第051話  ピンク脳一族


王国歴1467年 終黒の月 4日


 薄っすらと雪が積もる道を黒塗りの馬車が駆け抜けていく。

 馬車の轍が白と黒の混じった地面に揺らめく線を引き、こんこんと降り積もる雪が、もうすぐ沈みそうな夕日を受けてオレンジ色に瞬く。

 揺れが激しい馬車の中で一人の老人が手元の羊皮紙を睨んでいた。


 馬の嘶きと共に黒塗りの馬車が崩れかけた屋敷の前で止まる。

 馬車の扉を開けて、老齢の執事服を着た白髪の男が降りてくる。

 老人は崩れかけた屋敷の扉の前で数度躊躇いを見せた後、意を決して様に扉を叩く。

 暫く待つと、軋んだ音を立てながら扉が開く。


「今日はもう終わってますよ~………て、クラインさんじゃ無いっすか」


 扉を開けた九郎の前にベルフラムの家臣であり、レイアの祖父でもあるクラインが青い顔で立っていた。

 その表情は苦渋に満ちていて、降り積もる雪の中で幽鬼の様に青ざめている。


「クロウ殿……姫さ……ベルフラム様は……?」

「クラインさん顔真っ青じゃないっすか! こんな寒い日にそんな薄着じゃ無理ねえっすよ! 俺じゃねえんだし! とりあえずこっちに」


 クラインの押し殺したような声を遮り、九郎がクラインを浴室へと案内する。


「クロウ殿……火急ベルフラム様に用事が……」

「ベルももうすぐ来るっすから、とりあえず風呂入って温まっててください」


 九郎は服を脱ぎながらクラインにも服を脱ぐよう促す。

 クラインは混乱した様子で立ち尽くしている。


「早く入んねえとポックリ逝っちまうっすよ? あ、でも老人に急激な温度変化の方が体に毒だったか……?」

「な、なにをなさるつもりで!? 落ち着いて下さいっ!」


 クラインの青い顔を見て、凍えていると思った九郎がクラインの上着に手を掛ける。

 クラインが慌てた様子で抵抗する。


「安心してくださいっ! 今の温度はそんなに熱い湯じゃねえすから!」

「な、なにをっ!! 申し訳ないが私には妻も子供もっ!!」

「…………何をしてるのよ………」


 クラインの上着を剥ぎ取りに掛かっていた全裸のクロウと、必死の抵抗でそれを拒んでいる老人クラインをベルフラムがジト目で見下ろしていた。

 薄い肌着姿のベルフラムに目を丸くしているクラインを見て、ベルフラムは顔をしかめる。


「姫さ……ベルフラム様!! クロウ殿が御乱心を……」

「あなたに敷居を跨がせる許可を出した覚えは無いのだけれど?」


 九郎から上着を剥ぎ取られながらベルフラムへに向き直るクラインに、ベルフラムは氷点下の視線を向ける。

 下着姿だと言うのにその姿からは威圧感すら滲ませている。


「ベ、ベルフラム様! これには訳が、火急の用が――――」

「ベル! クラインさんが凍えてっからそんなに冷たくすんなって!」


 クラインが言葉を続けようとした時、またしても九郎が言葉を被せるようにベルフラムに注意する。

 九郎の言葉にベルフラムは鼻白んだ表情をし、クラインを一瞥すると浴室へと入っていく。


「クライン! クロウに免じて今日の所は屋敷に入る事を許可してあげるわ! 温まったら即刻出て行きなさいよ!」

「おい、ベル! あー、クラインさん先に入ってるんで服を脱いで入って来てください……。恥ずかしかったらそこのタオル使ってくれて良いんで……」


 ベルフラムを追いかけながら、九郎は浴室から顔を出しクラインに布を指し示す。部屋の奥からベルフラムの「なんでクラインと一緒にお風呂に入るのよ!? 見られちゃうじゃないっ!!」といった声と、「ベルが子供の頃からクラインさんと一緒にいたなら今更じゃね?」といった九郎の声が聞こえてくる。


