第326話  フラグ



 暗闇の中突如響いた悲鳴に、九郎は弾かれたように走り出していた。

 命の呼び声に対して、九郎はいつでも考えるよりも先に体が動く。

 とっさの危機に体が無意識に反応するのと同じように、自らの命に意識を割かなくなったが故に。

 夜間になれば冷え込むはずの乾いた空気は熱を帯び、炎が悍ましい悲鳴と共に踊り始めていた。


「くそっ!? 何が起きやがった!?」


 駆ける九郎の口から、無意識に焦りの言葉が吐いて出る。

 悲鳴を上げて逃げ惑う人々は確認できても、何に怯えているのかが分からなかった。

 結界の維持には文字通り心血を注いできた。

 手早く散らばった自らの臓物と視界を繋げていくが、動く『小鬼ゴブリン』の姿は見当たらない。

 否、結界の外に目を向ければ、それこそ嫌になるくらいに『小鬼ゴブリン』はいるのだが、それらはあいもかわらず誘蛾灯に飛び込む羽虫の如く、ぶら下げられた人々を前に、我を忘れて飛びかかり、踊る松明と化すばかり。


「どっかに穴が……って何が『風通しの良い職場です!』だ! ふざけてんじゃねえ!」


 散りばめた全てがまだ生きた状態の九郎自身。

 言わばこの場は九郎の体内。穴があれば直ぐに気が付く。

 苛立ちに声を荒げた九郎の脳裏にふと過ったのは、ガランガルンのにやけた面――が歪んだ瞬間。

 

 ――1番やべえのはやっぱ『赤帽子レッドキャップ』だろうな……。なんだ? 知らねえのか? なに、こう言えばおめえもヤバさが分かんだろう? 『小鬼ゴブリン』版ファルア――ブッ! ――


 5日前の、街の押し寄せる『小鬼ゴブリン』の大軍を眼下に見下ろし、逃げる準備を始めていた頃。

 取るに足らない相手――そう言いながらも、「事前に知識はあった方が良いだろう」と口火を切ったのは、顔に似合わず慎重派なファルアだったか。


 ――お、おう落ち着けリーダー! 『赤帽子レッドキャップ』が赤いのは鶏冠と爪だけだ……顔まで赤かあねえ……。と、とにかく、『赤帽子レッドキャップ』は『小鬼ゴブリン』種のなかじゃ、ピカイチにやべえ。狡猾で残虐。小狡いだけの『小鬼ゴブリン』とは悪辣さがダンチで……つまり……こいつのことだっ!? おい待て! 山刀マチェットはよしな! ガキが見てんぞ! グロイのはクロウだけで充分だろ!? ――


 母親の因子を必要としない『小鬼ゴブリン』。

 しかしそのような繁殖方法であっても、全てが同じな訳でも無い。


 ――儂は『岩小鬼スプリガン』が混ざっとりゃせんかが、心配じゃわい。見た目はそうさなぁ……。そこで蹲っちょるガラン坊みたいなふとっちょな『小鬼ゴブリン』じゃ。とにかくかとうての。肌も岩の様な色じゃから、闇に紛れられたら儂等でも見落とす事があるくらいじゃ。臆病な性格とは言われちょるが、そう言う所も似とるかも知れ……なんじゃ、その顔は? 言いたいことがあるんなら言うてみい――


 同一母体から生まれてくる虫であっても、戦闘力には開きがあるのと同じく。

小鬼ゴブリン』にも時折強者は生まれて来ることを、九郎は事前に聞かされていた。


 ――まあ、『赤帽子レッドキャップ』も『岩小鬼スプリガン』も、めったに見かける奴らじゃねえし……それに脅威度は相当つっても『災害級』って訳じゃねえしな。言ってみりゃバッタ以下だ。あとは……いるとしたら『田舎者ホブ・ゴブリン』くらいか? ――

 ――クロウ、おめえ『田舎者ホブ』も知らねえのか? 本当に学がねえなぁ……。つってもこいつはなあ……。名前の通りの田舎者、クロウみてえな『小鬼ゴブリン』……だっ!? ――


