3-2 左思

 肖像画を描くべしという勅書を持って訪ねると先生せんせいは、はっきりいやあな顔をされた。門前払いを食らわしたかったに違いないが、陛下の命とあってはそうもいかない。


 左先生は一流の文学者であるのと同じぐらいに、醜男ぶおとことしても有名である。その文学の花も実もある威風堂々とした風格とあいまって、容貌醜ようぼうみにくしという風評はとどまるところを知らなかった。


 僕は型どおりの挨拶あいさつをして申し訳なさに身を縮こませていた。気まずい沈黙の後、ついに左先生が「ど、ど、どうぞ」と通してくだすったとき、僕はさらにいたたまれなかった。左先生は、またその文学の流麗なるに吃音きつおんであるというのも有名だった。


 だが、左先生の醜男であるとか吃音であるとか、あるいは低い生まれであるといった要素ばかりを取り上げてとやかく言う人は、左先生の文学に対する真摯しんしな熱意と献身を見ても同じことが言えるだろうか。


 左先生のおたくは文学に捧げられていた。あらゆるところに筆と紙と硯と水滴とが備えてあった。左先生は常に墨を持ち歩いていて、思いついたものは必ず書き付けていると、左先生が席を外した際に通りがかった女中が話してくれた。


 またそうして書き付けられた、原石のごとく奥に光をたたえるひらめきの数々が、冷酷なほど厳しい推敲すいこうの目にさらされるのも確かだった。話を聞いた女中は反故ほごを捨てに行くところだった。反故には文字の削除、挿入、入れ替え、また時にはそれら修正のさらに取り消しが、びっしりと書かれていた。左先生の苦闘のさまは、紙のほぼ全面が黒とあかとに染まるほどだった。そこまで奮闘努力されながら、それでも全く使い物にならないと判断されたのか、容赦ようしゃなく棄却ききゃくされるらしかった。


 言うまでもなく紙は高価で貴重である。このような紙の使い方をするせいで、かしぎの火付けには困らなくとも、炊ぎの種に困っていると女中は語った。左先生によって高められた洛陽らくよう紙価しかにいちばん困らされているのは、左先生自身かも知れなかった。


 左先生は容貌とお生まれのせいで、賞賛とともにいろいろな悪評、悪意の含まれた滑稽こっけいな噂の多い人であるけれども、そのような悪評、噂なんぞよりも、その文学をもって後世に広く長く伝わることを願ってやまない。だが左先生の文学の偉大さを思えば、僕の願いなどいらぬ世話というものだろう。





左思さし(二五三頃~三〇七頃)

西晋せいしんの文学者。

父は叩き上げの下級官吏かんりで左思に書と琴とを伝授したがものにならず、左思は発起して学問を修め、十年をかけて三国時代の三国それぞれの都を詠じる「三都さんと」を完成させた。

最初黙殺されたが、著名人が序文を添え注を施してから再び世に出すと激賞され、人々がこぞって書き写すので紙が品薄となり値段が高騰したという。

この出来事に由来する「洛陽らくよう紙価しかたからしむ」はベストセラーをあらわす故事成語となった。

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