「仕方ないわね……、私もタオルを巻くわよ……もうっ……。クライン! 良いわよ、服を脱いで入ってらっしゃい!」

「は、はあ……」


 呆気に取られたようにクラインは浴室の前に積まれているタオルを見る。

 暫く逡巡したクラインだったが、屋敷の主であるベルフラムが言っているのだからそれに従うしか他は無いと、服を脱ぎ腰に布を巻きつける。

 ――自分はベルフラムに何を言われようが耐えねばならない――どんな恥辱だろうと耐えて見せる――。

 過去にベルフラムを追い詰めた事を悔やんだクラインは覚悟を決め浴室へと足を進める。

 クラインはもうもうと湯気が立ち込める部屋に一瞬の戸惑いを見せるが、意を決したように部屋の中央へと歩いて行く。


「な……」


 煙る部屋の中心で、もうもうと湯気を立てるお湯につかる二人の姿を見てクラインは言葉を失う。裸体にタオルを巻いただけのベルフラムが、九郎の股の間に座って九郎に頭を預けている。

 その光景は、男女の睦事そのものにしか見えず、クラインは膝から崩れ落ちる。

 かつてのレイアと同じように。


(――ベルフラム様はクロウ殿との睦事を見せつけ私めに後悔の責を責められているのか――)


 絶望の表情でその姿に涙を滲ませたクラインの後ろから人の気配がする。

 振り返る間もなく、クラインの横を裸の少女が駆けて行く。

 腰から伸びた尻尾が千切れんばかりに振られている。


「クロウしゃまー」

「ああっ! デンテさん、走ったら危ないですよっ! ………て、お爺様?!?」


 後ろから響く聞き覚えの有る声に驚いて振り返ると、胸元から腰までを大きめの布で隠した孫娘のレイアが、裸の少女と共に浴室に入って来る所だった。

 裸の少女はクラインの姿に敵意を露わに戦闘態勢に入る。腰から伸びた尻尾がピンと立てられ低いうなり声を出している。

 レイアは振り返って口を開けたままのクラインの姿に驚愕している。


「クラヴィス! 大丈夫だからこっちにいらっしゃい。剣も持たせてないから大丈夫よ! ってクロウ……あなた結構考えてるのね?」

「は? なんのことだ? クラインさんも早く入んねえと風邪ひくっすよ~?」


 今にも飛びかからんとしている少女がベルフラムの声に怒気を緩め、クラインから距離を取りながらベルフラムの元へと走っていく。クラヴィスと呼ばれた少女は、先程デンテと呼ばれた少女とと共にベルフラムの傍…、九郎の周りに侍るように集まっていく。

 裸を布一枚で隠しただけのレイアの姿に、クラインは絶望の表情をレイアに向ける。

 レイアは顔を赤くしながら、クラインの目から逃げるように九郎から少し離れた湯船に体を沈める。


(ベルフラム様だけでなく、孫娘のレイアまで……)


 腐死体ゾンビのような足取りでクラインは浴槽へと足を進める。

 孫娘のレイアの先程の言葉から、レイアも九郎に肌を見せる事に慣れている様子――すなわちレイアも九郎に手籠めにされたと、クラインは魂の抜けた表情で九郎を見る。それどころか、貴族でも躊躇するような歳の幼女まで手に掛けている様子に忌避感をも覚える。

 だが、湯船に近付くにつれ見えてきた、ベルフラムと九郎の長閑な様子にクラインは少し頭を冷やす。

 九郎に体を預けているベルフラムやクラヴィスの表情も蕩けてはいるが、男女の睦事時特有の甘ったるい空気感が無い。それどころか、どこか牧歌的な呑気さが広がっている事にクラインは戸惑いの表情を浮かべる。


