第2話 少女の懇願
全てを賭けて敗北したあの日から三ヶ月後。
愛莉は虚ろな瞳を彷徨わせて学園の廊下を歩いていた。
「っち、んだよっ! おい、落ちこぼれ。早くどけよ! 俺たちが授業に間に合わねーじゃんかよ!」
落ちこぼれの印である『敗北者』の文字がでかでかとプリントされた制服を着た愛莉に、声を荒げる男子生徒。
全てを賭けた敗北者には学園のあらゆる施設が制限され、学内の移動は四足歩行を義務付けられる。
つまり、今の愛莉は手足を地に着けながら歩いていたのだった。
三ヶ月にわたる無理な歩行で、既に掌の皮は剥げ、爪がボロボロになっていた。
二足歩行で歩く学生に速さで叶うはずもなく、後ろからヤジを飛ばされながら必死に愛莉は四肢を動かした。
「まだまだおせーよ家畜! いいか、お前は勝負に負けた敗北者! 豚以下の家畜なんだよ!」
無慈悲な学生の蹴りが愛莉の尻に当たった。
小さな呻き声をあげて、壁際の隅に転がる。
「だっは! だっせーなおい! おら、皆いこーぜ!」
小さい蟻を見つめるのと変わらない、人を人として見もしない連中が、大きな笑い声と共に遠ざかっていく。
勝者はありとあらゆるものを手に入れ、敗者は全てを失う。
ここは、そんな学園だった。
ゆとり教育が廃止になってから数年が経ち、若者の教育システムには様々な制度が試された。
勉強時間も、遊ぶ時間も、寝る時間も、一切が自由な自由教育。
その逆、生徒の全てを学園の管理下においた管理教育。
興味のある分野だけを徹底的に育て上げる特化教育。
中でも、一番学生が成長することになったのは、学生たちを競わせることで成長させる競争教育だった。
テストの点数一つでランクが別れ、上位ランク帯は非常に優遇された生活を送ることができる。ただ、最下層のランクは家畜同然の扱いを受けることになる。
こうなると皆必死だ。誰も今の愛莉のような生活は送りたくない。
死に物狂いで勉強し、得意分野を追求し、他人の弱みを握り、人を欺き自分に利を出すための冷酷さを身に着ける。
目覚ましい若者の成長ぶりを見て、結局、気付けば競争教育が現代の教育システムのスタンダードになっていた。
時には教える立場の教師すらも凌駕される、まさに諸刃の剣のようなシステムは、愛莉のような非情になれない人間には住み辛かった。
こんな学園で、ひそかに息を潜ませて生きてきた愛莉だったが、今まで生きてきた価値ともいえるパン作りをバカにされたのをきっかけに、全てを賭けた勝負、『賭博愛(ギャンブらぶ)』に手を出してしまったのだ。
パン作りの素人なんかには絶対に負けないという自負が、愛莉を絶望に追い込んだ。
愛莉の対戦相手は、パンは工場に依頼し、学園のアイドルの握手券というパン以外の商品価値を付加することで、本来の価格以上の価値を作りだした。
パン作りの素人が勝負を仕掛けてくるのだから、何か手を打っていると考えるのが普通だ。それを何も考え無しに全てを賭けるのだから、敗北して当然と言える。
全てを失い、大好きなパンも作ることができない。これで生きているといえるのだろうか。答えの出ない自問自答が愛莉の中でぐるぐる回る。
「あの時、私はあいつの奴隷になるべきだったのかな……」
廊下の隅で丸まって考える。立っているところを他の人に目撃されてしまうと、三日三晩学内の牢屋に監禁されてしまうのだ。その間は、食料を与えられず、少量の水だけで過ごさなければならないと聞いている。
こんな生活だったら、まだあの男の奴隷になっいた方がましだったのかもしれない。少なくとも、こうやって地べたを這い回ることはなかっただろう。
こうして、このまま周りからバカにされ続け、卒業しても誰かに搾取され続ける。人生ってやつは、どうしてこうも残酷なのか。
母親と、父親と、一緒にパン屋を経営していた頃を思い出して、愛莉は顔をくしゃくしゃにした。
「ぱぱ……まま……寂しいよ。辛いよ。苦しいよ。幸せに、なりたいよ」
次の授業に持って行く鞄から、学生手帳が落っこちた。
たまたま開かれたページには、この学園唯一の校則が筆で強く書かれていた。
――少年少女よ、幸せを抱け!
幸せって、何?
