第257話  街を歩けば


 街燈が白い仄かな光をともし、道行く人々が家路に帰って行く。

 それと同時に、石畳に温もりを感じさせるオレンジ色の線が伸びる。

 街の商人達の呼び声に代わり聞こえて来るのは、仕事の終わりを労う熱気を帯びた喧騒。


「結局あまり収穫は得られなかった……と言う訳であるか?」

「すまねえ……おやっさん……」

「お、おやっ!?」


 カクランティウスの言葉に、九郎は項垂れながら返す。

 ノリで返した九郎の言葉に、カクランティウスが頬を引きつらせていた。

「まだ結婚はしておらぬだろう……」と小声で呟いている所を見るに、冗談が通じなかったようだと九郎は少し反省する。


 時間的には夕食の時間。

 お勤めご苦労さまです――でも無いが、九郎の帰還を祝う宴と称して、九郎達はアプサルの下町に繰り出していた。言い出したのはミスラだったが、彼女は彼女で「下町ぐるめ」にも興味があったようだ。

 九郎が囚われていて遠慮していたのもあった様で、九郎とカクランティウスの間に座ってにこやかに笑っている。

 カクランティウスも娘と飲む機会に、引きつっていた頬も直ぐに緩んでいた。


 まだ雪は残っていたが、人気のある店と言うのはいつ何時でも盛況のようで、人通りの少なくなった道にめいめいテーブルを出して客を捌いている。

 その一画を占領する形で、賑やかな食事が始まろうとしていた。


「お父様、酷いですわ! クロウ様は精一杯……そう、せい・・一杯頑張ってくださったのですのよ? 禊のお相手が男性ならきっと、もっとヤレたと仰るに違いあり――」

「それは違えよ!? おい、カクさん! 地味に席を遠ざけんの止めてくれ! けっこー傷付くんだよ!」


 ミスラのフォローにならないフォローに、九郎は大声を上げる。

 よく下町で飲み歩いていた問題児の王様はともかく、ついこの間まで城の外にすら殆んど出かけた事の無かったお姫様が、こんな下町の所謂「洒落ていないオープンカフェ」で食事を取るなど――と、咎めるお高く気取った人物はいない。

 父親が父親であったし、ミスラも以前の戦争回避の際に、こう言った感じの店で食事をしており、「これが外食の普通」だと思っているようだ。

 その他の面子は元奴隷の面々。食事に関して文句など出る筈も無く、逆に畏まった食事よりも喜んでいるようにも見える。


 春先の冷たい外のテーブルでも、その場に座っているのは、環境変化に強い魔族の面々と、『フロウフシ』。あまり気にした様子も見せず、店の中から喧騒と共に漂ってくる良い匂いに腹を鳴らしていた。


(やっぱ、飯ってのはこうでなくっちゃな!)


 九郎はその光景を眺め、にんまり笑みを浮かべる。

 アルム公国での晩餐会も良かったが、やはり気安い飲み屋の方が落ち着く。


「……てめえ喜んでねえか? そういうのはアルフォスかベーテで間に合わせてくれよ」

「弟可愛さに我々を売るのは止めてくれません? 大体目覚められたら困るのはリオでしょうに……」


 リオの鋭い突っ込みに、九郎は笑みを強張らせる。

 彼女のセリフに今度はアルフォスが頬を引くつかせていた。


「ばっ! リオ、俺の顔見りゃ違うってことくらいわかんだろーが!」


 浮かべた笑みを勘違いされ、九郎は不本意だとがなり立てる。


その顔・・・でか?」


 必死に自分を指さし、弱り顔を作る九郎にリオはジト目を向けていた。

 リオの言葉に九郎はハッと自分の頬を触る。その手に感じるのは絹のような滑らかな手触り。――絹である。


「陛下……。元々クロウに諜報活動なんざ無理なんですって。自分の事すら把握して無いんですから……」

「う、うむ……。確かに諜報には向いてない格好であるしな……」

「いや、カクさん! これは以前ずっとこの格好でいた事があったから――」


 ベーテとカクランティウスの会話に、九郎は慌てて割って入る。

 一応死体を残してきたとは言え、九郎はこの国ではお尋ね者だ。あまり似ていないとは言え手配書も回っている身で、大手を振って出歩ける身では無い。

 そこで九郎は以前の格好――ミラデルフィアで素顔を隠して活動していた頃と同じように、色とりどりの布を頭や顔に巻きつけていた。

 諜報には向いていない――確かにカクランティウスが言うように、九郎の格好はハデハデしい。しかし何も目立ちたいからこの様な格好を選んでいる訳では無いと、九郎は訴える。