 ただ強者と言っても所詮は『小鬼ゴブリン』。

 ベテラン冒険者である彼等にとっては臆するものではなかったようで。


 ――ガラン坊! 儂の旦那様を、あげなただうすらデカいだけの能無しと一緒にするでないわぁぁ! ――


 彼等にしてみれば、「思わぬ所で足元を掬われないよう」くらいの軽い気持ちだったのだろう。

小鬼ゴブリン』の大軍を見て怯える子供達の緊張を解そうとしていたのかも知れない。


 ――いやいや、落ち着けオババ! 言っちゃなんだが、まんま『小鬼ゴブリン』版クロウだろ! デカくて鈍くて頭がわりぃってええええ! ――

 ――おい、シルヴィ。そのへんにしとけって。ガキども引いてんじゃねえか……っと。ま、聞いた通り『田舎者ホブ・ゴブリン』は余り気にしねえで良い。ガランが言った通り、力はあるが動きはトれえしゴブリンよりもおつむが空っぽ……自分より弱えゴブリンにまでいいように使われちまう、ただデカイだけの木偶の坊で……確かにまんまおめえぅぅっ……――


 口さが無いいつものやりとり。

小鬼ゴブリン』の大軍を前にして、少しも揺るがぬ仲間達。

 頼もしさだけが感じられ、不安を覚えることなど無かった一幕。


 しかし今は――



 ――嫌なフラグにしか思えない。


「どけぇぇぇえっ! 道を開けやがれ!」


 九郎の怒声で、悲鳴を上げて逃げ惑う人波がモーゼの奇跡の如く割れる。

「人々を刺激するべきではない」との自重の楔も、今の九郎からは吹き飛んでいる。

 恐怖も命があってこそ。物言わぬ目と怯えの視線。それなら九郎は迷わず後者を選ぶ。

 悲鳴は命の呼び声。

 危機に瀕した命が上げる、最後の足掻きだ。


「あれかっ!」


 割れた人波の奥。

 見つけた小さな影に、九郎は大地を蹴る足に力を込める。

 見つけたのは地面にへたり込んでいた小さな影。

小鬼ゴブリン』などでは決して無く、それどころか逃げ惑ってさえいない一人の少女。

 だが九郎の中での優先順位で一等高く聳え立つのは、命を置いて他は無い。

 動く『小鬼ゴブリン』は見つけられなくても、命の呼び声は聞き逃さない。

 悲鳴の理由解明よりも悲鳴の主の保護が先と、九郎は躊躇う事無く少女に駆けよる。


「空気も読めねえダサ男がモッシュピットにしゃしゃってくんじゃねえぇぇぇえっ!」


 少女は地面に尻餅をついたまま、地面を見つめて震えていた。

 シルヴィアが言っていた『岩小鬼スプリガン』か!? ――九郎は啖呵を切って両手を広げる。


「もう大丈夫だっ! 俺が来たからにゃ好きにさせね…………

 ……

 …………

 ………………………………え?」


 続いた台詞は締まらなかった。


「ひっ…………ひっ……」


 振り返って状況を確かめる様に少女の顔色を窺う九郎。

 青褪めた顔。引きつった頬。開いた瞳孔。

 強張った顔は、少女が感じた恐怖を如実に訴えかけてはいたが、命の輝き自体は失われていない。


 それに安堵し、九郎は再び少女が見詰める先へと視線を移す。

 ギギギと錆びた扉の様にゆっくりと、ぎこちなく。危機的状況下に於いては、ありえないほど緩慢な動きで。


「……いや……まあ……うん……。そりゃそうだわな」


 苦笑いとも照れ隠しとも取れそうな、歯切れの悪い台詞が九郎の口から零れていた。


 辺りに充満していた嗅ぎ慣れた鉄錆の匂い。

 普段の九郎であれば、顔色を青くして少女の身を案じただろう。

 炎の灯りに照らされ、時折てらてら光る肉の破片。

 いつもの九郎であれば、即座に体を炎に変えて、来たるべき戦闘に備えていただろう。

 しかしそれは血だまりが赤かった場合、破片が緑で無かった場合である。


 生臭さを湯気と共に立ち昇らせていた青い血だまり。

 目に優しく無い、垢だらけのくすんだ緑の皮膚の残骸。

