第21話 真実を目の前にした青年の反応

 先程閉じた扉、俺を日常へ運ぶ箱舟の扉が、いまゆっくりと開いた。


 その先に建物の外壁らしきものがあり、右に向かって動いている。機械の駆動音らしき音がひっきりなしに響く。


 その時だった。砂利が擦れるような音がして、今開いた扉の反対側……行き止まりの壁のやや天井寄りの一部がのぞき窓みたいになった。大きさにして目測約二〇センチ四方。


 すぐに駆け寄る。その先には――俺たちが帰るべき日常の風景が。


「……………………うそだろ?」


 その先から太陽の光が差し込む。生ぬるく、まとわりつくような不快な風が廊下に吹き込んでくる。それが運んでくるのは、とてつもない『異臭』。大きな釜に大勢の汚物や吐瀉物を流してシェイクしたみたいな、とにかく想像を絶する嫌なにおいが廊下の空気の大半を占める。思わず口を押えた。肩で息をするようにして、何とか外の様子を見ようと堪える。願わくば救援を……!


「なんだよ……なんだよこれ!」


 次の瞬間、思わず絶叫した。目に飛び込んできた光景を必死で理解する。嘘だ嘘だと念じるが、こんな時に限って俺の頭は正直だ。涙すら出ない。


 これが……『希望』に満ちた世界なのか?


「そんな……そんな……」


 俺は自分の目を疑わざるをえなかった。今まで抱いてきた願望が音を立てて崩れていく。何でだよって悪態をついたところで、誰も俺の声に答えない。


 いつか帰ることを夢見ていた世界は、いつの間にか砂と鉄くずに覆われていた。


 眼下に見える世界は死んでいた。太陽の光が照らすのは、かつて栄華を誇ったであろう街並みの亡骸。むくろすら朽ち果て、その空しさまでも、一陣の風が遠慮なしにどこかに運んでいく。乾いた風。良心も悪心もない、地球のため息。


 崩れたビルや家々。業者が撤去作業をしているようには見えない。苔に覆われた湖の水面にコオロギが大きくなったような虫たちが蠢いている。気色悪い脚を動かしながら、見たこともない飛び方で水面を離れていく。そこはそんな虫たちのコミュニティと化している。もちろん、人がいる筈もなく。生理的嫌悪感はすでに飽和している。昔見たスプラッター映画に出てきたクリーチャーの鳴き声が脳内で再生され、ぶるっと体が震えた。


 辺り一帯に、塔のような建物。雲を突き抜け天まで伸びているかのように遥か高く聳えたそれは、荒れた地に突き刺さる墓標のようで。頂上付近から伸びる巨大な手は、鉄製のコンテナをしっかりと掴んでいる。その動きはまるで遊園地の――。


 このような景色が、今、ゆっくりと左に向かって動いている。


「ふう……そうか。そうなのか」


 俺たちを取り巻いていた状況がある程度わかった。


 そして知りたくもない、だがいずれ知らなければならない『下界』の様子までも知ってしまった。


「何が『希望』だ……こんなの『絶望』じゃないか」


?』


 先程頭に響いた言葉が脳裏をよぎる。


 こんなもの、俺が望んだ日常なんかじゃない!


 俺が望むものは、華やかな人生なんかじゃなく、いわゆる普通の生活の中で『生きている』と実感できる瞬間だ。失敗することもある、いやむしろ成功なんて微々たるもので俺の人生失敗にまみれている。そうすることを繰り返すうち、次は失敗しないように考えるクセがおのずと身についた。失敗の連続を繰り返し成功を積み重ねる、その瞬間確実に前進していると感じることができ、ささやかな満足感に包まれるのだ。


『希望』ばかりじゃないのはわかっている。『希望』の光が照らしだすのは必ずしもきれいな世界ではない。それでも前に進まなければならない。週末、先を読んで行動した結果思わぬミスをして上司に小言を言われながらも、何とか仕事を切り抜けて帰宅して缶ビールを飲む……おつかれと労う家族がいる幸せを噛みしめる。人はみんな、誰しもそういう瞬間がある筈だ。


 そんな些細な楽しみを胸に。誇りを胸に。いつの日か解り合えるひとと出会えることを信じて、俺は生きてきたのに……。趣味はなんですか? やりたいことはなんですか? 夢はなんですか? 年齢を理由に夢を諦めるなんて、そんなこと俺はしたくない! 俺の世界を返してくれよ!


「そんな世界に……そんな日常に帰りたかっただけなのに」


 帰るべき日常はその姿を大いに変容させ、もう二度と、俺の望みを聞いてくれそうにない。故郷を、実家を、何もかも失ったような喪失感がいつしか俺から立っている力を吸い取り、その場で座り込んだ俺は、ただ、死んでいった世界を見ていることしかできなかった。

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