両親を亡くし、大切な物を失くし、人並みの生活さえ無くなった。
愛莉は今にも崩れ落ちて大声で泣き叫びたかった。
だけど、誰も手を取ってくれないこと知っているから。泣き言を言っても、自分が一番笑わせたく無い人を笑わせることになるから。
唇を噛み、懸命に学生手帳を拾い上げ、再び愛莉は四肢を動かした。
顔を上げ、前だけを見る。
今はもう、何も考えたくなかった。
考えれば考える程、死んでしまいたくなるからだ。
死んでしまえば、父親との約束は果たせない。
必ず約束を果たす。
それだけを思い、それだけを願い、それだけを信じて、一歩一歩地べたを這っていく。
吹けば飛ぶようなわずかな気力が芽生えたその時、濃厚な蜂蜜の如き甘い香りが愛莉の鼻腔いっぱいに広がった。
「何、この匂い……?」
気が付けば、愛莉の目の前に人がいた。
黒い花の大輪が繕われたミュール、上品な漆黒のレースに幾重もの茨が描かれたスカートと、本格的なゴスロリファッションを身に纏っている。夕焼けの朱を交えた金色の髪を、艶の良い丁寧な黒のリボンで結びあげられたツインテールが跳ねた。
肌は真白で背は低く、とても日本人とは思えないような深い翠の瞳が愛莉のことをじぃっと見つめている。
「何……か、ご用ですか?」
この学園で私服を許されているのは、最上級ランクの人達か、他所からきたお客様ぐらいだ。どちらにせよ失礼な態度を取った瞬間、愛莉の命運はよくない方向で確定する。
何も言葉を発さない少女は、震える声を放つ愛莉の顔をまじまじと見つめ、一つ頷いて身を屈めた。
「ふんふん。ノンはわかったぞ。つまり、こういうことだな」
品の良い手袋が汚れるのも厭わず、迷いなく廊下の床面に両手を付いた。
「って、どういうことですか! やめてください。汚れてしまいます」
「ノンはお前と対等に話をしにきたんだ。つまり、お前が地べたに這いつくばるのなら、ノンも地べたに這いつくばるのが礼儀というものだろう?」
さも当然のことのように言ってのけ、こういう体験もたまには悪くないな、とばかりにぺたぺたと周囲を歩き出した。
あまりの驚きを隠せずに口をぽかんと開けていると、少女は愛莉を見てにやりと笑った。
「……これ、手と膝が凄い痛くなる」
「そりゃあ、そうでしょうよ……」
だから誰もこんな存在になりたがらないのだ。
これが快適な移動手段だったら、この世界の人類は未だに四足歩行だ。
「ほら、手を見せてください」
「っえ? ……うん」
愛莉は少女の差し出された右手を優しく掴み、手袋を慎重に外した。
「あぁ、こんなに真っ白で美しい手なのに、赤くなっちゃってるじゃないですか。早くもう片方の手袋も脱いで、手を洗いましょう。ばい菌がどこからか入ってきてもおかしくありませんよ」
赤くなった箇所を優しく撫でて、少しでも痛みが引くように善処する。
ここから近い洗面所はどこか、それとも保健室に行って何か痛みや腫れを抑える薬をもらった方が良いか、これからの行動にいくつか選択肢を考えていると、少女は堪え切れない笑みを漏らすように、息を噴き出して笑い始めた。
「きゃら、きゃらららら!」
「なっ……いったい、どうしたの?」
「だって、お前、さっきまで死ぬだとか寂しいだとか辛いだとか、散々心の中で考えていたくせに、ノンの手がちょっと赤くなっただけで、ぜーんぶっ、そんなこと吹き飛んでるんだもん!」
きゃらきゃらと笑う少女を前に、確かに他人を心配することで頭がいっぱいになっていたことに愛莉は気付いた。
誰かが傷つくところは見たくない性分もあるし、自分の悲惨な運命から少しでも目を逸らしていたかったのだろう。
「はぁー。あー、おかしかった」
少女はひとしきり笑うと、愛莉の頬に手を添えた。
「やっぱり、お前しかいない」
先ほど嗅いだ濃厚な蜂蜜の香りが更に強くなり、愛莉は頭が蕩けそうになった。
少女の小ぶりな唇から、甘い蜜でも出ているのだろうか。
「ねぇ、お願い。ノンの大事な人を、どうか助けて欲しいんだ」
翠の深みに覗き込まれながら、愛莉は失神しそうになるほどの甘い頭痛に眩暈を起こしそうになる。
だけど、真摯な少女のお願いに、必要とされる自分を感じて、何故か先ほどまでの絶望感が晴れ渡っていくのを愛莉は感じていた。
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