磑風舂雨(がいふうしょうう)

 春の晴れた日に吹くような風がプシュケの瞼をくすぐった。現実へとゆっくり引き戻されるプシュケの意識。どんな夢かは忘れてしまったが、夢の中でのプシュケは目が見えていた。目覚めてしまった今のプシュケの視界は真っ暗だ。これが現実なのだと、もう目は見えないのだと、それはプシュケの喉を圧迫するような息苦しさをもたらした。プシュケは横になったまま、しばらくじっと息苦しさに耐えた。小さな嵐が過ぎ去るのを待つように……。

 長いあくびをした。長く眠っていた気がする。最後に目を覚ましてから、どのくらいの時間が経ったのだろう……。そういえば、ここに私を連れてきた男性の名を知らない。私を妻にするだのなんだのと言っていたが、私は彼をなんと呼べばいいのだろうか。怪物か? 旦那か?

 そういえば、あの声……どこかで聞いたことがある気がする……。

「おっと。起きたか」

 これは知らない男性の声だ。

「誰」

 プシュケは体を動かすことなく、短く問うた。

「オレは唯の風。西風。ど~も、おひいさんっ」

 軽薄な口調で自己紹介する怪しい男性。プシュケが王族だと知っているところも胡散臭い。しかも風と名乗られるとは予想だにしていなかった。違和感しかない。

 怪物に風とは、この世界にまともな人間はいないのか。

「私はもう姫じゃないわ」

「ゼノちんにとっては、おひいさんに変わりない。オレはそれに準じてるだけだ」

「ゼノ……ちん?」

 プシュケを姫と呼び、ゼノちんなどという渾名がつく名前の者は一人しか知らない。だが、この眉唾物が何故彼を知っているのだ。

 プシュケは思わず身を起こそうとしたが、筋力が足りず、枕に後頭部を沈めた。

「どうしてゼノンを知っているの!?」

 プシュケの慌てふためく様が滑稽だったのか、眉唾物は吹きだして笑う。プシュケは笑われた恥ずかしさと怒りで顔を赤くした。

「笑わないで! 質問に答えて!」

「ヒャハハハハハ! 必死すぎ~。実はね、ゼノちんとオレはおひいさんよりも古い付き合い。で、ゼノちんがおひいさんの国に行く前までは、結構会ってた関係だったりする。あれだけオレと会えるなんて、ゼノちんは風雲之器ふううんのきっていう証拠だな。……これでOK?」

