第8話 狼の誇り

 ジグハの屋敷に迎えられ、その娘と形ばかりの婚儀を済ませた梁克嶺は、ついに狼の王宮への足がかりを得たことで高揚を抑えきれずにいた。しかし、この狼の国の中枢に近づくに従って、どことなく違和感を覚えつつもあった。

 まず、公主がもたらした知識が急速に狼に広がりはじめていること。城下には多くの工房が建設されようとしていて、聞けばどれも公主の引いた図面をもとに王命で建設が始まったのだという。公主がそのような知識を持っていたことにも驚いたが、役人を介さずに自ら狼の徳化を進めようとしていることにも驚いた。心優しくおとなしい印象しか持っていなかっただけに、供の者をほとんど失ってどれほど傷心であろうと気を揉んでいたので、気丈な一面には驚きを隠せない。

 また、公主と狼王の仲睦まじい様子がなかば当然のように噂されていることにも戸惑った。好意的に語られるばかりでなく、出立を控えてジグハの屋敷を訪れた王弟マルクンがうんざりした様子で「朝から目の前でいちゃつかれて胸焼けしました」と愚痴をこぼしてから発ったのも印象的だ。そうなると、公主はただ気丈に勅命をはたそうと勇気をふるっているのではなく、狼王に好意を持っているのかもしれない。あまり考えたくはないが。

 しかし梁克嶺もここまで来て公主を連れ帰ることを諦めるわけにはいかない。公主も懐かしい顔を見れば野蛮な狼の巣からふるさとに帰りたくなるだろう。どうにかして公主のもとに姿を表さなくては、と密かに公主の行動を探っていたところ、とんでもない情報をつかんだ。

 ジグハが公主の暗殺を企てていたのである。

 公主が建設中の工房へ視察に訪れたところを狙って、事故に見せかけて建材の下敷きにしようというのだ。その話を耳にして梁克嶺は現場に急いだ。差し迫った話ゆえでもあるが、劇的に命を救われれば狼王に傾きかけているかもしれない公主の気持ちもこちらに戻るだろう、という下心ももちろんある。

 高く積まれた建材の下を、公主が狼王と熱心に話しながら通ろうとする。公主様、とあげかけた声が、狼王の鋭い「香詠、危ない!」という声に呑まれ、煉瓦の崩れる音と土煙、そして公主の悲痛な叫び声……。何もかもが手の届く場所で起きたことのはずなのに、決して触れられない遠い世界のように見えた。


 怪我を負い意識を失ったルイグンを部屋に運ばせ、香詠はその枕元に侍して静かに梁克嶺と向き合っていた。梁克嶺は肩身が狭そうにしていて言葉もない様子。香詠はそっと深呼吸をして口を開いた。

「久しいですね、梁将軍。……このように言葉を交わすのは初めてですが」

 梁克嶺はさっとひざまずいてこうべを垂れる。

「公主様、多くは申し上げません。俺はただ、尊い御身を案じてお迎えにあがりました」

 きっちりと髪を結い上げて頭巾をかぶった梁克嶺の頭を見下ろし、香詠はため息をつく。

「……知る限りのことを語ってもらわねば困ります。偶然あの場に居合わせたわけではないのでしょう」

 梁克嶺はこうべを垂れたまま一瞬身をこわばらせ、床に両手をついてそろそろと顔をあげた。

「……公主様をお救い申し上げるため、名を偽って狼に婿入りいたしました。そこで義父となった狼が公主様の暗殺を企てていることを知り、駆けつけた次第です」

 梁克嶺の両目に映る香詠の姿は端然として無表情であり、思案の間も梁克嶺をどこか怯えさせるような冷たさを帯びている。

「……ジグハ様の娘婿とは、あなたでしたか。わたくしの命を狙うにも理由があるのでしょう。問いただしたいところですが、ルイグン様がこの状態では……」

 気遣わしげに寝台のルイグンに視線を移し、うつむいた香詠に、梁克嶺が焦ったように声をあげる。

「公主様! ……このような危険な場所に留まるべきではありません。俺があなたを守ります。どうか、俺とともにお帰りください!」

 香詠はしばし口をつぐみ、じっとルイグンを見つめていたが、やがて静かに梁克嶺に向き直る。

「たとえ危険でも、わたくしは己の生涯を捧げると決めてこの地に嫁したのです」

 愕然と言葉をなくす梁克嶺に、淡く微笑みかけすらして、香詠は語る。

「梁将軍。あなたはわたくしを何も知らない。あの日からこの身を焦がし続ける炎を、鎮めるのではなく分かち合う相手を、わたくしはこの地で見つけたのです。……わたくしは帰らない。それは陛下のためでも、お祖父様のためでもありません。ただ、ルイグン様を支え、ともにこの国を守るため。……いつかは陛下にも、お祖父様にもおわかりいただけるでしょう。ですがそれは今ではない」

 不穏な雰囲気を察したか、梁克嶺が小さく息を呑む。香詠は優しく微笑んだ。

「……ですから、あなたをこのまま帰すわけにも参りません」


 梁克嶺のもたらした情報をもとにジグハを捕らえると、ジグハはマルクンと共に金を帝国に流して私腹を肥やしていたことをすらすらと吐いた。香詠の命を狙ったのも、このまま金山の調査を進めさせるわけにはいかないと思ってのことと述べる。

