第153話 輝く大地
どこまでも真っ白で平らな世界。
白銀と青い空だけが延々と続く全てが凍った世界。
そこに一筋の線が白い大地を割るように続いている。
「サクラ……兄ちゃんも頑張んぜ!」
線を辿っていくと一人の男。氷の世界にそぐわぬ全裸の男が歩いていた。
サクラを見送りひとしきり別れの涙を流した後、九郎は歩き始めていた。
シルヴィアに会う為には先ず今いる場所を知らなければならない。
その為には人のいる場所、少なくとも村や町に行かなければと考えていた。
当初は海岸線を歩いて行けばと考えていた九郎だが、その海岸線は流氷に削られ切り立った崖がいくつも立ち塞がる牙のようだった。崖を迂回しようとしても流氷は絶えずぶつかり、結合し、崩れたりを繰り返す。正に大地の咢といったところか。
凍った海に飲み込まれることは気にすることでは無いのだが、以前の海の底へと引きずりこむような恐ろしい流れを思い出し、九郎は凍った大地の中央を目指す事にしていた。
しかし一つの誤算が九郎を悩ませることになっていた。
(どっかで見たことあんな……)
ひたすら続く雪原を歩きながら九郎は両目を揉みほぐす。
ひたすらに続く白銀の世界は水の蛇に呑まれた時とよく似ている。
遮る物の無い真っ平らで真っ白な大地とどこまでも高く澄んだ空。地平線の彼方まで見通せる平らな大地は今自分がどこに向かっているのかさえ分からなくなってくる。
しかしここは太陽の無かった蛇の腹の中とは違い外の世界の筈だ。
最初に荒野を彷徨った時のように一直線に歩いて行けばいずれどこかに付くだろう。―――そう考えていたのだが……。
「むうん……」
揉みほぐした目を瞬かせて九郎は額に掌で影を作る。
足はしっかりと大地を踏みしめ、まっすぐ歩いているつもりなのだが後ろを振り返るとその足跡は歪に蛇行している。
方向感覚が無くなっている訳ではない。眩しいのだ。
太陽光を反射してキラキラと瞬く雪の照り返しで、大地そのものが光り輝いている。雪の照り返しの眩しさは雪国育ちの九郎も知っていたのだが、ここまで来ると光の中を歩いているとしか思えない。
「あおうっ!」
後ろに続く足跡に眉を顰めた九郎は、気を取り直して歩き始めようとしてそのまま雪原に突っ伏す。
「また忘れちまってた……」
見事に人型に凹んだ雪から這い出し九郎は首を振る。
九郎が真直ぐに雪原を歩けない理由。そのもう一つがこれだ。
胡坐をかいて坐り込んだ九郎は眉尻を下げて溜息を吐く。目の前には自分の足首が直立している。
このどこまでも続く白銀の世界は、その光り輝く光景と反し
『ヘンシツシャ』の『
そうするとどうなるかは目の前に示された通り、凍りついてしまうのだ。
痛みを感じることも無く、暖かいとすら思ってしまう程の冷気は集中をきらすとすぐに体を凍りつかせる。人の6割が水分だという事をまざまざと見せつけるかのように、血も肉も骨さえも動かぬ氷像と化してしまう。
「しゃあねえ、一回飯にすっか」
目の前で凍りついて奇妙なオブジェと化した自分の足首を眺め、つまらそうに九郎は一人言ちる。
凍傷を飛び越えてもげた足首など、普通の人間なら半狂乱になるところだろうが生憎と九郎は『フロウフシ』だ。生やそうと思えば直ぐにでも生やせるし、『修復』してもどちらでもいい。
それよりも腹ごしらえと九郎は掌からイナゴを取り出す。
ガチガチと顎を鳴らす『
しかし九郎はそれを気にも留めずに砕き、雪に振りかけていく。
「気分だけの醤油ごはん…………いっただっきま~す!」
黒い蝗の欠片と、黒い中身を振りかけた雪を前にして九郎は両手を合わせる。
最初は体の中に残っていた黒犬の肉や鰐の肉を食べようと思っていたのだが、出すと直ぐに凍ってしまう。それにサクラ達が飢えた時には食べられそうな物はあらかた提供してしまっている。残った毒を持つ肉を掌で焼いたとしても口に運ぶ間にまた凍ってしまって、何を食べても氷を食べているのと変わらない。
ならばもう氷でいいやと、最近の九郎の食事はもっぱら雪だった。
「はぁ……米、食いてえなぁ」
気分だけの食事を終え九郎は呟く。先が見えない事に不安はあるが、目の前に大地があるのならいずれ違った景色も見えるだろう。その先で待つ人の為にも九郎は諦めるつもりは毛頭ない。
しかし迷子にはなることはもう何度目だろうかとそんな事を考え、溜息をついて肩を落とすのも仕方の無い事だった。
☠ ☠ ☠
(慎重にいかねえと……)
ここ何日か九郎が目覚めて直後に考える事はいつもこれだ。
1週間ほど歩き通しても景色は変わらない。白夜と言うものなのだろうか、この場所はずっと太陽が沈まなかった。地平線ギリギリに映る夕日と白い大地のコントラストは息を飲むほど美しかったが、そのまま再び登って来ると、どうにも締まらない冗長さを感じてしまう。
