夢の中で/1-3

 来たる金曜、五月四日。開発に必要な諸々の資料を印刷し、天音氏から持ち出し許可の印をもらったことで、私の天音病院での業務は終わりを告げた。


「今までありがとうございました」


 天音氏に深く頭を下げる。仕事はこの後自社内での開発となる。ここに仕事で来ることは、進捗報告やレビューのときになるだろう。


「あはは……なんか退職するみたいだね」


 冗談を言いながら笑う天音氏に、「ですね」と同じように笑って返す。


「最後に一言、どうぞ?」


 天音氏は一歩引いて、私を引き立たせた。皆からの視線が私に向けられる中、私は全員の顔を見るように首を回す。


 三階の看護師でもある猪狩や一階でよく受付をする小川さん、他に薬剤師の方もここにいた。


「僅か一ヶ月ではありましたが、本当にお世話になりました。皆様からいただいたお話を元に、素晴らしいシステムを開発し納品いたします。時折またお話をお聞きに参ります。あぁ、それと……病気になっても来ますよ」


 ははは、と控えめな笑みが聞こえる。そして私が頭を下げることで、のだ。


「では、今日は居酒屋とかではなく、院長のご自宅をお借りできていますので、送別会に参加できる方は、移動をお願いします!」


 急に猪狩が仕切りだしたことで、つい一笑してしまった。それは周りも同じようで「こういう時だけ猪狩君は元気ね」などという言葉も上がる。


 私は天音氏を見やると、彼は「美星を迎えに行ってやってください」と耳打ちをした。私はそれに笑顔で返し、荷物を持って彼女の病室に向かう。


 三〇三号室。彼女の病室の戸をノックすると、「はい、どうぞ」と少し緊張した面持ちで、言葉が返ってきた。


 はて、と思いながらも戸を開くと。


「……これは、驚きだ」


 彼女の病室にいた彼女は、私が見慣れたではなかった。


 いつもの入院着ではなく、今時の女の子が着るような可愛らしい服装に身を包み、髪も少しだけカールしている……普通の女の子だった。


「変、ですかね?」


 カールしている髪の先をくるくるといじりながら、美星はそんなことを口にした。


「変なもんか。とっても可愛いよ」

「ありがと……ございます」


 うん。可愛らしい。


「貴女がやったんですか、?」


 美星の隣には宮前看護師長がいる。彼女の手には、美星の入院着があった。私の言葉には鼻を鳴らして応えただけで、特に何かを言うつもりはないようだ。


「宮前さんが色々調べて用意してくれたんです」

「ははは、人選ミスが否めないけど、結果良ければ、だね」

「どういう意味ですか、それは」

「ははは、言ったままの意味ですよ、宮前看護師長」

「ふん。今日で終わりだからと随分嫌味ですね、久城さん」

「ははは」

「ふん」


 本当に最後までこの人とはこういった関係だったな。


「来週は私も行きますからね」


 ……天音夫妻ならまだしも、何故この人が来週の海に付いてくるんだ。全く意味がわからない。


「貴方と違って私は美星ちゃんと三年以上付き合いがあるので」

「いや、それはあまり関係ないでしょう」

「……」

「……」


 少しの無言の後に。


「とにかく、今日は天音院長のお宅に伺うので、美星を連れて行きますね」

「私も行きます」

「……」

「……」


 宮前看護師長は美星の入院着を素早く丁寧に畳んでベッドに置くと、車椅子の後ろに回った。


「私の送別会ですが、来るのですか」

「えぇ。貴方の送別会であろうと行きますよ」


 言って、彼女は美星の車椅子を押し出した。


「早く戸を開けてもらえますか?」

「……はいはい」


 私は彼女らのために戸を開ける。私の横を通り過ぎるときに、美星は小さく私に手を振った。


「今日は美味しいものも食べられるから我慢するか」


 私は彼女らに続いてこの病院を後にした。


 宮前看護師長は天音院長の自宅を知っているようで、特に迷うこともなく先を進んでいった。その間、美星と宮前看護師長は楽し気に話を続けており、あの宮前看護師長が口元を押さえながら笑うという貴重なシーンも見れた。


「あの人、いくつなんだ」


 ぼそりと呟いたつもりだが、彼女の地獄耳には届いていたようで私はぎろりと睨み付けられた。


「何ですか?」

「別に何も、そろそろ着きますね」


 天音宅に到着すると、玄関からでも中の賑やかさが伝わってくる。密集している住宅街というわけではないので良いのだが、一体何人が天音宅にいるのだろうか。


「天音院長も本当にお祭り好きなんだから」


 ふっとほくそ笑んだ宮前看護師長の顔は、どこか優し気で……儚げだった。


「地味で静かすぎるよりも良いですよ」


 言いながら黒い門扉を開き、彼女の車椅子が通れるようにした。


「ふん」


 宮前看護師長は相変わらず、鼻を鳴らした。


 本当に、この人は苦手過ぎる。

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