01: 腕相撲する
「イルスとシュレーはいつも練習試合ばかりしてますけど、どっちが強いんですか?」
夕食の支度をするために集まった食堂で、シェルが急にそんなことを言い出した。
講義が終わった午後からは、学生たちは自由時間を与えられており、物好きな教授の特別講義を聴きに行く物好きな学生もいれば、馬場や剣闘技場で鍛錬する学生もいる。
シュレーは物静かな風貌に似合わず、体を動かしているほうが好きらしく、剣闘技場ではイルスとよく顔を合わせたし、いると気付けば練習試合だった。
シェルは、彼の風貌どおり、体を動かさないほうが好きらしく、剣闘技室に近づくことすら避けている。だから、ふたりのいつもの練習試合の結果を知らないのだった。
にこやかなシェルに質問されたシュレーは、無表情に沈黙して、すぐには答えようとしない。やつは面白くないのだ。イルスにはそれが分かっていた。
練習試合では、たいていイルスのほうが優勢だったし、たまにシュレーが勝っても、勝ちを譲られたことに気付かないほど、彼は能天気ではなかった。
「どっちでもいいだろ、シェル」
もう訊くなという含みをこめて、イルスは代わって答えておいた。シェルはそれに浮かない顔をした。
腹が減ったので、さっさと食欲を満たしたくなり、イルスはひとりで厨房へ行こうとした。
「待て、フォルデス。その返事は、自分のほうが強いという意味か」
かちんと来たらしいシュレーが、どことなく早口に引き留めてくる。
ああ、まったく、と、イルスは内心でぼやいた。とかく勝ち負けのことになると、こいつは粘着だ。いっぺん機嫌が悪くなると、ぼろ負けするまで一歩も退かないので、お互い疲れるばっかりだ。
「めし食おうぜ、シュレー」
どこか頼み込むような気持ちで、イルスは言った。
「私のほうが強い」
「そうか、俺もそう思うよ」
「腕相撲なら」
どこか神聖な気配さえする尊大さで、シュレーは顎を上げて立っている。
イルスは彼の言うことに、一瞬ぽかんとした。
シュレーと腕相撲なんかやったことはない。
「腕相撲?」
「そう。机に肘をついて手を握り押し合う。さきに手の甲が天板についたほうが負け。知らないのか」
「いや、腕相撲は知ってるけど……」
イルスは口ごもって、食卓にいるスィグルに目をやった。彼は、姿勢悪く椅子に腰かけ、いかにも迷惑だという顔をしていた。その次に、横に立っているシェルを見ると、彼は楽しそうに目をきらきらさせて何かを待っている。
「なんで自分のほうが強いと思うんだよ」
「やってみればわかる」
シュレーは、にこりともせずに断言した。
真顔でそこまで言われると、イルスも気分が良くなかった。どうせ、いつもの張ったりだ。そうに決まってる。
「一回だけだぞ」
イルスは挑戦を受けた。
その答えを聞いて、シュレーは初めて、かすかに笑った。自信ありげだった。
「僕、ごはんにしたいんだけど。さっさと食べて部屋に戻って読みたい本があるんだけど。調理人たちはなんで働かないんだろう」
椅子をどかすイルスに、スィグルは横目で文句を言っている。
「すぐ終わる」
自分の右腕を撫でながら、シュレーが請け合った。
そういえばシュレーは右利きで、自分は左利きだった。だからあいつは、自分の利き腕のほうで争えば、勝てるだろうと思っているのだ。イルスはそう考えて、勝手に納得した。
甘いな。
イルスは今回はシュレーに勝ちをゆずってやる気はなかった。手加減するとごねられて長引くし、さっさと食事を済ませたい。
シュレーを黙らせるには、完膚無きまで叩きのめすのが一番なのだ。
「じゃあ僕が審判やりますね!」
嬉しそうに申し出るシェルを、スィグルが心底愛想が尽きたという顔で見上げる。
シュレーは思ったとおり、右腕を使うつもりらしかった。
イルスは彼の手を握って、いかにも冷静そうな緑色の目を見つめた。
ほんとうは腹が立っているくせに、よくそんな何でもないような顔をしてられるもんだ。
「はい、じゃあ数えますよ。さん、にー、いち、はじめ!」
シェルのやる気のおきないかけ声を合図に、イルスは腕に力をこめた。
勝負は一瞬でついた。
シュレーが勝ったのだ。
食卓に押しつけられている自分の手を、イルスは呆気にとられて見下ろした。
「あれ」
「私の勝ちだったろ」
勝ち誇りもしない無表情で、シュレーはさらりと言った。その声が、これでもかというほど勝ち誇っていた。
指をほどいて、シュレーはどこか上機嫌に、厨房に向かおうとした。
イルスはなにか釈然としなかった。
「待て。もう一回、こんどは左でやってみたい」
二度は試さないと自分が宣言していた手前、イルスは恥ずかしかったが、どうしても納得がいかない。
シュレーはこちらを振り向いて、いつになくにやりと笑った。