「全然OKじゃないわよ。アナタみたいな眉唾物とゼノンが知り合いだなんて信じられない」

「とにかくオレは敵じゃないから安心しなさいって~」

 自身を風と名乗る不審者が気易くプシュケの肩を軽く叩いたため、その手をプシュケは払いのけた。

「味方でもないんでしょう!?」

「やだ! 鋭いわ、この!」

 オネエ口調で驚く眉唾不審者。

「ハニービーと違って、オレは確かに味方じゃない。だが、敵でもない。そしてオレはゼノちんが特別好きだ!」

 最後の宣言だけやけに力が入っているが、どうやらこの男性はプシュケに危害を加えるつもりはないようだ。

「ハニービーって誰? ここに私を連れてきた人?」

「そうそう。オレはハニービーって呼んでるけど、おひいさんはおひいさんで好きに呼べばいい」

「その人もアナタと同じゼノンの知り合いなの?」

「お互い顔と名前は見知っていて、少し話したことがある程度だ。ま、オレとゼノちんとの仲と比べれば、たいしたことねぇな」

 男性は得意げに鼻を鳴らした。

「ゼノンは……ゼノンは……生きてるの……?」

 この人ならば、ゼノンの安否を知っている。そう思った。

「おひいさんは、ゼノちんとお別れをしたんだろ。もう終わった関係だ。知る必要はない」

 男性の馴れ馴れしかった雰囲気が一変した。プシュケは突然冷然と突き放されてしまった。

「アナタはゼノンとどういう関係なの」

「おひいさんには関係ない」

 距離感が掴めない相手だ。

 プシュケは敵でもなければ味方でもない、ゼノンの知人に当惑するしかなかった。

「……しかし、ハニービーはいい部屋を与えたな」

 男性が椅子に座る音がした。目の見えないプシュケには、身の回りの物を触った感触から、どの程度高価な調度品なのかを推量するしかない。

「いい……部屋? どのような?」

「――……」

 少し、間があった。躊躇の沈黙ではなかった。それは、己の気分に問いかけているようだった。言うも言わぬのも、己が気分次第……。

「決して少女も空間も穢してはならない」

 男性の今の気分は『話す』だったようだ。

「あらゆる国に巫女はいるが、巫女ってのは大抵少女だ。閉経した婆さんも巫女をしていることがあるが、婆さんと少女の共通点は無月経。少女の場合は初潮が始まったとしても、処女であることが免罪符になる。婆さんは子が産めない体になることで、神との繋がりが回復する」

 男性は「神か……」と呟き、鼻で笑う。

「巫女は神聖な部屋に籠もるか、誰にも立ち入れない領域内で神と交信をする。例えば、巫女が舞を踊る場面を思い浮かべてみろ。沢山の人が見に来ていても、巫女の周囲には人がいない。そこに結界があるかのように、巫女の舞を決して邪魔できない。祈る巫女の周囲もそうだ。巫女の近くに誰かいたとしても、巫女に認められた限られた者だけだ。日の出ずる国の斎王だって未婚の皇女が選ばれ、伊勢神宮の斎宮に籠もり続ける」

「この部屋は神聖な部屋だというの……?」

 男性は、「とりわけな」とだけ言うと、話しを続ける。

「少女は巫女だ。だから、少女には決して穢されない空間が必要だ。少女はそこに戻ってこれなければ、少女ではいられない。穢されない空間を持っていない少女がいるとすれば、それはもはや少女ですらなく、少女の紛い物であり続けることしか許されない憐れなスケープゴート。この上なく歪な少女だ」

 この男性ひとは何を話しているのだろう?

 意識がぼんやりしてきた。この男性の話しは、プシュケの中にあるものを揺さぶる。

 憐れなスケープゴート……。この上なく歪な少女……。

 それは……誰のことなのだろうか……?

は少女と空間を守る側であると同時に、穢す側でもある。穢す側になるな。少女を穢す男は何処へも行けない。少女の亡霊につきまとわれ、一生苦しむだろう。神と人を繋ぐ者を穢したんだ。己の内側に棲まう少女ごとな。故に、現世でも彼の世でもない場所を彷徨い続けて、どちらにも辿り着けなくなる」

 頭が痛い。

 意識を保とうにも気分が悪い。

 あ~。アカンわ、これは。

 妙な訛りのある声が内側から聞こえた。それはボーイ・ソプラノの綺麗な声だった。その声に頭痛が軽くなった。

「大人になっても、清浄で何人なんぴとにも穢されない安定した空間を持ち続けることで、女性は自然と少女に戻れる。オレたちが無理矢理戻すものではない。いつまでも少女のままでいられるわけがないが、それでもどこかで少女を残しておかないと、女性は神と交信できなくなる。女性が母性を発揮するにも、そういった護りがなければならないものだ。それぐらい女性にとって、それだけ護られた空間は重要だ。――この部屋は匂いもいい。香というものは神への捧げにもなるが、何より禊になるものだ。……清めてもらっているんだな。目が見えるようになったら、部屋を自分好みに飾り付けるといい。幾分気分の高鳴る空間に整えれば、心の穢れも祓われる」

 男性が動く気配。すぐに動きを止めた。腰を上げようとしてやめたようだ。

「神と交信するのは巫女。ゼノちんは少女の中の少年。産む性であることを拒絶した少女が少年になり、その少年が少女から切り離されて成長した姿だ。――そうだろ?」

 座り直しながら、プシュケに確認する男性。プシュケの口からは肯定の言葉は出なかった。肯定の言葉を発しようにも、喉が震えて出てこない。その代わりに、ゼノンへの想いが溢れ出る。

