第206話 死期
冷静に冷酷に平静に――。努めて平静を装いながらもアルフォスの心臓は早鐘のように胸を打ち鳴らしていた。見下ろす先には焦げ茶色の髪と
『不死の魔王』『紫雲の魔王』『災害級魔族』…………――
数々の異名をケテルリア大陸中に振り撒いた伝説級の人物、カクランティウス・レギウス・ペテルセンの姿に冷静なアルフォスと言えども内心動揺しない訳が無い。数人で一国を滅ぼしただの、万の軍勢をただ一人で蹂躙しただの、彼の噂は数知れない。同時に魔族のアルフォスやベーテにとって、カクランティウスと言う名は『英雄』に等しい。
――最初はただの騙りだと思ったが、まさか本物とは――人質を取り、手の届かない上空から見下ろしていると言うのに全く有利に立っている気がしない。
一瞬でも瞬きしようものなら即座に首が落とされる。大げさでも無くそう確信できる程の実力の差がある事はアルフォスも理解出来ていた。それでも引かなかったのは、アルフォスもアルフォスなりに事情があったからだ。
アルフォスはチェリオの行動を訝しんではいたが、シオリに反意を持っている事まで掴んでいた訳では無かった。動きも様子も普段と変わる事は無く――十分に『シンエイタイ』の職務を全うしているチェリオ監視していた訳では無く、アルフォスは実は九郎を監視していた。それはシオリの命令では無く、彼個人の思惑からだった。
自身の現状すら把握しきれていない屋敷の奴隷達と違って、アルフォスもベーテも
そんな恐怖の中にあって、九郎の存在は特異過ぎていた。
何度か外へ出向いていたチェリオがまだ罹患していない理由は、100歩譲って栄養状態や日頃の環境と言う点で納得できるかもしれない。それにチェリオはシオリの『シンエイタイ』だ。『勇者の加護』は他の奴隷達よりも強い。他と隔絶された環境下にある畜産場で働いているリオも、罹患していない理由としては全うだ。リオは見るからに魔族の血が入っていそうなので、抵抗力の面でアルフォスやベーテ同様
しかし九郎はただの人族の筈だ。チェリオのように体つきに恵まれている訳でも無く、鍛えているようには見えない。そしてなにより彼は奴隷の埋葬に従事していた。病に犯された奴隷の死体を毎日処理していた。
なのに全く罹患していない。それどころか病を恐れる素振りすら見せていない。
何か理由があるのではとアルフォスが訝しんだのも当然の事だった。
死にたくない――生きる者全てが等しく持つ感情故にアルフォスは死の縁に飛び込んでいた。
「薬師様。この筒は一瞬であなたの命を奪う武器でございます」
さも人の命を軽く見ているかのようにアルフォスは警告する。
アルフォスもアルトリアを害するつもりはこれぽっちも持っていない。なにせ彼女はアルフォスの縋る相手。ただ、アルフォスに助けて欲しいと願い出るような普通の手が思いつけなかっただけに過ぎない。
アルフォスは決して馬鹿では無かった。しかし長年見て来た世界が悪かった。
――強い者が奪い弱い者が奪われる――
この街では常識であり世の理の中でも不変の事実。それがアルフォスの行動を狂わせていた。
奪う事でしかその手に物を持つ事が出来ない。そんな殺伐とした環境が、彼の行動を凶行へと追い込んでいた。
――時間が無い――アルフォスは動きの鈍い関節を無理やり動かし、唇を噛む。
通常ならシオリに薬師を引き合わせれば、程なくしてアルフォスも恩恵を与る事が出来ただろう。アルフォスはシオリにとっての右腕であり、長年仕えてきた一番の『シンエイタイ』だ。その寵愛も、恩恵もシオリの次に享受出来る。その一時すら待てない程、アルフォスは切羽詰まっていた。
脳裏にチラつくのはシオリが部屋に引き籠るほど病を恐れていると言う事。罹患してしまった自分を、果たしてシオリは救ってくれるのか。賢く、また考える力があるからこそ、アルフォスはその後の未来を予想できてしまう。
病を恐れ部屋に閉じこもっている時点で、シオリは奴隷達を見捨てている。もう自分達に『勇者の加護』は降り注いではいないのだと、アルフォスは感付いてしまっていた。
例え相手が『魔王』であっても引く事が出来ない。遠からず死ぬのであれば、最後の希望に賭けるしかない。残っていた知略もなにかもをかなぐり捨て、最後に残ったのは死を恐れる本能だった。
「大人しく我々に従って貰えなければ、その体に穴が開く事になりますよ?」