 顔を隠していても、シルヴィア達なら気付いてくれる。この派手な格好は、自分の二つ名――『孔雀』を表す符号のようなものなのだと。


「確かに知ってる人だったら、一目で分かるでしょうね、クロウさん!」

「おう! ……てか皆して名前呼んでりゃ意味無くね? 偽名も考えなきゃなぁ」


 フォルテの頭に手を置きながら、九郎は考え込む。

 しかし名前が知られている訳では無かった事を思い出し、安堵と共に腰を落ち着ける。


「それで? 俺は不甲斐無い結果に終わっちまってたけど、そちらの諜報活動がお得意なお方たちはどうだったんですかねぇ?」


 流れで九郎は、言いたい放題言っていた悪友達に水を向ける。

 何となく悔し紛れ感が隠しきれていない。

 心のどこかで「まだ2日。有益な情報など得られる筈も無い」との期待があるのは、彼等を同類に思っているからこそだろう。


「王子が臥せっているって割には、政治経済は盤石な感じだな。2年前の疫病で減った労働力を『魔動人形ゴーレム』で賄っているそうだぜ」

「大きな反乱も起きてはいないようですし……。あ、ですが『魔動人形ゴーレム』が殆んどの単純労働をこなすようになっているからか、職業に就いていない者も多くいるそうです。そう言った者達には配給が成されているようですが、働かなくても食べていけるなんて信じられません」

「孤児や浮浪者は一定数いるようだが、誰も彼もが太ってて暢気そうにしてるな。酔っぱらってる奴すらいたぜ? 家が無いだけで、飢えちゃいねえようだった。ありゃ、過去の俺達よりも良いモン食ってるんじゃね?」


 ところが返ってきた悪友たちの言葉に、九郎は「ぐぬぬ」と口を噤む。

 九郎の前では軽口の応酬しかしてこない二人だが、いたって優秀だったことを思い知らされた気分だ。

 どこから情報を引き出して来たのかは問うまでも無い。

 その美貌を使って彼等が有益な情報を引き出していたのは、過去の事例からも明らかだ。

 女性とのそう言う行為・・・・・・に尻込みして逃げ出して来た九郎は、二の句も告げない。


「でも……教会同士は結構権力争いが激しいようでしたわ。国教を担う聖輪教会が発言力を落としており、その代わり聖涙教会と神鉱教会が台頭してきたとの事ですの」


 ただ、アルフォス達の優秀さの裏にはミスラがいたからだろうと、九郎は自分を慰める。

 情報を握ることで国王不在のアルムを守りきり、周辺諸国を翻弄して来た立役者の一人。ミスラが『エツランシャ』の能力で情報の出元を探り、アルフォス達はその確認だっただけだと。


「クロウ様もそんなに落ち込まないでくださいまし。わたくしが教会を調べようと思った切っ掛けは、クロウ様の一件があってこそですわ」


 しかし思っていても、肯定されると立場が無くなる。ミスラの慰めの言葉を掛けられ、落ち込んでしまう九郎だった。


「お待ち! 見かけない顔だねぇ? 旅人かい? あんれまぁ、これまた美形ばかりで……。楽団か何かの興業かい?」


 九郎が苦虫を噛み潰した表情を浮かべたその時、背中から威勢の良い声がかかる。

 両手に料理を持った太めの中年女性が、テーブルに座った面々を見渡し目を瞠っていた。


「いえ、私どもは楽団では無く商売でこの地を訪れて来たのですよ。奥方様」

「ばかっ! アルフォス。どう見てもお嬢さんだろ? すみませんね、こいつ目が悪いもんで。で、お嬢さん。俺らは言った通り商人の付き人なんだが、これだけ繁盛してるお店の看板娘さんなら、結構色々噂話聞いてない? 何でも良いんで聞かせて貰えると嬉しいんだけど」


