寵辱(ちょうじょく)

 暗闇の中。

 幼い私がベッドの上で震えている。

 小さな体で大きな体に抵抗するが、腕力も体のサイズも圧倒的に違いすぎた。

 拳が何度も私の体に振り下ろされる。

 身体中が痛かった。

 鼻血も出て、流れ込む血で鼻と喉が塞がり、まともに呼吸ができなかった。

 私の抵抗する力が弱まったところで、素肌にひたりと男の掌が這った。

 ――触らないで!

 叫んだ。

 撲られた。

 でも叫んだ。

 何度も叫んだ。

 気持ちが悪い感触だった。

 黙れ、と言われた。

 静かにしないともっと痛いことをする、と脅された。

 でも叫んだ。

 流れ込む血で呼吸がままならなくても、血を吐きながら叫んだ。

 酸欠で意識が遠のきそうでも叫んだ。

 叫ぶ以外に抵抗する術がもうなかった。

 だから……

 だから……

 だから私は、

 もっと痛いことをされたのだ。


「触らないで!!」

 目が覚めた。震える体。乱れる息。何も見えない。夢よりももっと暗い闇の中、プシュケはどこまでが夢で、ここがどこなのかを考え始めた。

 ベッドの肌触りからして、王宮ではない。窓から自殺しようとした所までは事実だと仮定しよう。でも、そうなると私を受け止めた人物は誰なのだろう。地面に足をつけた人間が受け止めたわけではなさそうだ。受け止められた時の衝撃が、あまりになかったのだ。

 人間ではない……?

 空を飛ぶ……人間ではない……。

 ――君が結婚する相手は、人間ではない。

 神託を思い出した。

 ――ゼウスをも恐れる死の怪物だ。

 怪物だ。

 怪物が私を拾ったのだ。となると、ここは怪物の住処? 人間の世界ではないのか? ゼノンが来たら教えて――

 ハッとした。ゼノンは倒れた。消耗しきっていた。

「ゼノンは――」

 どうなったの?

 後の言葉が続かなかった。最後の彼の様子を知っているからこそ、どうなったのかは考えたくなかった。

 もう、二度と会えないことだけは確かだと思った。それ以上の情報は欲しくない。

 上半身を起こすと、頭がふらついた。ベッドボードに背を預けてやり過ごす。

 背中から伝わるベッドボードの質感や、絹と思われるシーツの感触、軽いにも関わらず温かく柔らかな掛け布団からして、相当上質なベッドなようだ。プシュケがいた王宮のベッドなど比ではない。

