第三章 望みが死ぬとき

死望/1

 応接間に戻ってきたのは、天音氏一人だった。


 両手には新しいグラス二つとワインを持っている。


「お待たせしました」

「あ、いえ……その」


 なんと答えて良いのか、どんな顔をして良いのか、全く見当がつかない。


 天音氏は私の前にまた座り、手にある物を机に置くと、目頭をぎゅっと押さえた。


「申し訳ありません。久城さんの心境も十分に理解しております。ですが、どうしても……」


 大きく息を吐いて、天音氏は自分と私のグラスにワインを注ぐ。それは白ワインで、天音氏はすぐにそれを飲み干した。


「どうしても、聞いてほしい。あの子のことについて、貴方には全部」


 彼はワインを注ぎ、右の肘掛けに肘を置くと、額に手をやった。


「あの子の父親……私の息子は医者でした。母親は息子が学生時代に出会った方で、美星のように明るく話好きな女性でした」

「はい……」


 ちびりと、私は舐めるように酒を飲んだ。


「息子はここから離れた病院に勤めていましてね。それは私が勧めたのです。医大を出たばかりの息子が親の病院で働くとなると、色々な目もあると思いましてね。働き始めて数年で、子供も出来ました。それが美星と美空の双子です」


 おもむろに立ち上がった天音氏は、ドアの右隣にある物置を開けると、そこから写真立てを取って私に見せた。


「息子達の最後の写真です。このときの美星は十三歳。うちに入院する前に撮ったものです」

「十三歳、ですか」

「えぇ。あれからずっと、あの子は入院しています」


 三年もの長い間、彼女はあの病室にいたのか。


「産まれたときから体が弱い子でしてね。よく高熱を出したりして、入退院を繰り返していました。その時は息子達の病院に入院していたのですが、ここに来ると決まったのは、あの子が吐血したときでした」

「吐血!?」


 熱を良く出すならまだわかるが、血を吐くとなるとそれはもう普通ではない。


「えぇ。息子達の病院では検査機器も揃っていませんでしたから、うちに来たんです。そして検査の結果が出たので、うちの病院に勤めることも含め互いに話し合おうかという日のことだったんですよ、彼らが事故に遭ったのは」


 天音氏はそこで話を一旦区切って、酒をまた一気に飲み干した。


 それから沈黙が十分以上は続いたと思う。彼はまた自分のグラスに酒を注ぐと、それを持ちながらまた、ゆっくりと続きを話し始めた。


「ひどい、事故でした。トンネルの中で起きた事故でしてね。相手は免許を取り上げられていた上の飲酒運転。息子達の車はトラックと正面からぶつかり、そのまま壁とトラックに挟まれ、車は半分以下の大きさになっていました。トラックの運転手が衝突したあともアクセルを踏み続けたことで、あのような……」


 そのような事故を、私は想像すらしたくなかった。


 美星は家族が死んだ後の姿を見られなかったと言っていたが、おそらく見たところで、それが両親や妹だとわからなかったことだろう。


「その当日はね、私も妻もショックで何もできなかった。あぁいや、違いますね。正確に言うならば、、でしょう」

「それは、その……」

「あの子はね、とても賢い子でして。私達がその日病室に来なかったことで、何かを察したようでした。それを宮前くんから後で聞いたんですよ」

「はい……」

「私と妻が事故の件を伝えたのは、翌日のことでした。その時にね、あの子は雨が降る外を見て言ったんです。『私なら良かったのに。私なら何時でも死ねるのに』と。それが余りにも悲しくて、私達は泣きながら彼女を抱きました。けれどあの子は曖昧に微笑むだけで、それは葬儀の間も……ずっと、ずっとです。多くの親戚から哀れみを向けられ、励ましを受け、それでもあの子はただただ曖昧に微笑んでいたのです」


 大きく、とても大きくため息をついて、天音氏はワインを一口飲んだ。


 彼が言った曖昧な微笑みとはきっと、のことだろう。


 その時に彼女は、その笑みを覚えてしまったのかもしれない。悲しくも見えるその笑みを浮かべることで、相手に憐憫を抱かせ何も言わせなくする……そんな氷の花の笑み。


「全て終わった後、美星が家族の話をすることはなくなりました。三年間、今まで一度も。一周忌のときも、美星は曖昧に微笑み、決して……口にはしなかった。けれど昨日、貴方にその話をした」


 天音氏は涙を拭いて、私の目をじっと見た。


「だから聞きたいんです。何故、あの子が貴方に家族の話をしたのかを」


 その質問に、私は昨日のことをなるべく鮮明に思い出そうと、目を瞑る。


――久城さんのお父さんとお母さんが、どういう性格だったのか教えてくださいますか?

――どう、と言ってもなぁ……。


 実家に帰るという話から、彼女は私の両親について聞いてきた。


――まぁうん、よく笑う人達だったというとこかな。

――そうなんですか……。


 そう私は答えて。


――君のお父さんとお母さんはどんな人なんだい? 見かけたことないけど、忙しい人達なのかい?

――死にました。


 そして問いかけた。深く考えずに、聞かれたから聞き返してみただけだ。


「実家に帰るという話を美星が知っていて、彼女が私の両親について尋ねてきたんです。答えた後に同じ質問を返した……ぐらいですかね。特別な聞き方をしたとか、そういったことは何も……」


 彼女とはそれまでも普通に話していたし、特別に私が何かをしたという記憶もない。


「……病室から連れ出してくれた、と美星はよく話していました」

「いえ、それは違いますよ。彼女とは母が亡くなった時に偶然喫煙所で会ったんです。その前には一度も会ったことは……」


 と、ここまで言って、本当だろうかと自らに問いかけた。


 私が覚えてないだけで、もしかしたら会ったことがあるのかもしれない。例えば母の見舞いにきたときにでも……。


「貴方が連れ出した、と本気で思っているわけではないのです。あの子から見たら、結果的にそうなったのではと」


 そう言われても、やはり私には何も心当たりはなかった。


「すみません、やはり何も……」

「いえ、私の方こそすみません。問い詰めるような形になってしまった」


 天音氏は息を吐きながら、ソファに深く背中を預けた。


「その、他の看護師の方々にも、美星は家族の話をしないのですか?」

「えぇ。あの子の家族の死について知っているのは、三年より前に勤めていた者達だけです。その彼らも、美星に家族の話をすることはありません」


 きっとそれもマイナールールというようなものだろう。


「だから、ね。私にはわからないのです。貴方の何が、あの子の心を動かしたのだろう、と」


 天音氏は頭を振って。


「この話はここまでにしましょうか。決して貴方に、美星に気を遣えとかそういうつもりではないのです。繰り返すようになりますが、ただ貴方には知って欲しかった、それだけです」


 天音氏は優しい笑みを浮かべると、ワインの瓶を持った。


「今日は泊まってください。妻も後もう少しすれば落ち着くと思いますので」

「はぁ……」


 私はワインを飲み干して、天音氏の酌を受け入れる。


 そして数十分すると、天音夫人は目元を赤く腫らせていたものの、またこの酒席に参加した。

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