「早く入っちまった方が良いっすよ?」


 九郎に言われるがままにクラインは湯船に足を浸ける。

 少し離れた所で、レイアが顔を赤らめながらも何処か期待に満ちた目でクラインを見ていた。


 意を決して体を湯船に沈めるクラインは、五分後には呆けた顔で夕闇が落ちた空を眺めていた。


☠ ☠ ☠


「……これが『風呂』と言うものですか……」

「そうよ? 前に私が言った通り、この屋敷はこの街で一番暖かな場所よ? 理解したかしら?」


 クラインの呟く様な言葉にベルフラムが得意そうに答えていた。


 九郎に髪を洗ってもらったベルフラムは、今はクラヴィスの髪を湯に梳っている。少し離れた場所でレイアがデンテに同じように髪を洗っている。

 熱気で濛々と立ち込める湯気が、崩れ落ちた天井から外へと吐き出されている。

 少し冷えた空気が頭を引き締め、程良い熱さの湯が体を解す。

 クラインとて、ベルフラムの動向を探ってはいたが、噂で聞く風呂と言うものがここまでの物とは思ってもいなかった。

 歳を経ると共に鈍くなりつつあった関節が伸ばされるような、経験した事の無い気持ちよさにクラインは眼を細める。

 実際、『風呂屋』の常連の多くは、ある程度金を持っている中流家庭の老人達だ。冬の冷気に固くなり、体を苛む関節痛に良く効くと評判である。


 薪の貴重なこの地域でこれ程の量の湯を惜しげも無く使うこの『風呂』は、確かにベルフラムの言ったように一番暖かな場所と言えた。


「しかし……クロウ殿は男色だったのですな……。ベルフラム様が体を捧げたと仰っていたので心配していましたが杞憂に終わって安心しました。以前は疑って申し訳ありません」


 九郎の周りで寛いでいる少女たちを見ながらクラインは九郎に謝罪する。

 九郎の周りにはベルフラムを始め、クラヴィス、デンテ、レイアと美しい少女たちが肌を露わにしているのに、九郎には欲情している様子が見られない。

 クラインの言葉に九郎が盛大に腰を滑らせて湯船に沈む。


「な、なんつー事言ってんすか!? 前にも言いましたよね!? 俺は少女趣味ロリコンじゃねえだけで女の子は大好きっすよ!?」


 九郎が抗議の目でクラインを睨む。

 その言葉にクラインは少し考え、それからレイアの方に慌てて顔を向ける。

 クラインの訝しげな、どこか心配そうな顔に、当初レイアはキョトンとした表情を浮かべて首を傾げていたが、クラインの心情に思い当たったのか、慌てて顔を赤く染めながら首を何度も横に振る。

 男所帯で育てた所為か、はたまた騎士の訓練と称して屋敷で剣を振るってばかりだった所為か、女らしい所作には欠けるが見目だけはそれなりだと思っていた孫娘も手を出されていない事にクラインは頭を捻る。


「クロウ様は私達と同じベッドで寝ていても夜の相手をするよう命令される事はありません! 優しいのです!」


 クラヴィスが九郎を庇うようにクラインを睨む。

 年端もいかない少女に夜の相手を求めない訳は、優しさとは違う気がしながら九郎はクラヴィスの頭を撫でる。この少女はこの少女で九郎の事を弁明しようとしてくれているようだが、この歳でそう言うセリフはどうかと思う。そして彼女はベルフラムよりも進んだ性知識を持っている事に、苦いモノを感じてしまう。


「そうね、クロウはその辺の下種な貴族達とは違って月の物が来ていない子に手を出す事はしないわよ。レイアに手を出さないのは………苦手なのかしら?」

「苦手とかじゃねえよっ! お子様だらけの環境でピンクの空気が出せねえんだよっ!」

「なっ……! それではクロウ様は二人きりだったら私を手籠めになさるつもりなんですか?」


 ベルフラムの言葉に反論した九郎に、レイアが若干距離を取る。

 しかしその表情に嫌悪の感が含まれていない事に、クラインはおや? とレイアを観察する。


「自分の爺ちゃんの前で、んなこと言うんじゃねえよ! このピンク脳一族がっ! 何度も二人きりになってんだろが!? 大体手籠めってなんだ!? 俺は殿様でも貴族様でもねえから、無理やり女の子をどうこうしようなんて思わねえよ!? 紳士って言えよっ!」


 レイアはがなる九郎に対して、澄ました顔で明後日の方向に視線を向けていた。

 レイアは九郎が屋敷の主人のベルフラムの主として、夜伽すら命じる事が可能な立場であるのに何も言ってこない事に、多少の九郎に対する認識を改めていた。

 出会った当時に思っていた、恩を傘にベルフラムを手籠めにしたと言った誤解は解けている。

 九郎はレイアに自分が少女趣味ロリコンでない事を懇切丁寧に説明し、そして街の娘たちがどのような男を好むのかも尋ねていた。話の流れでレイアの好みの男性はと水を向けた所、レイアはしばし考えた後に「強い人」と答え、それから九郎はレイアと暇を見ては剣の稽古をしている。