 アルフォスがすかさず立ち上がり、イケメンスマイルで料理を恭しく受け取り、ベーテがそれに割り込む。歯の浮くようなおべんちゃらだが、効果は抜群だった。

 九郎は先程感じた悔し紛れの感情さえ忘れて、悪友たちの優秀さに舌を巻く。

 アルム公国までの旅すがら、滞在先の女性達を尽く虜にしていたイケメン集団の威力は凄まじい。

 彫刻のような美形二人に囲まれて、中年女性は年甲斐も無く顔を赤く染めて、わたわたしている。


「あら~、やだこの子達ったら~。こんなおばちゃん捕まえて~。噂話ったって大したものがあるとは思えないけど――」


 そう言いながらも女性の口は、油を塗ったように滑らかに語り出していた。

 通常こう言った情報のやり取りには金銭が絡むものだが、彼等に掛かれば口先だけでお釣りが来るらしい。


(俺は今顔隠してっから! からっ……)


 これだけイケメン、美少女が揃っているとまたとない目の保養になるだろう。中年女性の目は仲間の間をいったりきたりと忙しそうだ。

 一人一瞥いちべつされただけで、その後に目も向けてくれない女性を見上げ、九郎はそっと目元を拭った。



☠ ☠ ☠



「お前等、口で食べて行けるんじゃね?」

「は? 口で食べなければ何処で食べると言うのです?」

「クロウ様はこう仰りたいのですわ。『俺は下からでも咥え――」

「おい、カクさん! 娘が酔っぱらってんぞ!」

「むぐぅ! 酔ってなんかおりませんわ!」 


 テーブルに所狭しと並べられた料理の数々。

 その3分の1は、アルフォスとベーテが店の女将をおだてて得られたサービスだった。

 九郎の感嘆の言葉にリオとフォルテが同時に頷き、ミスラの毎度の妄想が炸裂する。

 その様子をカクランティウスが苦笑しながら眺め、赤らんだ顔で杯を煽る。

 夜の街の冷たさもどこ吹く風。賑やかな団欒は寒さを吹き飛ばす熱を帯びていた。


「しかし、本当に平和な街ですね」

「物盗りの類も全然見かけねえし、視線も感じねえもんな」


 リオとフォルテが感慨深そうに顔を見合わせている。

 他者の敵意に敏感なこの姉弟、特にリオは常に周囲を伺う癖がある。その彼女がこれ程、くつろいだ雰囲気を出すのは珍しい。


「そう言えば、王都には奴隷商が見当たらないとボナクが言っておったな。この国は奴隷制度を敷いておるから、奴隷がいない訳では無いようだが、この王都に限って言えば、奴隷の身分の者は少ないようだと……」


 カクランティウスが陶製のジョッキを片手に、思い出したように口を開く。

 その言葉に九郎はぼんやり夜の街を眺める。


 九郎はこの街に入った直後に捕えられ、あまり良い印象を持っていなかったが、仲間達からしてみれば、アプサルは信じられない程平和な街だと感じたようだ。


「下水施設ってのには驚いたぜ。便所が匂わねえのはすげえよな?」

「ベーテ。食事中です。それに一長一短ですよ。我々の武器は火薬が――硝石が無ければ成り立たないのですから」


 同時に、アプサルはかなり進んだ都市のようだった。

 街で労働に勤しむ多くの『魔動人形ゴーレム』。それはロボットが働いているのと同じ様なものだろう。もしかしたら地球よりも進んだ形と言えるかも知れない。

 そして、先程の中年女性も自慢げに語っていたが、この王都の地下には下水道が通っており、街は清潔を保たれていた。この店に来る前、時折見かけた地面に置かれた丸い蓋は、感じた通りのマンホールだったと知らされ、九郎も驚いている。

 とは言え、雄一と言う『来訪者』も擁していた国なのだから、その辺が進んでいても不思議はない。


「この国に新しい『来訪者』ってのがいたりしねえのか?」


 ただ常に自分本位だった雄一が広めたとは、どうしても考えにくい。

 感じた疑問が直ぐに口から飛び出る九郎は、率直にミスラに問いかける。


「その点はアルムにとっても重要な事なので、特に念入りに調べたのですが……。クロウ様が仰っていたユーワン・ホーク・ナッシン以降、この国に『来訪者』の記述はございません。ただ――」