 九郎の目に飛び込んで来たのは、少女が見詰める先にいたのは、ここ数日九郎は嫌と言う程目にして来た『小鬼ゴブリン』――の死体だった。


「俺みてえにとっ散らかっちまってまあ……」


 毎夜嫌になる程見て来たから、それ・・を異常と思わなかった。

 最早九郎の中では、背景の一部と化してしまっていた。

 千切れて飛び散った手足。破裂し四散した臓腑。砕けて無くなった頭部。

 見るも無残に砕けた死骸は、一言で表すならばグロ画像。

 少女が悲鳴を上げるには充分過ぎる理由が、少女の見詰める先で散らばっていた・・・・・・・


「…………なにも自分からトラウマ刻みこまねえでもいいべ。ほら、ちょっとレディーには刺激が強えから、もう少し内側に行ってきな。あ、R-15だから、ガキや年寄り連中にもそう言ってくんね?」


 死体が齎す衝撃と言うのは別格だ。

 5日もの間『動死体ゾンビ』もかくやの九郎の姿を目にしていても、否、だからこそ疑う余地のない『小鬼ゴブリン』の死体は、少女にリアルな『死』を思い描かせたのか。

 そもそもこの場は、毎夜B級スプラッタ映画さながらの雑な地獄絵図が繰り広げられている場所。

 悲鳴が上がって然るべき。逆に無ければそれこそ異常事態と言う物。

 なのに悲鳴一つで慌てふためき、一番右往左往しているのが当事者の片割れでは、笑い話にもなりはしない。


「ひっ……ひぁっ……ひゅぃっ……」


 照れ隠しに軽口を叩いてみるが、「お前が言うな!」との期待していたツッコミは、少女の口から返ってこない。


「まいったなぁ……。俺も手を貸すのはやぶさかじゃねえんだが……」


 ガシガシと乱暴に頭を掻き毟りながら、九郎は肩を落として途方に暮れる。

 いつもの九郎であれば、渾身の笑顔で少女を慰め、気障な台詞の一つも垂れ流していただろう。

 しかし今の九郎は彼女の悲鳴の元である、グロ死体と変わらない。

 少女に新たなトラウマを刻むことになるのは間違い無く――、


「いや、俺は構わねえよ? もう今更って気もしねえでもねえし……。でも……」


 それどころか別のトラウマまでをも刻みかねない。

 項垂れた九郎の視線の先で、襤褸が頼りなく揺れていた。

 コレが落ちれば、違った意味でもR-15。否、R-18にすら手が届く。


「……どうすんべ? ……おい、あんた! この子を向こうに……チッ! 何も振り向いただけで逃げなくても良いじゃねえか。つーか皆、何で俺の格好スルーしてたん? 家財だの土地だのよりよっぽど重要じゃんよ……」


 九郎は助けを求めて周囲を見やる。

 視線が熱波かなにかのように、人々は顔を背けて逃げていく。

 パーツが欠けた人体模型のような男が、視線を彷徨わせればそら怖かろう。

 自分の姿を自覚したばかりとあっては、呟く愚痴にも覇気がない。

 仕方が無い。クラヴィスかデンテでも呼んで彼女を運んでもらおう――九郎が思ったその時だった。


「デンテっ!!」


 人垣からクラヴィスの鋭い声が耳に届く。

 突如駆け出した自分の後を追って来たのだろうと、気色ばんだ顔で振り向く九郎。

 その眼前を「やあああ~」と間延びした雄叫びと共に黒い影が横切り――、


 グシャ


 何かが潰れるような、拉げたような、形容しがたい嫌な音が響き渡っていた。


「ご無事ですか!?」


 クラヴィスが張りつめた声で問うてくる。

 無事も何も、この体は傷付く事などありはしない――いつもの軽口は九郎の口から出て来なかった。


「でしゅか?」


 振り返ったデンテの顔が、見る見る黒く塗りつぶされていた。


「ガランの馬鹿野郎! ファルアもここまで非道じゃねえっ!」


 九郎の悪態が夜の空へと吸い込まれていた。

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