第85話名古屋の自宅で始まった因縁が、今終わる
土と岩ばかりの尾根が、四方を取り囲む。
その間を縫うように何度もカーブしているのは、幾多の旅人が整えた峠道。
ロムードと佳大は、切り立った山稜に立ち、お互いを見つめる。両者は200mほど離れた位置に立っているが、完全な鬼の姿をとった佳大と俊足の女神にとっては、一呼吸かからずに零に出来る距離だ。
両者の身長は、互いに常人の2倍ほど。
先にスタートを切ったのはロムード。
手にした短い鎌ですれ違いざまに斬りつけていく。佳大が捉えたと思った瞬間には、既に攻撃を済ませ、彼方に走り去っている。
「杉村佳大。君は人生というものをはき違えているんだと、私は思うんだ」
佳大は全身の感覚器官に、意識を集中している。
自身の身体を餌に、獲物が掛かった瞬間、殴りつけるのだ。
無論、手札は使う。佳大は雷電を無数の格子状に、垂直に、水平に走らせる。
目も眩む閃光の中、闘鬼は苦悶の声を聞き取った。仁王のような表情であちこち視線を動かすが、目当ての女はいない。
(まだか…)
影すら見えないとは恐れ入る。
周囲の空間に満ちる大気が、ロムードの軌道を教えてくれるが、処理が追い付かないのだ。
炸薬に火を点けたように拳を発射すると同時に、脇腹をナイフの峰で撫でられたような感触が走り、己の拳は空を切るだけ。
「気に入らないものを殴りつけ、自分の楽を追求する。責任感や倫理感といった、組織に属するうえで必要な気質が無い以上、あのまま地球にいたって、平穏な生活は遅れないよ」
佳大とロムードの周囲を、雷電が奔る。
まばらに生えていた緑は焼け落ち、足元の地面は全てガラス化した。
「君は出世できない。取りに足らないと思っている他人の下で一生を終えることになるし…いや、世を儚んで重大な犯罪を犯すのがオチか。商業と弁舌の神の名が言うんだ、間違いないね」
雷電が幾度か女神を捉えるが、佳大の拳に手応えを掴めない。
狙わぬ拳ですら追いつけず、彼女は一合で10も20も叩き込んでいく。
ロムードは優越を感じながら、自身を苛む不安を拭いきれないでいた。
遅くなっているのだ。追い風を受けているようだったのが、今やスライムを突っ切るように感じられる。
それでも佳大の拳を見てから避けられる、恐るべき敏捷性。
「寛容になれ。他人の身の上に思いを馳せてみた事はあるかい?不断の意思によって、自分を変革しようと考えた事は?あぁ、言わなくてもいい。自分に都合のいい考えにくるまれているのが、君という男だからね」
打った拳が20回を超えた頃、佳大は身体が重くなったように感じた。寒気を自覚し、全身……特に喉が痛む。
「うぅ…ごほッ、ごほッ」
「おや、ついに発症したか。君は病気になったんだよ。私は交通と商業を司る、人や物の行き来を妨げるものの一つが疫病だ。私はそれから人々を守っているんだ」
ロムードは傲慢に言い放つ。
自分は弁論の成功を保証し、旅人に安全を与えることができる。
では佳大には何があるか?彼には何もない。身内と認めた一握りの者達以外を無視して生きている。
彼が得ているのは何者にも顧みられない無敵さ。無視すると同時に無視されているのがお前の在り方だと、ロムードは見做している。
「君の旅はここで終わりだ。神殺しの誉れだけを手土産に消えるが良い」
ロムードの斬撃が皮膚を撫でる。
己の攻撃では傷すらつかなくなったとは恐れ入るが、血の流し合いは彼女の本分ではない。
この瞬間こそが最大の好機。十人並みの佳大にだって分かる。ロムードを捉えるのに、足の速さだの脳髄だのは必要ない。
そのまま突き抜けようとしたロムードは、唐突に金縛りにあった。
佳大そのものと化した空間が、女神の疾走を拒絶したのだ。
氷漬けのカエルのように硬直したロムードの鎖骨間を、裁きの鉄槌を思わせる衝撃が打ち抜いた。
声をあげる事すら許されず、埋められるようにして奇妙に硬化した地面に叩きつけられる。
自由になった両の瞳が、天から降る厳つい拳を見た。
佳大は馬乗りになり、整った女神の顔を殴る。流石に神を名乗るだけあり、1発2発程度で、目だった傷にはならない――そうでなくては。
地面に亀裂が走り、ロムードの頭が沈んでいく。10往復を超えると鼻が折れ、頬骨が潰れ、ロムードの顔は痛ましいほど醜くなった。
殴打に飽きると佳大は、親指を眼窩に突っ込む。潜り込んだ指がミミズのように進み、眼球を掻き出す。
佳大はさらに人差し指を突っ込み、眼球を摘まむ。ロムードは思わず視界を明滅させたが、激痛が自由を与えた。
身体を捩るが、山のように闘鬼は不動。ほっそりとした両腕は、逞しい脛で抑えられている。両眼窩から、弾ける音が漏れると、生温かい体液が柿色の指を濡らした。
湿り気を指に感じ、女神の絶叫を耳にした佳大は、無言で深い深い笑みを浮かべた。
潰した両眼球を、瞼の上から殴りつける。
殴る度に、嗚咽めいた悲鳴を漏らすのが心地いい。溜飲が下がるというものだ。
3発殴った時、再び佳大は咳き込んだ。ロムードはすかさず毒霧よろしく、血を噴きかける。
症状がさらに悪化し、脳の中で何者かが鐘を絶え間なく打ち鳴らす。
ロムードは身を捩るが、佳大は重石のように動かない。
灼けるような喉の痛みを覚えつつ、ふらつきながら姿勢を変える。ロムードの左腕から脛を外すと、左手で顔目がけて飛んできた。
片手で受け止め、前腕に指を喰い込ませ、力の限り引っ張ると、筋繊維が音を立てて千切れる。同じように右腕を千切り取った時、ロムードは口を開いた。
「こ……ころし…も…ほっといて……」
佳大は千切った腕を、強肩をもって放り捨てる。
反対に向き直り、柔らかな太腿に指を喰い込ませると、両脛を同じように千切り取った。
佳大はロムードの四肢を荒っぽく切断するだけでは飽き足らず、胸に、肩に、腹に拳を打ち下ろしていく。
神格にふさわしい頑強さで殴打を受け続けていた彼女が絶命する頃、両脛のタラリアが土塊に変化した。
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