 九郎の質問にミスラは声のトーンを落として、耳に口を寄せてくる。

 何か重要な情報なのだろうかと、九郎は固唾を飲んで身構える。頬を仄かに赤くしたミスラの、甘い吐息に狼狽えた部分が無い訳でも無い。


「この世界に限って言えば、クロウ様とリュージの間に一人『来訪者』がこの世界に招かれているようですの。クロウ様の助力のおかげで、わたくしの『神の力ギフト』に制限が無くなり、神の記述さえ閲覧出来るようになったからこそ知れた情報なのですが……。

 クロウ様は72番目の『来訪者』。リュージは74番目の『来訪者』。その間にイソロク・カツラと言う者がこの世界に降り立っていたようなのです」


 ところがミスラの言葉は九郎が思っていた以上に、重要な情報だった。

 九郎が驚き顔で目を剥く。

 何故それを今まで言ってくれなかったのか。九郎の表情にミスラは察したのか、申し訳なさそうに眉を下げながら、


「ですが、先の通りイソロクの記述はこの世界にはございません。『来訪者』の情報は各国がこぞって求めるもの。この世界にもいなくはないですが、黒髪、黒目ともなれば一度は噂に登るはず……。その記述が一切無いので、以前クロウ様が仰っられたように、転移時に不慮の事故で命を落としたのでは? と……。申し訳ございません。クロウ様にも相談すべき事でしたわ」


 言葉を続けて頭を下げた。


「いや、謝んなくても良いって! そりゃ、仕方ねえわ……」


 九郎も色々察して、微妙な顔を浮かべながら手を翻す。

 経験があるからこそ分かる、この世界の転移直後の危険度合。

 上空から地面に叩きつけられた九郎も、『フロウフシ』で無ければ、誰の噂に登ることなく終わりを迎えていただろう。

 ミスラの母、扇 三葉も王族の寝所に転移していた。相手がカクランティウスでなければ、その場で切り捨てられた可能性も十二分にあった筈だ。


 転移直後の理不尽な状況。右も左も分からず、『|神のギフト』の確認も儘ならないまま、この危険な世界に降り立てば、大概の者は混乱し狼狽える。そのまま命を落とす可能性もかなり高い。

 特に九郎のように、転移直後がデストラップだったりしたら目も当てられない。


 転移の場所はランダム――ソリストネが言っていた言葉を思い出して九郎は渋面する。

 上空でなくても、火山口だったり、海のど真ん中だったり、見渡す限り何も無い雪原だったりする事もありえるのだ。


 ミスラの力を以ってしても、『来訪者』――桂 五十六に関する情報は全く見つけられなかった。

 それはすなわち、何らかの事故で命を落としたと見るのが自然な事なのだろう。


(来訪者って聞くと直ぐ敵を思い浮かべちまうのが、そもそもアレなんだよなぁ……)


 これまで出会った『来訪者』達とは、殆んど敵対関係から始まっていたので、無理からぬ事だと自分でも思うが、それでも九郎は落ち込んでしまう。

 同郷意識が強く、異界の地に移住してきた者同士仲良くやれればと思っているが、そうは問屋が卸してくれない。それに神の使いと呼ばれるほどの力を持ってしまった者達。調子にも乗るだろうし、権力に取り込まれる事で、立場やしがらみも出来てくる。


 アクゼリートの世界に招かれた者達は、望む望まないに関わらず、敵対する運命にあるのだろうか。

 知り合いも誰もいない異世界。不安の中で得た人脈を信用するのは自然の事だ。

 龍二のように、敵対していてもその後に仲間になる者の方が珍しいのかも知れない。


(別に俺に襲い掛かってくるだけだったら、この溢れ出る包容力でなんとかしてえんだけどなぁ……)