「ゼノン……ゼノンは切り離さなきゃいけなかった。でなければ、私の全てが穢れるしかなかった。手前味噌ながらもゼノンは優秀よ、私と違って。私から離れている間に力をつけた。それは最早、完璧に最も近いかもしれない……。私の国では風雲際会ふううんさいかいの機を得ることができなかった。ゼノンは私を護るために尽力してくれたけど、私なんかより……ゼノンの存在の方が価値があるわ。私は最後には女王にはなったけど、一番じゃない。あの国で真に一番だったのはゼノンだったのよ」

「ほう……? おひいさんは完璧でもなければ一番でもない……と?」

 男性はどこか楽しげに鼻を鳴らした。何が楽しいのか分からないが、嘲弄の類いではなさそうだ。

 プシュケは額に手を当てた。

「完璧や一番になるのはそもそも難しいことだわ。いくら努力したって届かないことだってある。だからと完璧でないことに不満ばかり抱いても仕方がない。完璧でない自分を認めるしかない。完璧な者と比べて価値の劣る自分を……」

「なんだ。おひいさんは幸福を追求しているのか」

「は?」

 何を言っているのだ、この男性おとこは。

「幸福になるための自分で設けた基準が他者になっている。そこに及ばないから幸福ではないと判断する。おひいさんが本当に求める幸福は何だ? 完璧でない自分自身に失望し、諦念することか? 一番になることか? ゼノちんのようになることか? ゼノちんのようになったらなったで、できるが故の苦しみを得ることになるぞ?」

「でも、完璧は完璧なんだから素晴らしいに決まっている。一番は一番なんだから一番いいに決まっている」

「やはりおひいさんはゼノちんとは別物だな……」

 プシュケの耳には届かないように呟く男性。プシュケは男性が何と言ったのか分からず、眉を顰めた。

 男性はプシュケの反応など気にせず、話を再開させる。

「完璧や一番は時と場合と内容による。例えば坂本龍馬なんかは、今で言えば総理大臣になれる待遇を薦められたにもかかわらず辞退して、ひたすら一般人として明治時代への礎を築いた。歴史の教科書に載るような人物だが、単に立場だけを考えたらただの一般人にすぎない。やった内容は色んな人達との関わりや、時代のうねりがあってこそとはいえ、また志半ばにして暗殺されたとはいえ、一番とも言える行動。つまり、目的の内容一つ一つに対してそれぞれの一番があり、全てに共通した一番はあり得ないんじゃないか? 首席で卒業することを一番とするか、試合で一番の成績を取ることを一番とするか、最も金を稼ぐことを一番とするか……。『一番』への考えは十人十色と同じくらい幅広いものだ。今の自分の眼前にある目的に対して同じ状況にある者同士ならば、完璧や一番を競い合わなければならないだろうが、そうではない立場の第三者目線からは『一番』よりも『内容』を冷静に語ることができる。坂本龍馬は一番を目指して奔走したわけじゃない。やることをやっただけだ。現実が教えるのは答えでなく結果だ。その結果を周りが勝手に一番だとかどうとか決めているだけにすぎない。……とはいえ、現実はそう綺麗に割り切れるものばかりじゃないがな」

「私には内容も伴ってないわ……」

「くだらない。おひいさんにとっての幸福って何だ? おひいさんはあの国から出た。ただの国じゃない。あの蠱毒の壺でしかない国からだ。国民からの支持も先王以上。美貌もフェロモン番長より勝る。……ああ、そうか。足りないのは頭ではなく自己肯定か。失念していた。ああ~、めんどくせぇ~」