「へ~……」
そしてアルフォスの焦りを生むもう一つの不安材料。人質に取った筈の少女の醸し出す雰囲気が心に不安の靄を掛けてくる。
死は誰であっても恐怖の対象だ。カクランティウスのように『不死』と称されるほど強靭な魔族でも無い限り、自分の死は何より恐ろしいものの筈だ。なのに眼下の少女はさも他人事のように命を惜しむ素振りを見せていない。
――威嚇に一発撃つべきか――。
銃を知らない者にとって恐怖を煽る事は難しい。知らない者から見れば銃はただの棒に映る。
手足の何処かに打ち込めば、彼女も痛みと共に恐怖を覚えるだろうが……。
アルフォスは刹那の間逡巡し、その考えを振り払う。目の前に相対しているのは中原にすら噂が聞えた『魔王』だ。僅かな隙を見せればたちどころに首を落とされてしまう。彼は銃を知っている。ならばその構造も、一度打てば次の弾を込める時間が必要な事も知っている可能性が高い。
それに厄介な事に一番の脅威であるカクランティウスに銃が効かない。ベーテが初撃で頭を打ちぬいたと言うのに、その傷はもう塞がっている。『不死の魔王』の噂に違わぬその力を見せつけられて、アルフォスは動く事すら出来ないでいた。
追い詰めた形を取っていたが、追い詰められているのは自分達の方だとアルフォスも薄々感じ始めていた。
「ボクに……穴……」
見下ろす少女が両手を頬に添えて呟いていた。
恐怖に追い詰められている表情などでは無い。何か照れている様な、恥ずかしがっている様な――。
瞬間アルフォスの視界が暗転した。
☠ ☠ ☠
漂い出した弛緩した空気を引き締めようと九郎は眉間に力を込める。
アルフォスやベーテが魔族であった事や、銃と言う武器を持っていた事には驚いていたが、そこから先、彼らが取った行動が徐々に緊張を溶かし始めていた。
冷徹な目でカクランティウスを見据えながら、アルトリアに銃口を突き付けるアルフォスの存在がその場を喜劇に変えていた。それを助長するのはアルトリアの反応で、他人事のように銃を見上げて浮かべるその表情は、人質にされた人間のする顔では無い。
人質に取られてしまったアルトリアだが、彼女は『
銃の弾くらいの大きさであれば、彼女はなんの痛痒も感じないだろう。
なのに九郎が動きを止めた理由は、女性が傷つくのを良しとしない感情からだ。
カクランティウスも同じ心境のようで、困ったことになったと言わんばかりに眉を下げている。
残る事も無い傷を心配している二人はとても紳士だった。
(――さてどうすっかね……)
彼女の命は少しも脅かされてはいないが、どうしようかと九郎がもう一度アルフォスの様子を伺おうと空を見上げたその時、喜劇と化した戦闘は余りにもあんまりな形で幕を降ろしていた。
「穴……」
アルトリアの小さな呟きが聞えた瞬間、蚊取り線香に巻かれた蚊トンボのようにアルフォスがポトリと地面に落下していた。
同時に感じるのはアルトリアに預けた欠片から吸い取られるようないつもの感覚。
思わず顔を上げるとアルトリアと視線がぶつかる。
「ち、違うよ?」
「アルトッ!? お前は辞書で興奮する中学生かっ!」
声を大にして突っ込み台詞を叫ぶ九郎。アルトリアは慌てて首をぶんぶん振っているが、九郎から吸い出された命が証拠だ。
アルトリアは発情すると際限なく生命力を吸い取り始める。殆んどが九郎の欠片から奪って行くが、今回は自重していたのもあって、その力は周囲へも手を伸ばしたのだろう。いきなり発情しだしたアルトリアの『
後ろでカクランティウスが大地を蹴った音がした。
「――『黄金の扉』ベファイトスの眷属にして万物の礎となる重き
一瞬の間をおいて何かが落下した音がする。
隙を付いてカクランティウスがベーテを無力化したのだろう。アルトリアから逃げ出した訳では無いと思いたい。
「ア~ル~ト~?」
一瞬にして瓦解した緊張感など欠片も無かった戦場だが、この結末は流石にアルフォス達が憐れに思える。カクランティウスとアルトリアと言う二人の強大な力を持つ『不死者』に敵対した時点で、彼らの結末は決まっていたとは言え、脅迫の言葉で欲情したアルトリアのとばっちりを受けた形のアルフォスには、同情を禁じ得ない。
なんだかアルフォスには申し訳なさのような気持ちが湧いて来て、九郎はアルトリアに嗜めるような視線を送る。
責められる謂れは無いだろうし、銃を向けて来た以上アルフォスも自業自得なのだろうが……。