 殴られるのももう慣れたものだ――九郎は自嘲の笑みを溢す。

 そんな感想を思い浮かべられるのも、自分が不死だからこそ。本当に卑怯チートな能力を授かったからこその余裕でしか無く、他の者達に求めるのは酷だろう。

 九郎も、自分自身に向けられる敵意には悪意すら感じなくなっているが、仲間に向けられた敵意には怒りに我を忘れてしまう事も多い。

 勝手なものだと苦笑を浮かべた九郎は、この世界の誰にも知られる事無く散っていった同郷に黙祷を捧げる。


「そう言えば、その桂 五十六って奴の『神の力ギフト』って何だったんだ?」


 暫く黙りこんでいた九郎は、勤めて明るく顔を上げる。

 同郷意識が強いとは言え、見知らぬ男の死で折角彼女達が開いてくれた宴をしんみりさせるのも忍びない。場の空気を戻そうとした九郎の問いに、ミスラは一瞬で目を輝かせて口を開く。


「イソロクの『神の力ギフト』は『ソウゾウシャ』とありましたの!」

「生産チート能力って事か……。それ聞くと『実は生きていて、この王都を改良してました!』ってのも納得出来んだけどな? で、ミスラはなんでそんな嬉しそうなんだ?」

「え? 『ソウゾウ』とは想い描いた物を具現化する能力では無いのでしょうか? わたくしがもしその能力を得ていれば……うふふふふふふ」


 ミスラの弾んだ声に九郎が困惑すると、彼女はくねくねしながら頬を染めていた。

 どうやら神の記述の文章は、日本語をローマ字読みにした形で記されているようだ。

 『創造』と『想像』。確かにどちらにも取れる。


「姫様はどんな恐ろしい世界を望んでおられるのやら……」


 盗み聞きしていたのか、アルフォスがげんなりとした顔で呟き、九郎が真顔で同意を示した。



☠ ☠ ☠



「そろそろ締めるとするか?」


 夜の帳もかなり過ぎ、雲間の月も真上に登ろうとしている頃。

 カクランティウスが赤らんだ顔で皆を見渡す。

 この辺の酒場はかなり朝方近くまでやっているようだが、別に夜通し飲む予定で来ている訳でも無い。

 くちくなった腹を撫で、フォルテもミスラも少し眠そうだ。


「ほれ、ミスラ~。吾輩が負ぶって帰ってやるぞ~」

「陛下っ! 陛下もふらついております!」

「お父様~。お父様はクロウ様に負ぶわれれば良いのです~。そして後ろからズブリと~」

「姫様っ!? それは俺の銃です! アホのケツに突き立てようとしないでください!」


 無礼講だったとは言え、酔っぱらってしまったのは王族二人と、何だか扱いに困る状況になっていた。

 フォルテはまだ成人前と言う事で酒は止めていたし、アルフォスとベーテは嗜む程度に控えていた。

 リオは酒を飲んだ事が無く、「酒に酔うと言う感覚が怖い」と怖気付いていた。


「別にベーテの豆鉄砲くらいならどーってことねーぜ? ぬははははっ!」


 ただ、九郎は少し酔っていた。

『フロウフシ』になった弊害で、酒に酔えなくなったとずっと思っていたが、病気にならない体を無理やり病気にしたように、体の耐性を意識して弱めれば、酔う事は可能だった。