だが暗くならなければ眠れないと言うことも無いので、九郎はひたすら歩き、眠くなったら寝るというサイクルを繰り返していた。
しかし寝ていては体に意識をもたせる事など無理な話で、起きると体は全て凍ってしまっている。
その状態で寝ていられる自分にも驚きだが、再び起き上がろうとするには凍った体を溶かさなければならない。体を炎や熱に『変質』させれば、凍った体は直ぐに解れるのだが今度は違った悩みが出ていた。
「のわわわわわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
丁度人型に窪んだ深い穴を掻き分け這いだして来た九郎が天を見上げる。
この大地はどうやら氷が何重にも押し固められて出来た大地のようで、体を熱に『変質』させると一気に地表近くまで滑り落ちてしまう。登って来ることは手だけを『変質』させて階段をこさえるなりして出来るのだが、その分どうしても時間がかかる。
「何とかなんねえもんかなぁ……」
首を鳴らしてぼやいた九郎は、妙案が思いつかず気を取り直して歩き始める。
「大分歩いた気がするんだけどなぁ……わっぷ!」
ビュォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォカァォォォォォ
幾歩も歩かない内に強烈な突風に襲われ九郎は腕で顔を覆う。
何も遮る物の無い大地だが、それだけにこの場所は風が強い。
海風か山風かも分からないが、時折吹き荒ぶ風は大地の雪を巻き上げ途端の吹雪を作り上げる。
こうなると歩いてきた足跡も消え去ってしまい、自分がどこへ向かっていたのかも分からなくなってしまう。巻き上がった荒い氷の粒はキラキラと輝きダイアモンドダストを作り上げるが、それが光を反射させて方向感覚すら覚束なくなってしまうのだ。
(まさか俺同じところをぐるぐる回ってるだけじゃねえだろうな?)
吹雪に巻き込まれ、少しでも目印にと手のひらを赤く炎に『変質』させながらも不安は尽きない。
轟々と雪煙を立ち昇らせて吹く風は、人の悲鳴のようにも聞こえて薄気味悪く―――。
ビュォォォォォダォォォォォレカォォォォォォオラォォォォヌォォカァォォォォォ
「………………声!?」
吹雪の音に混じってかすかに聞こえたしゃがれた声。
悲鳴にも似た何かを訴えるような叫び声に九郎は慌てて辺りを見回す。
「誰かいんのかぁぁぁぁぁぁ!!」
一年以上全く人の声を聞いてこなかったからこそ聞き分けられた低い声は、吹雪に混じって何処から聞こえてきているのかが分からない。
懐かしい意志を伝える人の声に、九郎は慌てて大声をあげる。
自分の他にも誰かが迷っているのかも知れないと、耳をそばだて息を潜める。
「どこにいるんだぁぁぁぁぁ!!」
ビュォォォダォォォォレカォォォォイルノォォォォカァォォォォ
吹雪の音に混じって聞こえるその声は、低く地の底から湧き出て来る様な不気味さを伴いながらも、切実で訴えかけるような必死さを伴っている。
早く見つけなければ――――。
九郎は身を低く構えて声の方向を探す。
地の底から響くような声はどこから来ているのか。その糸を手繰るように息を殺して音を辿る。
「どこだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!??」
ビュォォォォォォココダァァァァォォォォォォォォォォォォォォ
「はぁ!?」
驚いた事にその声は本当に地の底から響いていた。
正確には氷の大地に走ったひび割れの中から響いて来ていた。
(クレバスに落ちちまったのか!? こりゃまじいっ! 早く助けねえと!)
九郎は氷の割れ目に耳を当て、慎重に場所を探る。
反響しているのか声は近付いたり遠ざかったりと混乱を招きそうだ。
しかし人命が掛かっているのなら急いで駆けつけなければ―――その一心で九郎は声を辿って地割れを覗く。
「今行くから待ってろ!」
何とか真下から声が響いているだろう地点を辿り当て、九郎は大声で叫ぶ。
深く底が見えない程の暗い割れ目であろうとも、恐れを抱くことはない。毎日底近くまで沈んでいる経験が生きたなと、自分の醜態を慰め九郎は体を炎へと『変質』させる。
水に沈むように氷を溶かして潜っていく九郎は気付いていなかった。
魚の身の中での生活が長かった所為もあるが九郎は常識と言うものを忘れていた。
―――人が一瞬で凍りつくこの白銀の世界で、人が助けを呼ぶことなどありえないという事を―――。
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