 奴隷と同じように扱われるのかと思っていたけど、そうでもなさそうね……。

 ノックする音。プシュケは息を潜めた。ドアの向こうにいる者が何者か分からない。返事をせず、相手の様子を窺う。

『入るよ』

 ドアの向こうから声がした。落下する身を受け止められた時も思ったが、怪物にしては透明感のある綺麗な声だ。だが油断はしていない。

「目が覚めた?」

 ドアを開けて、怪物と思われる男性が入ってきた。黙っていようかと思ったが、そんなことは時間の無駄のように思えて、プシュケは単刀直入に切り出す。

「キサマが神託で言っていた怪物か」

 失うものなど、何もない。どうせなら、最期は誇り高くいたい。女王となるべく教育してくれたゼノンのためにも、王族として気高く言った。

「……」

 男性は黙った。何かを考えているようだった。

 どうして考える必要があるのだろう。

 プシュケは訝しみながら、男の返答を待った。

「そうだよ。君を妻にすべく、あの世界から君を奪ってきた」

 肯定するまでの数秒間が一体何を意味をするのか分からないが、相手が人間ではないのは確かだろう。

「ゼウスをも恐れる死の怪物らしいが、随分と物腰の柔らかい怪物だな」

「ゼウスが恐れているのは、僕の外見や人格じゃないからね」

「それで? 私はこれから正妻へ挨拶でもすればいいのか? 他にも私のように連れてきた妾が沢山いるのだろう?」

「いないよ。正妻も妾もいない。僕の妻は君だけだ。正妻は君だよ」

 それを聞いてプシュケは笑いがこみ上げてきた。嬉しいのではない。馬鹿馬鹿しいのだ。腹を抱えてプシュケは笑いだす。

「正妻? 私が? ハハハハハハハハ!!」

 何も知らなすぎる。この男は何も知らない。私のことを何も知らないで連れてきたのだろう。とんだ女を拾ってしまったものだ。こんな女を正妻にするなど、正気ではない。

 王族の気位など、もうどうでもいいほど、この男は知らなすぎる。仕方が無い。幻想を抱いている哀れな男に、少しは現実を分からせてやるか。

「アナタ、まさか私のことを生娘だとでも思ってるの? 私は実の父親とセックスした女よ。そして、五歳の娘を抱くような男の娘よ! 今じゃ目も見えない。国もない。地位も権力もない。ましてや金もない。実の父親の手垢にまみれているだけの汚い女が私よ。アナタが私にどんな夢を抱いていたのかは知らないけど、どう? アナタの中にいた私はグチャグチャに潰れた? 仮に、私と子どもを作ったところで、その子どもには、実の娘を抱くろくでなしの男の血も一緒に入るのよ? それなのに、私を正妻だなんて、馬鹿じゃないの? とんだハズレを拾ってしまったわね」

 怒るだろうか? 取り乱すだろうか? 泣き崩れるだろうか?

 プシュケはあらゆる無様な男性の姿を脳内に描いた。

 男性がどんな反応をするのか、プシュケは喜々として待った。しかし、プシュケの意に反して男性は黙っていた。目が見えないため、男性がどんな表情をしているのか分からないが、男性はプシュケの言葉を黙々と噛み締めながら、何かに耐えているかのようだった。この沈黙は、プシュケを酷く困惑させた。

 狼狽えるのは、私じゃない。狼狽えるのはこの男のはずよ。

 それは恐怖にも似た感情だった。プシュケは何故だか今すぐここから逃げ出したくなった。

「何か言ったらどう?」

 強気な態度を装った。一皮剥けば、震える自分がいる。しかし、そんな自分をこの男性に気取られてしまったら、自分が優位でなくなってしまう。

 男性よりも自分の方が優位でありたかった。そのためにも、精神的な弱みは握られたくはない。むしろ、プシュケが男性を精神的に追い詰めて、男性は取り乱し、怒りに任せてプシュケを罵り、散々罵倒した挙句にどこかへプシュケを捨てねばならないのだ。そういう反応であらねばならないのだ。そして、捨てられたプシュケは自分一人で生きていくのだ。何も持たないが故に、何でも一人でできるように、自分の力で生きていくのだ。

「君の遺伝子について話をしよう」

 ようやく口を開いたかと思えば、予想すらしていなかった一言が発せられた。

「突然ね」

 プシュケは動揺を悟られないように、震えそうな喉を叱責し、凛として言った。

「想像して。ここに大きな壺があったとする。その中には色んな形の、色んな種類の石が入っている。この大きなツボは君の細胞だ。石は君がご先祖様から受け継いできた遺伝子だ。だから、石の中にはペルセウスから受け継いだ石もあれば、ペルセウスの母親であるダナエから受け継いだ石もあるし、勿論ゼウスから受け継いだ石もある。他にも、壺の中には君の知らないご先祖様達から貰った石が沢山入っている。君一人のご先祖様を挙げていくと、途方も無い数になるだろう。それだけの数になれば、中には素晴らしい才能を持ったご先祖様がいるだろうし、逆に君の父親のようなろくでもないご先祖様もいるだろう。でも、どれが誰から貰った石なのかは分からない。分からなくても、ご先祖様から受け継いだ石を、どう磨いて、どう使うかによって、人生が変わってくる。――ここまではOK?」

 男性の問いに、脳内に壺と石を描きながら話を聞いていたプシュケは頷いた。

「石の磨き方は、その石によって様々だ。ただ水で洗い流せばいい石もあれば、石同士で擦り合わせないと磨けない石もある。どの石が誰から受け継いだ石なのか分からないのと同じように、どの石をどう磨けばいいかも分からない。だから、Aさんはこの方法で磨くことに成功しても、Bさんも成功するとは限らない。今、手に持っている石が、その磨き方でいいのか分からなければ、壺の中に入っている石を探し出すにしても、どうやって目当ての石を探し出せばいいのか分からない。ただ、あらゆる方法で石をがむしゃらに磨いて、どの石をどう扱えば、どういう領域で力を発揮できるかを考える。君の父親は、ご先祖様から貰った石を磨きもしなかっただろうし、石の扱い方も考えもしなかっただろう。ただ壺の中にゼウスから受け継いだ石があることを主張するだけだった。でも君は違う。君はゼノンと一緒に女王になるべく、石を磨いてきた。どの石が何なのか分からなくても、一生懸命二人で磨いてきた。確かに、君の壺の中には、その父親の石も入っている。でも、だからって他の石まで腐るわけじゃない。石を君の父親と同じように扱う必要もない。君がどういう男性の娘であったとしても、他にあるご先祖様から受け継いできた石の数からすれば、君の中にある父親なんて、所詮は数多くの一粒にすぎないんだ」

