第四章 無彩色の恋と愛

夢の中で/1

 例えば春。桜吹雪が舞い散る時に見上げた、あの青空も。


 例えば夏。うだるような暑さの中見上げた、あの青空も。


 例えば秋。紅葉彩る美しい木々と見上げた、あの青空も。


 例えば冬。降り積もった雪の上で見上げた、あの青空も。


 彼女にとっては、どれも同じ空でしかない。


 だから彼女はいつも外を見る。


 今日はどんな空なのか、と。


 晴れているのか、雨なのか、それとも曇りなのか。


 わからないから彼女は言う、屋上に行きたいと。


 屋上に行けるのならば、きっと今日は曇りの日だ。


 駄目ならきっと、晴れか雨なのだろう。


 失われ続ける世界の色。時折戻るが、残酷に同情の余地なく、その間隔は短くなっていく。


 誰も彼女を治せない。


 誰も彼女を癒せない。


 誰も彼女を救えない。


「ごめんなさい。泣いてしまって」


 彼女は私の胸に顔を埋めたまま、そう言った。


「もう、大丈夫ですから」

「大丈夫じゃ……ないだろ」


 美星はゆっくりと私の背中から手を離す。私もゆっくりと、彼女を腕から解放した。


 赤く腫れた目元には、はっきりと涙のあとが見える。


「死にたいなんて……言わないでくれ」


 泣いてほしくて、あのアニメを観てほしかったわけじゃない。笑ってほしかっただけだというのに。


「私が死んでもきっと、落ちるのは地獄なんです。生まれ変わるなんて、私にはおこがましいですから」

「そんなことを考えちゃいけないよ、美星」


 片膝を付いて、彼女の顔をじっと見る。


「私のお見舞いに来たせいで、お父さんもお母さんも、美空も死んじゃったんです」

「違う!」


 彼女の言葉を聞いて、胸がかっと熱くなった。怒りにも似たその感情のまま、私は彼女の肩をがっしりと掴む。


「それだけは、違う……忘れないでくれ。君のせいじゃない……もしもそんなことを言う奴がいるなら、例え誰であろうと私が……!」


 一度言葉を切って、私は大きく深呼吸する。


「私が……


 その一言を聞いて、美星はふわりと微笑んだ。


 氷の花の笑みではない。優しくて、温かくて、愛おしい……そんな微笑みを。


「久城さん」


 その微笑みのまま、彼女は。


「もう一つ、約束してくれませんか」

「……なんだい?」

「今言ったこと……絶対に、破らないでくださいね」

「……わかった」


 美星はまた私に背中を向けて、曇天に手を伸ばした。


「久城さん」

「ん?」

「今の空は、何色ですか?」


 私は顔を上げて空を見た。


 雲は厚くて暗かった。風も強く間もなく雨が降ってくるかもしれない。


「……うん、そうだね」


 空から視線を下げつつ前を見る。黒い海があった。陰影がはっきりとついて波打っている。


 そう言えばここからは海が見えるんだった。確か、海水浴もできる綺麗な浜辺だったはずだ。


「綺麗な青空だ。残念だよ、君にこの空を見せられなくて」

「……雲があるように見えますよ?」

「……そうですね。久城さんが言うならきっと、なんですね」

「美星、戻ろうか」

「はい」


 ぽつりと、雨が私の頬を叩いた。


「久城さん、雨ですかね?」

「みたいだね。狐の嫁入りってやつかな」


 なるべくゆっくりと車椅子を押して、扉に向かう。


「ふふ……ホント、嘘吐きですね」

「私はね、産まれてから一度も嘘を吐いたことはないよ」

「本当ですかぁ?」

「本当さ。だから今は青空で、雨が降って、狐の嫁入りだ。しかもその狐はね、かなりの貴族様だ。こんな晴れている時に雨を降らせるのだから、間違いない」


 彼女の車椅子のハンドルから手を離し、扉を開く。その左手には宮前看護師長がいた。口元に片手を当てていた彼女はPHSの終話ボタンを押して、私を睨み付けながら。


「馬鹿な人ですね……貴方は」


 捨て台詞のように言って、彼女は階段を駆け下りて行った。


「宮前さん……? どうしたんでしょうか……」


 私の背中越しに彼女の声が聞こえた。私は振り向いて、肩を竦めて答える。


「さぁ? 私とあの人は仲が悪いからね、考えていることなんてわからないよ」

「また嘘ですか?」


 残念ながら、嘘偽りない真実だ。


 もう少しあの人と仲良く……はならなくていいが、せめて嫌味を言い合わない程度にはなりたかった。


「まさか、真実だよ」

「宮前さん、絶対に久城さんのこと好きですよ?」

「ははは! ないない」


 それだけは誰に確認せずともわかる。


「それよりも、さ……今度デートしよう」

「……え?」

「どこかに行こう」

「え、でも……」


 私は彼女の背後に回って、ハンドルを握った。


「君は知らないかもしれないけどね、意外と私は、さんと仲良しなんだよ」


 私の冗談に、「知ってますよ」と、美星は笑って答えてくれた。

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