第3話 皇帝からの密書

 香詠がほとんど供も引き連れず、ただ愛用の琴を抱くのみでやってきたことに不満を抱く王族は少なくなかった。皆どこか帝国の富に期待していたのだろう。

「普通、どんな華やかな行列かと思うでしょうよ。列になってすらいなかったじゃないですか。嫁入り道具もろくにない、侍女のひとりも連れてこない公主がいますか?」

 マルクンが憤然と鼻を鳴らす。ジグハはそれを抑えながらも、目を細めて首を傾げた。

「僕もちょっと怪しいと思うね。あんなやりかたで、人間どもは本当に和平の証とする気があるのかい?」

 ルイグンは深いため息をつき、立ち上がる。

「マルクン、叔父上、ふたりの意見ももっともだ。しかし、香詠は俺の妻となった。俺が自身で見極めさせてもらう」

 返事を聞かずに執務室を出て香詠の部屋に向かうと、琴の音と歌声のこぼれる部屋の前、そっと聞き耳をたてる狼がいた。足音を消して近づき、さっと腕をとらえてひねり上げ、口を封じて香詠の部屋から引き離した。

「……何をしている」

「わ、わああっ」

 不審な狼はすぐにおとなしくルイグンの前にひざまずき、懐から手紙を出して差し伸べた。

「害をなすものではございません、わしは宦官で……陛下からの密書を預かって参りました」

 ルイグンは目をみはり、ひとまず密書を受け取る。この宦官は扱いかねるところだが、武官を呼んで宮中に丁重に軟禁せよと申しつけた。すぐに手紙を開いて目を通す。


 ……皇帝つつしんで銀狼王に問う、恙無つつがなきや。

 過日、昭烈公主を遣わし兄弟を約するも、従えし侍女官人、ことごとく死するの報を受く。ただ公主のみ姿無く、何れの地に留められしか、賢弟のもとに到るを聞かず。このこと兄弟の義に影とならんや。ちんこれをはなはだ憂う。賢弟もし公主の消息を知らば、宜しく書を致すべし……


 読み終わるかどうかのうちに、ルイグンは思わず周囲を伺った。とんでもない密書を受け取ってしまった。幸い誰にも見られてはいない。手紙をたたんで懐にしまい、香詠の部屋に戻る。咳払いをして声をかけた。

「香詠、話がある」

「はい」

 香詠は琴を片付けて立ち上がり、ルイグンに歩み寄って顔を見上げた。ルイグンはわずかの間考え込む。誰かに聞かれてはまずい。どこで話をするべきか……。

 結局自室に香詠を連れていき、椅子を勧めてルイグンは寝台に腰を下ろす。少し緊張した面持ちの香詠の前に、懐から出した密書を広げた。香詠がはっと目をみはる。

「それは、陛下の……」

「あなたがそう思うのであれば、まさしくそうなのだろうな。……昭烈公主とは、あなたの封号だったと記憶している。これによれば、あなたは都から大勢の人を連れて出発したはずなのだが、たどりついたのはあなたひとり。連れてきた人は皆死んでいるのが発見されたそうだ。……どういうことだろうか」

 香詠は唇を震わせ、ぎゅっと袖を握りしめてしばらく絶句していた。ルイグンは注意深くその顔色を観察する。この才知に長けた少女は何を隠していて、どう出るというのか。重苦しい沈黙を破って、香詠が細く息を吐く。

「……嘘は、ひとつも申し上げません。ですが、信じていただけなくとも仕方がないお話です。……供の役人たちの陣に火をかけ、すべて焼き殺したのは、わたくしです」

 ルイグンは耳を疑った。

「なぜ、そんなことをする必要がある?」

 香詠は目を伏せ、細かく震える手を必死に抑えるように強く袖を握りしめながら訥々と話す。

「わたくしは、狼を徳化し、帝国に内から従えるようにとの勅命を受け、……言うなれば小さな国を率いて都を発ちました。ですがわたくしには、それがどうしても受け入れられなかった……、帝国の威光の象徴として役人たちに推し頂かれ、彼らが狼を支配する仕組みを整えていくのを、手をこまねいて見ていることが……耐えられないと、思ったのです」

 香詠が胸の底から長く息を吐くのを、ルイグンはまだ呑み込めない気持ちで見つめていた。帝国の象徴として狼の新たな支配者となることが、なぜ受け入れられないのか? 香詠の口ぶりからするに、役人たちをそのまま連れてきていれば香詠自身は何もしなくともこの国の実権を握ることができていたかもしれないのに。押し黙るルイグンを前に、香詠は再び語り始める。