「……しかし、ルイグン様が動けない今、公主様に何ができるんでしょうねえ? 僕にはあなたの裏切りを帝国に伝えることだってできるんですよ」

 ふてぶてしく居直るジグハに、香詠は毅然と対峙する。

「わたくしが祖国を捨ててこの国に尽くそうとしていると知らせて、そのあとどうなるとお思いですか? わたくしひとりが始末されて終わりならまだしも、あらためてこの国を攻め滅ぼすことになってもおかしくはないのですよ」

 ジグハは黙り込む。香詠もいったん言葉を切り、そっとまだ目覚めないルイグンを振り返った。

「……ですが、わたくしもルイグン様の意識がないうちに勝手はできません。ここで王族のみなさまをないがしろにしてわたくしが表に立てば、ルイグン様のお立場も危うくします。ジグハ様、わたくしはあなたと手を結びたい」

 香詠の言葉に驚いた様子のジグハは、しばらくして軽く鼻を鳴らした。

「……狼の誇りもおしまいだ。こんな小娘に言いくるめられて手を貸すなんて」

「ジグハ様、どうぞご深慮のほどを。狼の誇りとは、この国の自立あってこそのはずです」

「ああ、わかっているよ。……あなたのやりかたは気にくわないが、いいだろう、話を聞くよ」

 ジグハが姿勢を正して耳をぴんと立てる。香詠はひとつうなずいて口を開いた。

「まず、わたくしはルイグン様の代わりに立つことはいたしません。ルイグン様が動けるようになるまで、ジグハ様に代理を務めていただくのがもっとも理にかなっているでしょう。そのため、ひとまず金山の件についてわたくしから糾弾はいたしません」

「……へえ、さすがは賢い公主様だねえ。狼の勢力図も頭に入っているのか」

 半ばは心から感嘆した様子のジグハに釘をさすように香詠はまっすぐなまなざしを向ける。

「ですが、あくまでルイグン様の代理を滞りなく務めていただくための留保です。ルイグン様が目覚めしだい、金山の件は梁将軍から直接お耳に入るでしょう」

 ジグハは不敵に目を細めた。

「それでは手を結ぶ意味がないな。あなたから僕にもたらされる利益が少なすぎやしないかい?」

 香詠は表情を変えないまま毅然と言葉を返す。

「わたくしがルイグン様をさしおいてジグハ様に提供できる利益などその程度なのです。わたくしの役目はあくまでルイグン様のお力となること。また、ジグハ様にもそうであっていただかなくてはなりません。……この国の内側で想いがばらばらになっていては、とても帝国に対抗することなどできないのですから」

 ジグハはいったん言葉を呑んで静かに香詠を見つめた。それから自嘲するように笑う。

「……はは、まったく身持ちの固い公主様だね。付け入る隙もない。もう少し王の威光を頼んで増長してくれているものかと思ったのに」

「ジグハ様。……狼の誇りとは何か、答えは見つかりましたか?」

 淡々と香詠が問い、ジグハは耳を伏せて黙りこむ。香詠はしばしじっとジグハの返答を待ち、細く息をついて言葉を発した。

「ジグハ様が帝国に流した金は、きちんと管理し、うまく使えばこの国の力をさらに増したはずの財産です。……人間が金を求めるのは、それが貴重で美しいからだけではありません。金を求める人に与えることで見返りを得られるから少しでも多く自らの懐に蓄えようとするのです。梁将軍は、都に直接持っていけばより高く売れると言ったのでしょう? それは、ジグハ様が今まで金の価値をわかっていなかったために、人間に搾取されていたということですよ」

 ジグハははっと顔をあげる。香詠は静かに目を伏せてうなずいた。

「知識、知恵、それらがなくては、見下している相手にいつの間にか負けていることにも気づけないのです。はっきり申し上げます。人間は卑怯です。相手を騙すために諸手をあげて腹を見せることも厭いません。わたくしは、同じように卑怯になれとは申しません。それは狼の誇りを失うことでしょうから。ただ、騙されないでほしいのです。狼の誇りを、真に守り抜いていただきたいのです」

 ジグハは長いため息をつき、背を丸めて香詠を見た。

「……やれやれ。狼の誇りか。僕がこだわっていたものと、あなたが語るもの、どちらを守るべきなのか……きっと、ルイグン様はわかっていたんだろうね」

 香詠は淡く微笑む。

「そして、ルイグン様と同じ想いでこの国のために力を尽くすこと。人間と対等になるためには、まず狼の皆様が団結することが必要です。……ジグハ様の誇りを捨て去れとは、ルイグン様もおっしゃらないでしょう。ですが、ばらばらに行動していては国の力を削ぎ、人間に付け入る隙を与えます。二心なくルイグン様にお仕えすること。それはわたくしも同様です」

 ふと言葉を切り、じっとルイグンを見つめた香詠は、力強いまなざしをもう一度ジグハに向ける。

「わたくしに従えと申しているのではございません。どうか、ルイグン様と心をひとつにしていただきたいのです」

 ジグハは小さく肩をすくめる。

「……なるほど、参ったよ。自分の過ちは認めよう。あなたを信用するわけではないが、言っていることは理にかなっている」

 そう言って立ち上がると、香詠の顔を覗きこむようにしてささやく。

「あなたはずるいね。そんな可憐ななりをして、まっすぐに切々と語られては、心を揺らがせずにいることは難しいよ」

 驚いて身を引いた香詠に小さく笑い、ジグハはゆったりと尻尾を揺らして部屋を去る。香詠は腑に落ちない顔でそっとルイグンを振り返った。

「…………ずるい、のですか?」

 ルイグンは答えない。ただ緩めた襟からふかふかの毛皮が覗く厚い胸を静かに上下させ、香詠の言い知れぬ不安を煽った。

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