「いいよ、それで君の気が済むなら」
挑戦に応じたシュレーの左手は、乾いたままだった。
指の長い白い手は、イルスのより僅かに大きかったが、それでも瞬殺されるほど強いとはどうしても思えない。
不思議なのか、スィグルも今度は文句を言わず、卓上で握り合わされたふたりの手を、じっと見下ろしている。
シェルがまた数えた。
シュレーはなぜか、一拍待った。無抵抗の彼の手は、はじめ難なく傾いたが、すぐに石のように重くなった。驚いて、イルスは向き合ったシュレーの顔に目を向けた。
目を伏せて、シュレーが腕に力をこめるのが分かった。渾身の力で押し戻そうとしても、イルスの左手は、ゆっくりと食卓に押さえ込まれた。
「……なんでだ」
思わず、イルスはうめいた。
「私のほうが強いからだろう」
そう答えるシュレーの額には、かすかに汗が浮いている。軽いものだった訳ではないことに、イルスは少し安堵したが、それでも納得がいかない。
「お前、なにかしたんだろ」
「なにかって、なんだ。普通にやっただけだ。君の筋力は、瞬発力はあるが、持久力は私より劣っているんだ。種族的な素養の違いだ」
いつものしたり顔で、シュレーが解説した。こういう話をするときのこいつは、ものすごく嬉しそうだ。イルスはシュレーのその嬉しさをひた隠した無表情と、そうやって語られた話の内容に、腹を立てた。
「種族的な話に持って行くな」
「でもそうなんだ。君たちが鍔迫り合いを避けるのは、やったら負けるからだ。案外、非力だから」
「非力?」
シュレーが言った言葉を、イルスは繰り返した。
「それ、力が弱いって意味で言ってるのか」
「ほかになにか意味があったか」
薄い笑いで唇を開くシュレーに言われて、イルスは傷ついた。
腕力が弱いなんて言われたことは、今までの生涯で一度もなかった。年の割にはよく使うと誉められて育ってきた。それを鼻にかけたつもりはなかったが、たぶんずっと、他の者より腕が立つのは、自分にとって自信の源だったのだ。
「納得いかない」
「そうだろうな。それが敗北するということだ、イルス・フォルデス」
思い知ったか、という口調で、シュレーは話しをまとめようとした。
いつもお前に負かされている自分の気持ちがわかったかと、やつは言いたいのだろう。
もちろん、分かった。なぜシュレーが剣闘技室でやたらと粘るのかも。
「もう一回やろう」
「イルス、僕お腹空いたよ」
ぎょっとして、スィグルが口をはさんだ。
「水でも飲んでろ」
イルスは彼がうるさくなって、邪険にそう答えた。
「だめだもう正気の顔してない。猊下が余計なこと言うから」
スィグルがため息をついて非難すると、シュレーはふふんと笑った。
「何度やっても結果は同じだ」
「そんなはずない。やってみなきゃわかんねえだろ。お前だって練習試合では、たまには勝つんだから」
言い返してやると、シュレーは期待通り、かちんときた顔をした。侮辱に弱い山エルフを乗せるのなんか、容易いものだった。
「それでは君が納得できるまで、何度でも敗北を味わわせてやろう」
腕組みして、シュレーが挑戦を受けた。
「結局、どっちが強いんでしょうね!」
わくわくしたふうに、シェルが尋ねると、スィグルはがつんと食卓を叩いた。
「そんなのどうでもいいんだよ!」
スィグルの叫びに取り合う者はいなかった。
二勝三十六敗だった。
イルスは観念した。
シュレーの話は本当で、いくらやっても奴には勝てないのだ。
「俺ってこんなに弱かったんだ」
椅子でうなだれて、イルスは結論づけた。
空腹もあったが、流れた汗のせいでひどく喉が渇き、腕は疲れてぼろぼろだった。
「まあ控え目に言って、君なんか一捻りだよ」
シュレーが明らかな追い打ちとわかる事を言った。
「てめえも汗だくで、そんな涼しい顔するな」
濡れて痩せた金髪を、シュレーはいかにも一戦終えたという達成感もあらわに掻き上げた。
「大丈夫だ、イルス。君にも私より優れたところはある」
「そうか、それは良かったよ。お前よりなにが優れてるか教えてくれ」
この機にいたぶろうという腹が見え見えのシュレーの上から目線に、イルスは卑屈に応えた。
「それはな」
食卓に珍しく頬杖をつき、シュレーはじっと、うなだれるイルスの顔をのぞき込んできた。
「スフレ・オムレツ」
ゆっくりと教えるシュレーの声を、イルスはあんぐりとしながら聞いた。
「作ってきてくれ。私は腹がへった」
汗だくの天使はそう命じて、椅子にふんぞり返った。
勝ったとなると、どこまでも尊大なやつだった。
イルスは敗北感を背負って立ち上がった。厨房へ行くために。
END
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