「わたくしは、この国を守るために来たと申し上げましたね。わたくしが帝国に逆らい、この国に肩入れしようとするのには理由がございます。……わたくしの祖父は先帝の御代に重用された家柄で、母を今上の後宮に入れることも叶いましたが寵愛は得られず、今上からは遠ざけられて不遇の生涯を過ごしておりました。わたくしも後宮の片隅に追いやられ、ただ狼の宦官、黄翁と申しますが、彼を友とし、また親のように思って育ちました。母は体が弱く、療養として尼寺に引っ込んでおりましたので、その日わたくしの宮におりましたのはわたくしといくらかの女官、官奴婢と黄翁……、みな後宮の中心からは縁遠い、どこか見捨てられたような者たちばかりでした。ですから、火事が起ころうと誰も気にしなかったのでしょう。風にあおられて火は瞬く間に広がり、わたくしは危ういところを黄翁に助けられました。黄翁は……、わたくしが止めるのも聞かず、まだ取り残された人がいるからと燃え落ちる宮殿に戻りました。わたくしは宮の外に走って、役人に助けを求めました。役人はひとしきりわたくしの無事を喜んで、それから、……狼も公主を助けて死んだとあれば本望でしょうと、そう言ったのです」

 香詠は声の震えを鎮めようとしてか、目を閉じてまた深呼吸をする。

「黄翁は死んではいませんでした。そのあとも、わたくしの元に黄翁に助けられたという女官や奴婢が参りましたから……。ただ、そうして最後まで皆を助けた黄翁は、……帰ってきませんでした。わたくしはせめて黄翁の亡骸を探したいと、弔ってやりたいと申し出ましたが、誰ひとり……黄翁に助けられた女官でさえ、狼の骨など拾ってどうすると言って……うなずく者はおりませんでした」

 言葉もなく聞き入るルイグンのまなざしの先、香詠はぎゅっと唇を引き結ぶ。孤独な宮中にあってただひとりの存在だった黄翁を失い、香詠は真にひとりになってしまったのか。

「……わたくしが黄翁を頼りとして育ったように、帝国に狼の奴隷は珍しくありません。それは、帝国が狼なくしては立ちゆかないということの表れでもあります。奴隷としてばかりではなく、ここに狼の国があることでさらに西の国々を押さえ、または交易を行うこともできる。それなのに、驕り高ぶった態度のまま狼に圧政を敷いて良い結果になるとは、わたくしには思えなかった。……ですが、この国に送り込む花嫁としてわたくしが選ばれてしまった。祖父の提案です。祖父はついに自らの血を引く孫が新たな王国の実権を握り、いずれ太上皇として祀られることを期待しているのです。祖父の息のかかった役人たちがわたくしの供として選ばれ、新たな国を作るのだという意気高く集まりました。……わたくしの意思で彼らを左右できるとは、とても思えませんでした」

 ルイグンは静かに香詠の話を聞きつつ、その明察に舌を巻いていた。西の砂漠にもまた国があり、狼が睨みをきかせていること、ときには交易隊の護衛をする狼もあることを、帝国の都から見抜くことはなかなかできることではない。ルイグンは問う。

「だから、殺すしかなかったと?」

 香詠はルイグンの問いにうなずき、白く冷え切っているのだろう指先でそっと頰を覆った。

「……時間も、策を練る余裕も、そうはございませんでした。国境を越えてから始末したのでは、狼にあらぬ疑いをかけられかねない。国境までの道のりで人家の絶える場所を選び、わたくしが選ぶことを許された少数の職人を除いて酒に薬を入れ、眠らせてから陣に火を放ちました」

「……宝物を残しておいては、山賊のしわざには見えまい。嫁入り道具のたぐいははじめからなかったのか?」

 ルイグンが問いを重ねると、香詠は首を横に振る。

「財宝や金銀のたぐいは、狼の護衛や荷物持ちを雇うために使いました」

「……なるほど」

 ルイグンはうなずき、静かに立ち上がって香詠に歩み寄った。うつむいてしまった香詠の前にひざまずいて顔を覗きこみ、そっと頭を撫でてやる。

「……辛い思いをしたのだな」

 傷つけぬよう、不器用な手でできるだけ優しく触れる。香詠が驚いたようにまるくした大きな目がひとつふたつと瞬きを繰り返すたびに、透明な雫がころころと頬をすべって落ちはじめ、ぽつぽつと衣に落ちるころ、香詠は顔を歪めてルイグンの首にしがみつき、声をあげて泣きだした。ルイグンはぎこちなく香詠の背を撫でて、こんな細く小さな体に、なんと重いものを背負ってきたのかとあらためて驚いた。

 正直、香詠の話の真偽はわからない。香詠ほどの知恵の持ち主ならば狼を欺くのもそう難しいことではないだろう。だが、いま力いっぱいルイグンの首にしがみついて顔をうずめる香詠の声が、肩を濡らすこの熱い涙が、偽りのものであるとはどうしても思えなかった。

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