死望/5-2
「……屋上に行きませんか?」
「は?」
唐突に彼女はそんなことを言った。
「屋上に行きましょう、って言ったんです」
「いや、ここの屋上は確か封鎖されて……」
「久城さんはご存じないかもしれませんが、私、天音病院の院長様の娘なんです」
美星はどうだと得意気に両手を腰に当てて言うのだが、私は彼女が本当に言いたいことが理解できなかった。けれどどこか、茶化してはいけないと思える。
「院長の孫娘だからと、そんなの通るとは思えないけど」
「宮前さんに言えば大丈夫ですよ?」
まぁつまり、あれだな。私はこれから、宮前看護師長に頭を下げないといけないというわけだ。
「オーケー、わかった。ただし、前みたく私が君を連れ出したなんて言わないでくれよ?」
「そういえばそんなこともありましたね」
ふふ、と美星は笑った。
「いいね?」
念押しすると、美星はこくりと首を縦に振る。
「じゃあ食器を返すついでに宮前さんの所に行ってくるよ」
「いってらっしゃい。早く帰ってきてくださいね」
「はいはい」
お盆を持って病室から出ると、食堂に向かった。途中三階のナースステーションを見てみたが、宮前看護師長はいなかった。
彼女は看護師長ということもあり色々な階を行き来するので、探そうとすると中々に骨が折れる。
昼休みが終わるまでに見つけられるかと思いつつ食器を返し、見つからなかったらさてどうしたものかと内心考えてみたものの。
「そんな所に立っていると邪魔です」
辛辣な言葉が、私の背中に刺さった。間違いなく、宮前看護師長だろう。
「それは失礼」
探し人は思いもがけず、あちらから現れてくれた。
「返却場所で立ち止まらないでください」
振り向くと、不機嫌そうな宮前看護師長がお盆を持っていた。私は右にずれ、彼女に場所を譲る。
「まったく……」
食器を返してすぐに、宮前看護師長は私をじっとりとした目で睨み付けた。
「何をしていたのですか、貴方は?」
「食器の返却のついでに、人を探していたのですが……見つかりましてね」
要領を得ないとでも言うように、彼女はほんの少しだけ首を傾げ、「誰を?」と返した。
「貴女を、です」
宮前看護師長の眉間に皺が寄る。
そこまで不機嫌さを表に出さなくても良いだろうに。確かに先週悪態をついたものの、それはそっちにも問題があったろうに。本当にこの人は苦手だ。
「何か用ですか?」
「ナースステーションに戻られるでしょう? そこで話したい。ここだと邪魔になるので」
「……ふん、口の減らない人ですね」
貴女もね、とは勿論口にしない。あと一週間だ、これ以上面倒事を起こしたくないし。
鼻を鳴らした宮前看護師長は前を歩き始めた。私はその三歩ほどの後ろを歩き、彼女に続く。時代が時代なら、私は良い妻と言われただろう。
ナースステーション前に着くと、宮前看護師長は私に向き直り、「それでなんですか?」と言った。
「屋上を解放してくれますか?」
「……美星ちゃん、ですか」
「えぇ。貴女に言えば良いと聞きましたから」
「……そう、ですか」
寂しそうに目を伏せた彼女は、ため息を一つついてナースステーションに入り、すぐに戻ってきた。
「病室に行きましょう」
「えぇ。どうもありがとうございます」
社交辞令で軽く頭を下げるが、宮前看護師長は「ふん」と鼻をならすだけだ。この人に鼻栓を付けたら、不快さをどう表現するのだろう。舌打ちでもするのだろうか……いや、うん……そうするだろうな、彼女なら。
二人で美星の病室に向かい、宮前看護師長が戸をノックする。美星の返事が聞こえたのを確認すると、戸を開けた。
「あ、意外と早かったですね」
「美星ちゃん、あまり気軽に屋上に行こうとしちゃ駄目よ」
「ごめんなさい」
「まったくもう」
てへ、とでも続きそうな言い方に、宮前看護師長は頭を振った。
そして彼女は車椅子を出すと、美星を抱きかかえるようにしてそれに乗せた。
「私が車椅子を押します。貴方は前を歩いて」
「はいはい」
彼女の言う通りに私は前を歩いた。戸を開け、エレベーターではボタンを押し、最後に出る。ちょっとした召し使いにでもなった気分だ。
屋上への扉はエレベーターを降りてすぐの左手側にあり、宮前看護師長は一旦ハンドルから手を離して、鍵を開けた。
「あの、宮前さん」
「何ですか?」
「久城さんと二人きりで話がしたいの」
「でしょうね」
きっ、と彼女は私を睨み付けた。
「美星ちゃんに何かしたら殺します」
「はは、これはこれは、恐ろしいですね。とても看護師とは思えない発言だ」