「フェロモン番長? 誰?」

「現状把握から始めることだな。オレから言えることはここまでだ。これ以上は喋るのが面倒だ」

 プシュケの質問をよそに、男性は椅子から離れる。慌てて呼び止めるプシュケ。

「ま、待って!」

「え~。待つの~? 気分の乗らない間は営業時間外なんですけどぉ~」

 男性はプシュケの呼び止めに歩を止めようとしなかった。

「ゼノンに教えられたの! 目……! まずは目が見えるようになりたい……。いえ、目が見えないままでも、周囲の状況が歩行に支障がない程度把握できるようになりたい。――違う。なるのよ。自分の眼で見て考え、自分の足で歩き感じ取る……。私は、ゼノンにそういう人間であるように教育されてきた。目で見ることはできなくなったけど、目でなくても見る方法はある。私の一歩はそこからよ。悲嘆に暮れるでも、何も考えていないわけでもないわ」

「ふ~ん。これはこれは……。なかなか面白そうなことを……」

 足音が止まった。衣擦れの音から、こちらを振り返ったであろう男性。

「ハニービーにも助けてもらいながらおこなっていくといい。助けてもらうことは恥ではない。全てを自らの力のみでできねばならないなら、プロフェッショナルもスペシャリストも必要ないからな。ただ、助けてもらうことを当たり前と思ってはいけない。助けることを他者に期待してはいけない。オレがおひいさんを助ける保証もないからな」

 男性の話を聞きながら、プシュケはベッドから身を起こすために手をついた。筋力も落ちていて、ゆっくりとした動作で徐々に身を起こしていく。

「私はゼノンにとって優秀な教え子よ。国も失い、ゼノンも失い、視力も失ったけど、その誇りまでは失ってないわ」

 ヘッドボードになんとか背を預け、声がする男性の方に顔を向けて真直に言った。

「やりゃあできるじゃん。気が向いたらまた会うわ。気が向いたらな」

 それは二度と会わないという可能性も含んでいる。

 プシュケはこの男性に何かを試されているような気がした。一文字に結ぶ唇。ぎゅっと両手を握り締める。プシュケは力強く顎を引いた。

 男性が満足したように鼻を鳴らすと、静かに部屋を出て行った。

 目のことにしろ、自分自身の今後についても、まずはハニービーと呼ばれる男性と話し合わなければ……。

 ……そういえば部屋を綺麗にすると言ってから、そのまま眠ってしまっていたな。

 課題としては、ハニービーと呼ばれる男性をプシュケはなんと呼称すればいいかを決めること、筋力や体力をつけること、見えないながらに部屋を綺麗にすること、視力の件も含めてプシュケの今後について話し合うこと。

 蜜蜂さん? 旦那様? 怪物さん? ……怪物さんは流石にないか……。

 ぐぅ~。

 プシュケのお腹の虫が鳴った。

「お腹空いた……」

 彼はお料理上手だから、料理人クオーコさんというのはどうだろう? ……それもよくないな。

「無花果ジャムのトールタ食べたい……」(※トールタとは、タルトの由来になったお菓子。食べられる器にジャムやクリームなどを入れて食べる)

 お菓子より食事にした方がいいのだろうが、甘く煮詰めて作った無花果のジャムのトールタが食べたくて仕方がない。

 自分が食に我儘だとは思ったことなど今までになかった。寧ろ、元々は食に無頓着な方だった。ゼノンが来てからは色々と気を使って選んでくれているようではあった。美味しいものも好きではあったが、基本的には食べられれはなんでもよかった。ここに来て、自分のためだけに料理を作ってくれて、しかもそれがとても美味しかったという体験をしたためか、国にいた頃よりも食に我儘になった。

 私のために美味しい食べ物を作ってくれる。

 ゼノンならば、作ろうと思えば作れるだろうが、恐らくは料理人に作らせるだろう。プシュケのためだけに、何が食べたいか話をよく聞いて、その上で自ら作ってくれるというのは、プシュケにとっては新鮮なことだった。

 ベッドから足を下ろすプシュケ。履き物はどこか分からない。ひんやりとした大理石の感触。立てる程度には足の筋力は残っていた。プシュケは壁伝いに慎重に進み、ドアを探す。――ドアノブに触れた。プシュケはそのドアノブを掴み、ドアをゆっくり開けた。

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