『魔力』が無いとベルフラムに告げられてからは出来るだけ体を鍛えようと毎日筋トレにも精を出していて、自身の力が他より劣ると知っても自ら強く成ろうと体を鍛える九郎に、女の身で騎士を目指したレイアは自分の過去を思い出しながらあれこれとアドバイスすることも多くなった。

 今では冗談も言い合えるくらいの仲にはなっている。

 それ以上に毎日寝食を共にし、肌すら見慣れた関係になっているのに決して手を出そうとしてこない九郎に、ある種信頼めいたものも育ってきていた。

 屋敷で最年長の九郎の次に年長者となるレイアは、この寝食を共に過ごすメンバーの中では母親めいた立ち位置にならねばと思っていて、クラヴィスやデンテに時折説教めいた事も言っている。

 実の所クラヴィスとデンテは、ベルフラムに自分たちを歯牙にもかけなかった母親なんかより、思い出にはない『優しい母親』像を見出しているのだが……。


 同じ場所で寝て、同じものを食べ、同じ仕事に精を出すうちに5人の中には奇妙な連帯感が生まれており、屋敷の中の雰囲気はとても良くなっていた。


 レイアに抗議している九郎を見ながら、レイアがどこか打ち解けた様子で九郎をあしらっているさまにクラインは胸をなで下ろす。

 屋敷を出たベルフラムを追ってこの廃墟に移ったレイアは、次の日に屋敷を訪ねてきてクラインに屋敷勤めを辞める旨を伝えていた。その表情が夢を叶えたのに何処か悲壮感も漂っていただけに、今のレイアの表情から安堵の吐息を漏らす。


「それで? 何で今頃クラインがこの屋敷に来るのよ?」


 落ち着いた雰囲気に浸っていたクラインだったが、ベルフラムの険を含んだ言葉に我に返る。

 ホッとした表情から再び苦渋に満ちた表情になったクラインを訝しがるようにベルフラムは九郎の肩に枝垂れかかったまま再び険を含んだ眼差しになる。

 九郎の陰から威嚇するような瞳でクラヴィスも同じようにクラインを睨んでいた。


 一気に緊張した空気に変わった事に慌てた九郎が、ベルフラムとクラヴィスを抱きかかえて膝の上に強引に座らせると宥める様に二人の頭を撫でる。


「そう言えば何か急用とか言ってたっすね? 何かあったんすか?」


 頭を撫でられてベルフラムは少し決まりが悪そうに、クラヴィスは気持ち良さそうに九郎に体を預けている。


「それが……」


 九郎の暢気な問いかけに、クラインは言葉に詰まる。

 事が事だけにこの様な長閑な雰囲気の中で言って良いものかと逡巡する。


「何よ? 青い顔なんかしてないでさっさと言いなさいよ。どうせ会った事も無いお兄様が何か言ってきただけでしょう?」


 ベルフラムが九郎の膝の上でフンと鼻を鳴らす。

 ベルフラムはクラインがこの屋敷に顔を出した時に、直ぐに数日前に来たバルムに関係したことだと思い至った。会ったことも無い兄から何を言われようとも全て無視してしまおうと心に決めていた。


「何? 違うの?」


 額に汗を滲ませ言い淀むクラインに追い打ちを掛けるベルフラム。

 クラインはベルフラムと九郎を交互に見ながら重くなった口を開く。


「それもあるのですが……今日使いの者が屋敷に来まして……。御明察の通りベルフラム様の誕生日の夜会の日程が決まったとの知らせと……」


 クラインは苦虫を噛み潰した顔でベルフラムを見ると、その顔を九郎に向ける。

 クラヴィスの頭を撫でて呑気な雰囲気を醸し出していた九郎がその視線に、意外そうに片眉を上げる。


 クラインはさらに重い声色で言葉を続けた。


「―――――――――クロウ殿の死刑宣告です―――――――――」

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