滅私奉公/4

 翌日の目覚めは、やはりあまり良くはなかった。スマートフォンの画面を見ると、間もなく十時になろうとしているところだった。


 不要品回収の約束時間は十時頃だったので、私は起き上がって布団を畳んだ。次に洗面所に向かって顔を洗い、歯を磨き、髭を剃り、そして髪型を整えた。


 今日はこの後ベンツを車屋に持っていき、天音氏と詳細のわからない、な話し合いがある。


 正直、天音氏との話し合いがかなり億劫なのは言うまでもない。


「まぁ、成るように成るさ……」


 鏡に映る自分にそう声を投げると、チャイムが鳴った。


 まずは不要品の処分だ。私はまだ瞼が重い中、玄関のドアを開けた。


   ***


 不要品回収はおおよそ三時間程で終わり、私はすぐに車屋に向かった。


 査定額は思っていたよりもかなり低く、その主な原因は年式にあった。どうやらこのベンツは十年程前の型らしく、今はあまり人気がないとのことだった。それでも二百万ちょっとにはなったので、私はそれで判を押すことにした。


 書類なども事前に用意していたため大した時間はかからず、車屋に自宅まで送ってもらったときには、十五時になっていた。


 何もかもなくなった家は昨日以上に寂しく、そしてやはり寒気を覚えた。スマートフォンで天気予報を見てみると、今日の最高気温は二十度で、最低気温は十二度と表示されている。


 私は腕を擦りながら、キッチンの換気扇を回して煙草を吸い始めた。


 この家もあと数週間で自由に行き来できなくなると思うと、どことなく郷愁を感じる。この家の思い出など多くないはずなのに、だ。


 これがということなのだろう。


 それは人という命に限らず、その人との思い出も、その人と僅かでも共にした家であっても、全てを含めてのだろう。


 そう頭で考えてみたが、しかし悲しみなどはなく、相変わらず冷たい馬鹿息子だなと自嘲する。


 子供の頃……それこそ高校生ぐらいの頃は、ここまで冷めた人間ではなかったように思える。いやむしろ、社会人として生活するまでは、私はもっと人情味に溢れていた気がする。


 学生時代……私が大学二年の頃だったはずだ。私を可愛がってくれた祖父母や、叔母が続けて亡くなった時には、人並みに涙を流した。それだというのに、両親が亡くなったときの私は涙を一粒も流さなかったのだ。


 そんな私を強くなったと言う親戚もいれば、はたまた冷たくなったと言う親戚もいた。


「疲れちゃった……」


 その時ふと気付いたことがあり、私は昨日の美星の言葉をそのまま口にした。


 もしかしたら彼女は……同情されることにと、言いたかったのかもしれない。


 凄惨な死を迎えた家族の中で唯一、残されてしまった哀れな少女。


 体が弱く、車椅子がないと満足に動くことのできない不幸な少女。


 それでも氷の花の笑みを浮かべる、儚い少女。


 ちり、と、自分の指が焼ける感覚に思わず煙草を落とした。すぐにそれを拾って灰皿に押し込み、足で適当に灰を払う。


「疲れちゃった……か」


 再度口にして、私は大きくため息をついた。


 今になって考えれば、それが正しいように思えてくる。


 同情されたくないというプライドのその先、幾度となく誰かに経緯を話し、その末に締感の境地に至ったのだろう。どうせ、同じなのだと。どうせまた、哀れまれるのだと。それなら、疲れたという言葉も納得がいく。