 当然気を緩めれば、『フロウフシ』が体の中のアルコールを毒として削り取ってしまうので、泥酔する事は不可能だ。それでもフワフワとした酩酊感を感じるくらいは出来る。


 九郎は危ないフラグに気付かないまま、夜空を見上げて高笑いを上げる。

 久しぶりに感じる酔いの感覚に、春先の冷たい風が心地よい。


「てめえ、しょうこりもなく顔出すんじゃねえ! 腹が減ってんだったら教会に行けや!」


 とその時、裏路地の一画から怒声が響く。九郎が目を向けると、薄汚れた小さな塊が石畳の上に蹴り出されていた。


「あ゛あ゛ん?」


 九郎の口から、思った以上に剣呑な声が漏れる。

 気持ちよく酔いを楽しんでいたところに、水を差された気分だ。

 九郎の頭にいつか見た景色が過っていた。


「聾唖の糞ガキに食わす飯なんざねえっ! とっとと失せやがれっ!」

「ガァ……グゥ……」


 路地裏の店の扉の前で、逆光でも分かるくらい男が怒気を放っている。

 その前に襤褸ボロを纏った子供が蹲っている。


「おい、アルフォス……。言ってたことと違うじゃねえか……」

「…………。喉を潰されてますね……」


 九郎の問いに答えず、アルフォスが眉に深い皺を刻んで呟く。


「ってことは逃亡奴隷か何かか?」

「……ちっ!」


 ベーテとリオも同じように眉を顰めていた。

 奴隷としての生活が長かったからこそ分かる事もあるのだろう。

 彼等のセリフは、あの子供の声が先天的な要因からのものでは無い事を示していた。


「二度とくんじゃねえぞ!」


 拳を振り上げ威嚇してから、男は扉を乱暴に閉める。

 九郎はテーブルに残っていた食事を急いでかき集めて、立ち上がる。


「施しですか? ですがあの男の言う通り、この街では配給が――」


 背中に聞こえるアルフォスの声を無視して、九郎はゆっくり子供に歩み寄る。


 ――その場凌ぎで餌を与えたところで――


 九郎の頭の中では、昔聞いた無情な声が木霊していた。


 アクゼリートは弱者にとって厳しい世界。

 そんな事は、この世界に来てもう5年を迎えようとしている九郎も、十分に思い知らされている。

 九郎も、目の前で困っている人を全て助けられるなどと自惚れている訳でも無い。


 しかし、目の前の光景を放っておける九郎では無い。

 子供が困っていれば、手を差し伸べるのが大人の義務。それは九郎の中で変わることの無い信念のようなものだ。


 配給もあるようだが、全てに行き渡っている訳でも無いのだろう。

 配給が限られているのであれば、力の無い者は弾かれる。目の前で蹲っている子供のように、言葉もしゃべれなければ慈悲を乞う事すら出来ない者に待っているのは、無慈悲な死――。


 その後を考えれば無駄な事――そんな冷たい葛藤を溶かしてくれた、赤髪の少女の微笑みが九郎の頭を過る。

 あの頃と自分は違う。

 もう右も左も分からず、手を差し伸べる事を戸惑う根無し草では無い。

 アルム公国は人民を求めているから、ルキフグテスに頼めば快く受け入れてくれるだろう。

 それが認められなくても、今の九郎には頼もしい妹分がいる。


(結局まだまだ誰かに頼らなきゃなんねえ身だが……)


 苦笑しつつ務めて優しい声色で、


「おい、腹減ってるんだろ? 俺ら頼みすぎたからよ、良かったら食って――――」


 食べ物を掲げて子供に声を掛けたその瞬間、九郎の視界がぐらりと揺らいだ。

 わなわなと自分の唇が震えているのも分からない。久方ぶりの酔いなど、一瞬にして冷めていた。


 頭を鈍器で殴られたような感覚。

 目の前がぐらぐら揺れる。

 金縛りにあったように手足が動かない。

 口の中が乾いて呼吸もままならない。

 頭が熱に浮かされたようにぼうっとしていて、なのに体は酷く冷たく感じる。


「……グゥオ? ……グオ…………?」


 しゃがれた声が一言何かを発する度に、九郎の心に深い傷を刻んでいた。


 汚れで真っ黒な顔。目にしみるような惨い匂い。

 子供は九郎の掲げた食事には目もくれず、大きな瞳をさらに大きく開いて震えていた。


 深い翠の双眸からは、大粒の涙がはらはら零れ落ち、纏った襤褸ボロの隙間からは汚れた赤い髪が覗いていた。


 九郎の手から皿が落ちる。

 ガシャンと音を立てたのと同時に、子供は九郎の胸に飛び込んでくる。

 呆気なく九郎は後ろに倒れる。

 足に力が入らず、それどころか立っている事すら出来なかった。


「グォ……? グゥ……? ゥグ……ガァ……」


 薄汚れた子供――少女は九郎の胸に縋り、涙で濡れた九郎の頬に触れる。

 布越しの顔を確かめるかのように撫で、頬を寄せて嗚咽を漏らす。

 九郎は震える手で少女を抱きしめ、呆然と呟く。



「――――――ベル」

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