないのと根っこは同じだ。
そうなると、俺が上に行くことに、現状に勝る危険はない?
周囲を巻き込むことになるが、波風は大きいほど、俺にも機会が訪れるのではないか。
教派間の折衝となれば、その間、下は動けない。
懸念すべきは末端の暴走だが、すでに暴走の渦中にあるようなこの状況。
まだ統制された環境に身を置くのが賢い。
ただ、できることなら俺に向けられる悪感情は最低限に抑えたい。
誰かに汚れ役を押し付けたいところだが。
「なあ、あれって」
「そ、そこに居るのは誰だ。出てこい!」
こいつらに丸投げは事故が怖いな。
仕方ない、場はこちらで整えるとしよう。
そう決めると、俺は静かに立ち上がり、2人に背を向け全力で走った。
◇◇◇
穴倉の中を、後ろの2人にそうと知られぬよう、入り口に向かって引き回している時だ。キースが来ているという話声が耳に届いた。
キースか。
あれなら如才なく俺を上に引き渡してくれるに違いない。だが、今は関わらずにおくのが賢明だろう。
今後のことを考えるとここで使い潰すのは惜しい、というのもある。
しかしそれ以上に、今の俺にとってキースは不確定要素なのだ。
キースが印なしにどんな感情を抱いているか分からない。
そんな状態で接触するわけにはいかなかった。
下手をすれば事故の原因とすらなり得る。
それに俺には猶予があまり残されていないのだ。
空腹に倒れそうな状態で、子供2人と鬼ごっこをしてる。仕切り直しとか、もう、なんだ。体力的にムリ。
いやあ2人の身体能力が高くなくてよかった。
俺が身体の動かし方に慣れたのかね。
なんにせよよかった。仲間を呼ぶお頭がないのも助かった。
ともかく、もうあと3つも角を曲がれば――。
「おっと危ねえな。ってお前、ヤトイか?」
側道から顔を出した子供が、駆け抜けた俺の背中に声をかける。
なぜ、お前がここに居るんだ、キース!
無視して足を動かす俺に、鋭く制止の声が飛ぶ。
「止まれ。今そこで」
足の裏が縫い止められたように停止する。
「お前らもだ」
これ幸いと騒がしくなった後ろの足音もピタリと止まった。
「なんだ、これは」
「キースさんそいつ、
「……」
「無印ってのは印なしのことで、そいつ、聖印がなかったんだよ」
「おれたちを騙してやがった」
「で?」
「でって。だからそいつは無印なんだよ!」
「うるせえ叫ぶな。オレが聞いてんのは、だからなにしてたんだって話だ」
「え。なにって、捕まえようと」
「捕まえて上に渡せば、おれたちも上に行けるってツムが」
「おれだけじゃないだろ。他のやつらだって、大人だって言ってる」
「チッ、揃いも揃って……。仲間を集めてこい、3番を使う」
ここで、ここまで来て、お前は俺の邪魔をするのか。
2人が我先にと逃げるように散っていく。
残されたのは俺とキースだけ。
殺される、その危機感はなかった。だが絶望感が広がる。
キースが子供たちを集めてなにを話したところで、印なしである俺の事情はなにひとつ解決しない。
印なしであることが露見した時点で、俺がここを出る術はひとつしか残されていなかったのだ。いや、露見する前からそうだった。
あれこれ手を尽くし、キースという外への伝手も手に入れた。
しかしその先は手詰まり。
現実が見えていなかった。現実を見ていなかった。見たくなかった。
遠回りをして、結局、収まるべきところに収まろうとしていた。
それでもマシな結末だろう。
岐路の片方は、いつだって死に繋がっていた。死を避け続けて今がある。
穴倉に留まることに意味はない。袋小路のどん詰まり。腐り朽ちゆくのを待つだけ。
それは死とどう違うのだろう。
突然見知らぬ世界に放り出された俺にとって、生き延びることは唯一無二の目的だ。
だが生きることと生きていることはまた別。
「キース」
恨み言でもぶつけてやりたかったのだろうか。気が付けば呼びかけていた。
鍔鳴りと共に怒声を押し殺したような声が飛ぶ。
「黙ってろ。お前の話は後でいくらでも聞いてやる」
再び鍔鳴りが響く。
俺はなにも言えなくなった。
元々、言葉を用意していたわけでもない。
小学生程度の子供の怒気に怯んだなんてことは断じてない。
ただ、思いはする。子供に刃物を与えるのはいかがなものかと。
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