草笛

天鳥そら

第1話山歩く人

春が過ぎ、柔らかな緑が芽吹く山々を一人の男が歩いていました。男は山の神に仕える精霊のようなもので、春から夏にかけて忙しく歩き回ります。動植物の営みが自然に沿ったものであるように、男ができることはわずかなれど、男が通った道には神の恵みがゆっくりとあふれ出します。動植物は男の訪れを喜び、感謝の気持ちをこめて眺めます。


男が急ごうと思えば小さな山はひとまたぎ、大きな山でも三歩もあれば軽く超えて行けます。男が訪れたとしてもあまりに早く通り過ぎてしまうので、気がつかないこともあります。けれども今日は男はのんびりと春の山を楽しんでいました。


桜の盛りを過ぎたころ、緑の草葉がぐんぐんのびて、男はゆるやかに吹く風を楽しんでいるようでした。黒髪を後ろで軽く結わえ、無精ひげを生やした様子は山にこもった仙人のようでした。けれども輝く黒々とした瞳は、若々しい青年のもので人が見ればどこの若者だろうと思うことでしょう。


「良い季節はすぐに過ぎる。よもぎの葉も、山奥の桜も散ってしまう。その後は、濃い緑の季節になるな」


灰色の衣についたフードを頭からかぶり、ボロボロの茶色い革靴を履いて軽々と岩から岩へ歩いていました。人の住む町は遥か遠く、ゆるく流れる白い霧に遮られてみえません。もし霧が晴れていたとしても、野山の緑の葉でやっぱりみえないかもしれません。


男は、ふと足を止めて昔あった小さな村を見に行こうと思いました。あまりに山奥にあるので、小さな家が身を寄せ合うように建っていましたが、数年前には人もすっかりいなくなったと聞いていました。


朽ちていく家屋はそのまま残っていたはずだと考えながら歩いていると、古くて小さな神社がありました。神社は古く朽ちかけてはいるものの、たまに誰かが訪れているようです。そのせいか、神の気配のようなものを感じ、男はそっと手を合わせました。


神社を通り過ぎ家の集まる場所に向かおうとすると、小さな女の子の声が背後から響きました。


「ねえ、おじさん」


おじさんと呼ばれてくるりと振り返ると、口を真一文字に引き結んだ女の子が手の平を差し出しました。女の子の手の平には緑色の葉っぱが乗っています。


「草笛、吹ける?」


「草笛?」


男はフードを取って、女の子の顔をまじまじと眺めます。黄色のワンピースは真夏のもの。どんなに気温が高くてもここは山奥でどうしたって肌寒い。それなのに、女の子はちっとも気にしていないようでした。黄色のワンピースとおそろいの黄色のリボンで髪の毛をまとめてポニーテールにしていました。


「どうかな。草笛はあんまり吹いたことがないんだ」


そう言うと、女の子はちょっと難しい顔をして、手の平にある葉っぱを男におしつけました。


「吹いてみてくれる?」


「吹けば良いの?」


男はそっと葉っぱを取り上げて、そっと唇にあてました。何度か息を吸って吐いて呼吸を整えてから、そっと吹きました。


ひゅいー、ひゅいー、ひゅーい。


何度か吹いていると女の子の顔が明るくなり笑顔になりました。


「良かった。今日はお祭りなの。おじさんが吹いてくれたら助かるわ」


「お祭り?」


ボロボロの神社を振り返り眺め、おそらく誰もいないだろう集落の方へ目を細めて見ていると、女の子が早くと叫ぶので何も考えずについていきました。


集落へついてみるとたくさんの人がいて、神輿の用意をした人たちが男を見て喜びました。


「草笛吹ける人、連れて来たよ」


女の子は一人のおじいさんのそばへぱっと駆け出し、抱っこしてもらって喜んでいます。高齢者が多く若い夫婦も数組ありましたが、やはり村の人数としては少ない。古いはずの建物は、人が住んでいる活力にあふれ、とても人のいない村だとは思えませんでした。


やんややんやと村の人達に迎えられ、祭りの神輿を担ぐからそばで草笛を吹いてほしいと頼まれました。


「この通り、小さな村で出し物も特にない。あなたにお礼できるようなものが何もないのだが」


この村の村長なのでしょうか。困ったような顔をした男が一人、村人たちに背中を押し出されてやってきました。


「かまいませんよ。草笛を吹けば良いんですね」


男が気軽に請け負うと村人たちの顔つきがみるみる明るくなり、歓声が響き渡りました。


「神輿を神様の元へお返しせんにゃならん」


「草笛の音で神様も気を良くしてくれるだろう」


早速若い男や年寄りが神輿を担ぎ、数少ない男の子たちも懸命に担ぎます。わっしょい、わっしょいという声とこの村特有の歌なのか男の知らぬ歌を女たちが歌います。男は唇に葉をあてて、慎重に吹きました。


ひゅるー、ひゅるー、ひゅーる。


最初は静かにけれども村人のわっしょいという声に合わせて、調子をつけて豊かな音色が男の口元から響き渡ります。神輿は先ほど男が参拝した神社の前で止まると、皆が深々頭を下げました。


「本当にありがとうございました。これで、私たちも肩の荷がおりました」


にこやかに笑い、男も女もわっしょいわっしょいと言いながら、神社の奥へと入っていきます。神社の奥まで行った村人たちは順々に金色の光の玉に変わり、神輿をそのまま担いで拝殿の奥へと消えていきました。


「おじさん、ありがとう」


女の子が男の腕に抱きついてからにっこり笑うと、同じように金色の光の玉に変わりすーっと拝殿の奥へと消えていきました。すべての人がいなくなり静まり返った境内をでて、村へと向かいます。


そこは先ほど男が見た場所とは似ても似つかぬ場所でした。朽ち果てた家屋と土砂崩れのあと、黄色のテープがいくつか張られた先に、‘立ち入り禁止’の文字。うろうろと歩いていると、作業着を着た男がやって来てうさんくさそうに男を眺めました。


「ここは立ち入り禁止、危ないよ」


「何かあったんですか?」


「地震があった時に、岩が裂けてね。ガスが充満したんだよ。ちょうど祭りの日で、村中の人が集まっていた」


何人か生き残ったみたいだけどねという男はこのあたりを調査して、ガスの原因や今は危険がないかどうか調査しているのだと話しました。


「すみません。すぐに出ていきます」


「ああ、ちょっと、ちょっと。その笛は神社にあったものだろう?勝手に持ち出さないでくれ」


慌てた声にきょとんとして草笛を持っていた手を見ると、そこには一本の竜笛があり、先ほどまで持っていた緑の葉はどこにもありませんでした。




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