「ち、違うよ? ちょっとだけ『クロウはいつボクに穴を開けてくれるんだろう』って思っちゃっただけだもん!」
「充分発情してんじゃねえかっ! 時と場所を選べっつーの!」
九郎は早口でまくし立てて全身で抗議してくるアルトリアに、赤面しつつ軽い手刀を落とす。
アルトリアに銃を向けていたのだからアルフォスが彼女の『
「あいたっ!? でもっ! 外に広がるほどじゃ無いもん! ボクまだ濡れて無いっ!」
軽い手刀に大げさなリアクションをしつつ、アルトリアは大声をあげる。
「赤裸々に暴露してんじゃねえっ! アルフォスを見て見ろ! 泡吹いて『
まだ言うのか? こちとら吸われる感覚があったのに――九郎はアルトリアを押しのけアルフォスの様子を見ようとして――言葉を止めて顔を曇らせた。
「罹患……していたのか……」
「こちらも同じようだな」
いつの間にかチェリオも警戒を解き近付いて来ていた。
その後ろから、気絶したベーテを担いだカクランティウスが戻って来ていた。興を削がれたからか、ベーテもまだ死んではいない様子だ。
「焦って先走った結果か……。らしくねえぜ……アルフォス……」
九郎の背中越しにアルフォスの様子を伺い、彼らの首元に広がる緑の斑点に、チェリオの顔は複雑な思いを表すかのように歪に顰められていた。
「奴隷が強者の振りをしたって、滑稽なだけさ。俺たちは弱いから奴隷なんだって、忘れてたのか?」
チェリオの言葉は自分自身に向けての自嘲の言葉に聞こえた気がした。
☠ ☠ ☠
しんと静まり返った屋敷内。
灯火すら灯されていない暗い屋敷に戻った九郎達は、そこに広がる異様な光景に言葉を失っていた。
その目の前に広がるのは苔むしたような死体。死体。死体。
「たった一日でここまで……何があった……?」
沈黙を恐れるように紡がれたチェリオの呟きも、誰も答える事無く闇に消えていく。
多くの者が病に倒れていたとは言え、今朝屋敷を出た時にはまだ動ける奴隷達も沢山いた。
なのにたった一日目を離した間に何があったのか。九郎もチェリオの呟きと同じ思いで辺りを伺う。
視界を屋敷中にばら撒いた欠片に移していくが、どの視界でも動く者は見つけられない。
見つけられるのは月明かりの下、横たわった緑の奴隷達の躯ばかり。
「フォルテっ!?」
リオの悲鳴のような叫びに引き戻され、九郎はハッと顔をあげる。屋敷の中が一日で全滅している事も気になるが、先にフォルテやラムスの無事の確認が第一だ。
堪らず駆け出すリオの後を追いながら、九郎は先んじて視界を畜産場へと繋げる。
「!!?」
広がる視界に目を疑った。
「止まれっ! リオっ!!」
九郎は叫ぶ。何かが可笑しいと全身が訴えていた。
見えたものが何なのか、見たと言うのに理解が追いつかない。
しかしリオが九郎の言葉で止まる筈がない。リオにとってフォルテは何より大事な存在だ。
その安否が不明な時点で、彼女の耳に危険の知らせは届く筈もない。
バタンと重い音が暗闇に響く。
病の風さえ遮って来た厚い扉が開け放たれた。
「!?」
瞬間リオは口元を押さえる。肉が腐敗した匂いと、それとは違う
「あら? 戻ったの? 今日は戻ってこないと思っていたわ」
ラムスがいつも通りの静かな口調で眉を下げて出迎える。
彼女の周りには、最初に見た時と同じように、ぶーぶーとしか言えない裸の奴隷が集っている。
ぶーぶーぶーぶー
「残念……とも言えないかしら? リオは本望だものね? 弟さん、元に戻るわよ」
いつもと変わらぬ薄い笑みで、ラムスはその言葉を口にする。
「ほ、本当か!?」
「ええ、もうすぐ取り戻せるわ」
リオの顔が希望に輝き、ラムスは静かな笑みで応える。
いきなり好転した状況――。そうなのだろうかと、九郎は眼前を睨み続ける。
ぶーぶーぶーぶー
豚を真似た泣き声を上げる人だった生き物。九郎が人だと見ようとした人々。
ぶーぶーぶーぶー
変わらぬ悲惨な光景の中、僅かに違った畜産場の様子。
人に見えない彼らを人と見ようと顔と名前を覚えた。人と接する気持ちを忘れないようにと。
だからこそ僅かな齟齬に気が付いた。その群れの中に金髪の少女が紛れている事に。
ぶーぶーぶーぶー
豚の真似を必死でしているシオリの姿に――。
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