 理屈は分かる。理屈は分かるが、そうじゃない。国王がプシュケに浴びせてきた言葉の数々が納得を阻んだ。

「でも、『俺がいなければ、生まれることもできなかった癖に』って言われる。『俺に感謝しろ』って言われる……」

 虚勢は張らなかった。記憶の中の国王が虚勢を張る気力をも削ぎ落とした。幻影となった国王が、プシュケにしつこく感謝を要求してくる。

 ――お前の処女だって、下手な男に奪われる前に奪ってやったんだ。感謝しろ。

 囁く幻影。目が見えない分、その幻影の存在感は、今こうして会話している男性の存在感に勝るとも劣らなかった。

 遠のきかけたプシュケの意識が、男性の声で引き戻された。

「君の父親だって、ご先祖様がいなければ生まれることもできなかった。君の父親はご先祖様に感謝してるの? してないでしょ? 自分ができていないことを君にしろと命じるのも変な話だよね? 君の中には、君の父親以外の石がもっともっと沢山あるのに、生きて直接口を聞いてくるからというだけで、その小石一粒だけに感謝する必要はないよ。感謝するなら、そんな小石一粒よりも、壺の中にあるもっともっと数え切れないほど多くの石に感謝する方がいい」

 国王の幻影が唸った。小石へと姿を変えてプシュケの掌に落ちると、幻影は静まった。

 男性が近づいてくる足音。ベッドサイドにあったのであろう椅子にゆっくり座る音がした。

「君の目が見えていようが、いまいが、処女だろうが、なかろうが、君が今日までの人生で磨いてきた石は誰よりも美しいし、誰にも穢されないものだよ」

 プシュケが幻影の小石を投げ捨てる動作をすると、男性は「どうしたの?」と訊ねた。

「ゴミがあったから捨てただけ」

「そう。後で掃除しておくよ」

「ここは私の部屋になるの?」

「そうだよ」

「自分でする。自分が納得いくまで綺麗にする」

 目が見えないというのに、困った奴だと思うだろう。そんなことは無理だ、と止められるだろう。でも、意思表示はしたかった。自分にあてがわれた部屋ぐらいは自分で管理したかった。今のプシュケでは、できる範囲は限られているだろうが、まったくできないわけではないはずだ。

「それじゃあ、僕が物の配置を教えるから、一緒にお掃除しようか?」

 男性はプシュケを止めなかった。経緯や形はどうあれ、誘拐した女を妻にするなどと言うような男だから、奴隷にされるか、ペットのように何でもかんでも管理されるものだと思っていただけに、呆気に取られた。

「うん……」

 こいつは一体どういう奴なのだろう。

 ゼウスをも恐れる死の怪物らしいが、ゼウスが恐れているのは、外見や人格ではない。死の怪物ということは、死に関わる恐ろしい能力を持っているということなのだろうか?

 誘拐するような奴だが、壺と石の話や掃除の返しからして、それなりに良心があるのか?

 ……というか、妻って何?

「お腹は空いてない? 何か作ろうか」

 その台詞、むしろアナタが妻なのでは?

 そんなツッコミをプシュケは飲み込んだ。

「少しだけ……」

「じゃあ、何か作ってくるよ。食べられないものや、苦手な食べ物はある?」

「肉の脂身は苦手」

「好きな食べ物は?」

「無花果と蜂蜜。蜂蜜はパンにかけて食べるのが一番好き」

「甘いものが好きなの?」

「うん」

「じゃあ、甘めの味付けにするよ」

 椅子を引いて立ち上がる音がした。男性が去る前に、プシュケは男性を呼び止める。

「え? 待って。アナタが作るの?」

「そうだよ? 僕が作るのは嫌かな?」

「そうじゃないけど……」

 ……こいつは一体何者なのだろう?

 謎は深まるばかりである。

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