 では……何を彼女はのだろうか。


 直感的に私が感じたそれもまた、正しいと思う。


 何かが違うと。何かがおかしいと。何かが足りないのだと。


 しかし考えれば考えるほどに深みに嵌まり、結局答えが出ることはなかった。


 私は灰皿に水を入れて完全に火を消してから、それを適当なコンビニ袋に詰め込む。そしてそれを持ちながら家の施錠を行い、ごみ置き場にその袋を捨てた。


 車に乗った私はスマートフォンを取り出して、天音氏に電話をかけた。


『もしもし』

「どうも、久城です。連絡遅れてしまいすみません」

『いえいえ』

「家のことも終わったのでこれから病院に向かいます。おそらく三十分程で到着すると思います」

『わかりました。急がなくても結構ですので、安全運転で』

「ありがとうございます」


 電話を切ってすぐに、私は車のキーを回した。


 安全運転でもおそらく十六時前には到着できるだろう。天音氏との話し合いが何時間に及ぶかはわからないが、月曜日に代休を貰えるのなら安いものだ。


 窓を開けて煙草に火を点け、今はもう慣れた道を進む。


 風は冷たかったものの我慢できないものではなく、むしろ日が当たっていたので心地好くすら思える。


 道も多少混んでいたが、予想していた時間よりも若干早く天音病院に到着した。


 私はなるべく入口から離れた場所に車を停め、最後にまた煙草を吸う。


 その間に財布の中を見て、〝大人〟として恥ずかしくない額が入っていることを確認した。


 「話がしたい」とわざわざ言うからには、まさかキャバクラに行くということはないだろう。それにこの近くには歓楽街もない。今の懐事情でも十分に賄えるはずだ。


「さて、行くか」


 ミントタブレットを齧り、ルームミラーで身なりを確認すると、私は院内へと向かった。


 受付にいる妙齢の看護師は私の顔を見ると、「あら?」と首を傾げた。


「どこか具合でも?」

「特に体は悪くしていませんよ、小川おがわさん。ご心配してくださってありがとうございます。今日は天音院長に声を掛けられまして……通っても良いですか?」

「えぇ、構いませんよ。院長はこの時間なら院長室に居るはずです。居なかったら美星ちゃんの病室だと思います」

「どうも。あ、そういえば今日は空いてますね」

「え……? あぁ言われてみれば、そうかもですね」


 受付の看護師は私越しにロビーの左右を見ると、「どうしてでしょうね?」と首を傾げた。


「はは。たまには早く帰ったほうが良いですよ。最近小川さんも大変そうですし」

「帰れるなら帰ってますよ、もう」

「それもそうですね、これは失礼」


 互いに微笑し、私は階段へと足を向けた。


 土曜日のこの時間なら、いつもはもう少し人がいるはずだが、今日は珍しく空いていた。


 階段を一階毎に上りきった先には、ナースステーションが見えるのだが、どこも忙しそうには見えない。


 それは三階のナースステーションも同じだ。階段を上って見えた猪狩は、暇そうに頬杖を付きつつノートパソコンの画面を見つめている。


「暇そうですね、猪狩さん」


 私は受付台に両腕を組むようにして置き、からかうつもりで猪狩に声をかけた。猪狩は体をびくつかせてすぐに振り向いた。


「何だ、久城さんっすか……ビビったぁ……」

「おや、サボりでもしてたんですか?」

「違います、と一応否定しておきます」

「そうなんですね、と一応納得しておきます」


 軽く笑い合って。


「一階も暇そうですし、今日は珍しいですね」

「まぁこんな日もありますよ。で、反動で翌日忙しくなるんですけどね」

「それもここのマイナールールですか?」

「いいえ、オフィシャルですよ」

「はは。なるほど、私は明日明後日と休みなので、頑張ってくださいね」

「えぇえぇ頑張りますとも。命をお預かりしていますしね。ところで、今日はお嬢のお見舞いですか?」


 今度は猪狩が私をからかうように言った。


「だったらまだ気楽なんですがね。今日は院長からの呼び出しです」


 気楽だ、とはもちろん嘘である。昨日の今日で彼女にどんな顔で会って良いかはわからない。


「院長は長話とかはしないですし、昔気質の説教もないですから、安心して良いと思いますよ」

「そうなんですか。少し安心しました」

「あ、でも……美星ちゃんのことなら長くなるかもですね。あの人本当に美星ちゃんのこと可愛がってますから」


 わかっていたことではあるが、天音氏の孫娘への猫可愛がりは周知の事実のようだ。


「特に久城さんは美星ちゃんに好かれてますからね。わざわざ土曜日に呼び出すなんて、十中八九あの子の話ですよ」

「まぁ、覚悟しておきますよ」


 美星の話、というのは私の頭からすっかりと抜けていた。確かに電話が来たときに彼は言っていた。「美星が私に家族の話をしたようですね」と。その後に「プライベートで話がしたい」と。


 ただでさえ気が滅入っている中で、いらぬ情報を得てしまった。あまり暗く考えたくはないが、もしかしたら「美星に近付き過ぎるな」とかそういった話かもしれない。


 私は猪狩に別れを告げて、院長室へと向かった。


 その途中で美星の病室があったが、今日は会う気がしなかったので通り過ぎた。


 院長室のドアを何度かノックしたが、部屋から返事はない。「失礼します」と声を出してゆっくりとドアを開くが、その部屋の中に天音氏の姿は見えない。


「……となると、だな」


 私は右に顔を向ける。


「美星の病室か」


 私は頭を振りながらその病室に向かい、ノックをする。返事はすぐに返ってきた。


「はーい?」

「久城だ。入っていいかな」

「あ、どーぞー。おじいちゃんもおばあちゃんもいますよー」


 能天気にも語尾を伸ばした彼女の言葉に、ため息をついた後でその戸を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る