世界に色を付ける方法

千輝 幸

変化




退屈だ。






朝のアラーム、照りつけた太陽の熱が部屋に溜まり、不快な汗がシャツを濡らす。

体を起こしタバコを咥える。

オイルライターの匂いすら不快になるような湿気が吐き出した煙と共に顔を撫でる。

深いため息をつきながら立ち上がり、重い足取りでシャワーを浴びる。

着慣れたスーツに身を包み、重い扉を開ける。





高校を卒業してそのまま今の会社に就職してから3年。

上司にけつを蹴られ、下げたくもない頭を毎日下げ続け、理不尽な説教。

上司の顔色を見る日々。それが仕事。社会。そう言い聞かせて来た。

朝はバスに揺られながら本を読む。

それが、それだけが僕の楽しみだ。

本は良い。退屈を忘れさせてくれる。

本だけが僕をこの退屈な世界から一時的に彩りのある世界に連れてってくれる。

大海おおみ ゆう

去年新人賞をとった作家。

今は彼女の本を愛読している。

どこが良いのか僕には説明できない。

だが、彼女の見ている世界はとても美しいと思った。

彼女の目が欲しいそう思えるほどに。

「次は××大通り」

バスのアナウンス。

一気に現実に引き戻されるこの声が、退屈な1日の始まりを告げる。

何も変わらないいつも通りの席に座り、いつも通りの仕事、いつも通りの上司。ああ。退屈だ。




昼は本を読むためいつも近くの喫茶店へ行く。カウンターに座ると、唯一落ち着いて話せるおばさんがコーヒーをそっと出してくれる。

「お疲れさん」

おばさんの一言で少し気が楽になる。

1番左の椅子に腰掛けるといつもとは違う。そんな違和感を覚えた。

この喫茶店は大通りから外れた人通りの少ない脇道にある。

3年も通っていたが、

新しいお客はほとんど見ない。

ほとんどが常連で60代くらいの人が多かった。だが今、1番右奥の席に淡い雰囲気の女性が座っていた。

日焼けを知らないように白い肌、黒く艶やかな髪は胸の高さまであり、大きな目に伸びたまつげ、常に口角が上がっているような眩しい女性だった。

どこかで見た気がするが、あんなに華やかな知り合いは僕にはいない。

コーヒーを一口飲み、本を出し、あの人の世界へ入っていった。

少し時間が経った頃、透き通った冷ややかな声が、僕を引き戻した。


「こんにちは」


気がつくと1つ席を挟んで右の席に先ほどの女性が古いパソコンを持って座っていた。

しばらく状況を飲み込めなかった僕は慌てて挨拶を返した。


「こ、こんにちは?」


クスリと笑った彼女は本を指差した。


「本好きなの?」


「ああ。とても。」


「そうなんだ。なんだかとても退屈そうに本を読んでたから」


そういった彼女はアイスコーヒをストローで飲んだ。


「そうかな。現実と違って本は退屈だとは思わないよ」


アイスコーヒを飲みきった彼女は500円玉をカウンターに置いて立ち上がった。


「ほんとはその本読んで少し鼻で笑ってたでしょ?」


そう言い残して出口に歩いていった。

図星だった。

少し手前で立ち止まった彼女が振り返って少し笑みを浮かべて言った。


「世界が退屈なのはあなたが退屈な人だからよ」


ドアが閉まり、ベルの音が僕の心と静かな店内に響いていた。

感じたことのない感情、聞いたことのない鼓動が体に響き

しばらく金縛りにあったように呆然としていた。

妙な余韻が残ったまま、昼休みが終わろうとしていた。

お金を置き、会社へ戻る途中、彼女の言葉が何度もフラッシュバックしていた。









そして僕は会社を辞めた。









朝のアラーム。すぐに身体を起こし、軽い足取りでシャワーを浴びる。

革のジャンパーとジーパンに着替えて重たい荷物を持つ。

扉を開けると気持ちのいい太陽の光が僕を照らしていた。

バイクにまたがりヘルメットをかぶる。


「よし」


そう呟きエンジンをかける。

いつものバス停を通り、3年間通った会社を通り過ぎ21年間住んだ町を出た。

3年ぶりに嗅いだ潮の匂い。

涼しい風が僕の背中を押した。

今日から始まる僕の旅。

退屈な世界を変える旅。

いいや、退屈な自分を変える。

そんな旅。

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