「ふん」
やはり鼻を鳴らした宮前看護師長は、ドアを開けながら「長居しないでくださいね」と言う。
「そうしますよ」
私は美星の死角でもある後ろに周り、貸与されているPHSをひらひらと宮前看護師長にわざとらしく見せびらかす。
「……」
彼女は何も言わずに私から目を逸らした。
この仕草だけで察してくれていれば良いのだが。
「どうしたんですか?」
美星が顔を上に上げて私を見た。
「何でもないよ。行こうか」
「……?」
美星は首を傾げつつまた前を向く。それと同時に私はPHSを使って宮前看護師長に電話をかけた。
「それでは宮前さん、また後で」
宮前看護師長は私の言葉に応えずPHSを手に取っており、私達が扉を潜ると、彼女はちらりと私を見てその扉を閉じた。
空は生憎の曇天だった。ゴールデンウィークも間近なので、雨が降るなら今一気に降ってほしいものだ。
「曇りの日はよくオッケーを出してくれるんです」
美星と一緒に屋上の中央まで行ったところでそう口にした。
「……誰が?」
「宮前さんです」
美星は曇天の空を見上げながら微笑んでいた。
「外に出ることはあまりないのかい?」
「入院してからはほとんどないです。あ……でも」
美星は自分で車椅子を操って、私に向き直る。
「久城さんに初めて会った時も、こんな空でした」
氷の花の微笑み。彼女の顔にはそれが張り付いている。私は片膝を付いて目線を合わせると、彼女の左頬に自分の手を当てる。
「美星。これから大切なことを君に伝えたい」
「ふふ、どうしたんですか急に……」
「大切なことだ」
「……はい」
私の気持ちを察してくれたのか、彼女の顔はきゅっと引き締まる。
「辛かったり、苦しかったり、悲しかったり……笑いたくないときは、そんな悲しい笑顔は浮かべなくてもいいんだよ」
間違えている……その原因は今はっきりとわかった。
彼女はきっと、優し過ぎる。
私が泣いたら、私が悲しんだら、私が苦しんだら……きっとそんな私を見た誰かが……泣くから、悲しむから、苦しむから。
そんなことを考えるから、彼女は曖昧に微笑む。自分のせいで、相手を悲しませたくないから……あの氷の花の笑みを浮かべるんだ。
でも、それはあまりにも空虚な微笑みだと、彼女は気付いていない。
空のグラスを傾ければ際限なく優しさが零れ、しかしながら彼女の注がれた優しさはどこかに消えて。それでも彼女は、空のグラスを口に運んで、ごくりと喉を鳴らしながら優しさを飲み干して……あの笑みを浮かべるのだ。
だから彼女は、間違えている。
「君の悲しみは、君だけのものなんだ。誰かを気遣わなくて良い。自分のために、泣きたいなら泣いていいんだよ。自分のために、苦しみたいなら苦しんでいいんだよ。自分のために、悲しいのなら悲しんでいいんだ」
誰かを想うことは素晴らしいことだ。けれどそのために、受け入れなくていいものは、沢山ある。それをきっと、彼女は知らない。
「私とは違って……君は泣けるんだから」
両親が死んでも、泣けなかった私とは違う。託されたものに、涙を流して感謝することもできない私とは、違うのだから。
「自分のために、笑ってもいいんだよ」
「……っ」
美星は何か言おうと口を開いたが、すぐにそれを噤んだ。彼女は体を小刻みに震わせながら、瞳に涙を溜めたものの。
「嘘吐き」
そんなことを彼女は私に言った。
「え」
「そのことはまた……今度話しましょう? それよりも……」
美星はやはり慣れた手つきで車椅子を操ると、ふらりと進んでいく。私はそれに付いていった。
「ねぇ久城さん」
「ん?」
フェンスの前まで来て、美星は曇天に手を伸ばす。
その仕草は何か遠くのものを掴もうとするような、そんな仕草だった。
「私ね、もうすぐ死ぬんですよ」
「……どういう……」
「私ね、死ぬんです。誰かに何かを託すことも出来ず、死んじゃうんです」
叫び出しそうになったのを、必死に抑えた。
違う、と。
君は死なない、と。
それだというのに、「そんなこと言わせない」とでも語るような雰囲気を彼女は醸し出している。
「アニメの男の子みたく転生……? することもきっとできないんですよ」
「美星?」
「だから、聞いてくれませんか?」
「なに……を?」
「私の命について、です」
彼女は……天音美星という少女は、体を捻って私を見ると、氷の花の笑みを浮かべ、そう言った。
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