第026話  餓鬼の業


××日目


「……ねえ………クロ…ウ……」


 休む事無く歩き続ける九郎の背中で、ベルフラムが九郎を呼ぶ。声も掠れて弱々しい。


「………私…の…お…ねが…い…聞い…て…くれ…る…?」

「何だ?何でも聞いてやんぜ?」


 肩越しにベルフラムの頭を撫でながら、九郎は優しく返す。

 ベルフラムも必死に手を伸ばして九郎の顔を触る。

 九郎の頬を撫でながらベルフラムは言葉を続ける。


「わ…たし…ね………クロ…ウに…お礼…を…した……いの………」

「礼なんて気にすんなよ。」


 悲しそうな、愛おしそうな声で、ベルフラムは九郎の顔を撫でる。


「でも……ね……わた…し……今……何…も……持っ…て……ない…から………」


 九郎の言葉を気にする素振りも無く、ベルフラムは擦れた声で言葉を続ける。


「……だから……ね……わた…しを……クロウ…に……あげ……る…ね……」

「ませた事いってんじゃ」


 思ってもいなかったベルフラムのセリフに、九郎が驚きながらも振り返ろうとする。

 ベルフラムは残りの力を振り絞るように、九郎の首に腕を絡めて耳元で囁く。


「………わた…しを……食べて……ね………」


 その言葉に九郎の顔が強張った。

 ―――足元が無くなる感覚―――。

 暗闇の中、頭が真っ白に塗り替えられる。

 耳元で囁いたベルフラムの言葉が、遠くから聞こえた鐘の音の様に頭の中で反響する。


「な、な、何言ってやがる……」


 自分でも唇が震えているのが分かった。

 明らかに動揺していた。

 手足が痺れ、感覚が無い。口の中が乾き、飲み込んだ唾が、やけに大きな音を立てて喉に落ちる。


「もう…ね……わた…し……目が…見え…な…く……なって…き…てる…の……」


 ベルフラムの擦れた声が九郎の耳元で続く。

 立っている事さえできなくなりそうで、九郎は壁に手を付く。


「ごめ……ん…ね…………クロ…ウ……を……ひとり………ぼっち…に……しちゃう………ね…………」


 ベルフラムのしゃくりあげる嗚咽と、声だけが暗闇に消えていく。


「……でも……ね……もう……ね…うま……く……しゃべれ……な…………く……なっ…ちゃい………そう…………だから………ね………」


 ベルフラムは、九郎の顔を手で確かめるかのように触っていく。


「…………だから……ね………はな…せる………うち…に……ね……言わ…な…いと……だめ………………だって………………」


 目元を触られて初めて九郎は、自分が涙を流していることに気付く。

 九郎の歳の半分しか生きていない、小さな少女の願い………。


「……ちょっと……くさ……い……かも…だけ…ど…ゆる……して……ね……」


 ベルフラムは絡めていた腕に力を込めて、九郎の頭を抱きしめる。


「おね……がい………クロウ…………わたしを……食べて……いきて……」


 耳元でベルフラムの声が途切れる。

 残りの力を全て使ったかのようにベルフラムは眠りに落ちていた。


「……そんなセリフは10年早えーよ……」


 静かに眠るベルフラムに九郎はポツリと呟くと、背負っていたベルフラムを下ろす。

 そして九郎は、木切れに火をつけると小さなたき火をその場に作る。

 それからたき火の近くの壁にベルフラムを横たえると、九郎は暗闇の先へと歩き出す。


 20歩位であろうか。もしベルフラムが目を覚ましたとしても、たき火の炎でこちらは見えない。

 ベルフラムから離れた九郎は静かに拳を自分の頬に振るう。

 口の中に血の味と、激しい痛みが響く。


(これは不甲斐無い俺への罰だ……)


 どこかで油断があったのではないか。自分は死なない・・・・とタカをくくっていたのではないか。

 そうでなくても関係無い。もっと他にも手はあった。

 かつて思い浮かべたソレを、自責の念から拒んでいたからこうなった。


 九郎は、腰のケープを解くと猿轡の様に歯で挟み込む。


(そしてこれは――俺が今から背負っていく――業だ!!)


 九郎は眼を見開くと、右手でナイフを抜き放ち――――左肩に突き刺した。


「―――――――――――!!!!」


 激しい痛みに歯を食いしばる。


(声を出しちゃだめだっ!! ――ベルフラムに気付かれる!!)


 九郎は躊躇わずに何度も繰り返し肩を刺す。血飛沫が九郎を赤く染める。

 神経を傷つける痛みに発狂しそうになる。しかしそれは『不死』の力で許されない。

 何度も何度も振るった刃が脂で切れ味を落とす。それでも気にせず九郎はナイフを振り下ろす。

 やがて九郎の左肩は肉が削げ骨が見え始める。九郎はその骨にナイフを宛がい自ら岩壁に叩きつける。


「グ…ッ――――――――!!!!!!」


 メリッともゴリッとも形容できない何かがひしゃげる音がして、九郎の肩と腕を繋げている2本の骨の内の一本が折れる。

 肩口から赤い粒子が噴き出し始める。

 九郎は右手で左腕を掴むと、ねじ切る様に引っ張り、千切る。

 辛うじて軟骨と皮だけで繋がっていた九郎の左腕は、嫌な音を立てて分離する。

 意識を失いそうな痛みに、九郎は耐える。

 右手の握っているのは唯の肉だと思い込む。

 永劫の時とも思える、短い時間が経ち、赤い粒子によって左腕は新しく『再生』されていた。


(まだ……終わってねぇ! 終わっちゃいねぇ!)


 九郎は痛みに遠のく意識を、別の痛みで塗り替えるように、もう一度自分の頬を殴ると次の作業に取り掛かる。

 千切り取った、九郎の左腕の肉をナイフで削ぎ落としていく。20年間連れ添った自分の左腕だ。暗闇であっても手に取るように・・・・・・・知っている。

 肉を粗方削ぎ落とし終わると、今度はナイフの柄で叩いて轢き肉状にする。

 そうしてできた『九郎の左腕であったモノ』を抱えて九郎はベルフラムの元へと戻る。

 たき火の光に照らし出された九郎の顔は、罪を犯す前の犯罪者の様に曇っていた。


(――俺は今から――人に人を食わすという罪を犯す――)


 ベルフラムに近づき、身体を起こすと九郎はクロウをベルフラムに含ませる。

 ベルフラムの口から肉が零れ落ちる。


(もう噛む力も残ってねえのか……)


 九郎は自分の腕だったモノを口に含む。

 口の中に、血と肉の味が広がる。美味いと感じた自分に怖気が走る。

 必死に飲み込みたい欲求を頭で抑え込み、九郎は肉を咀嚼する。


(まるで地獄にいる『餓鬼』みたいじゃねえか……。まあ、こんなことをしちまってるんだ……早々と地獄行きが確定しちまったな……)


 飢餓感から自分を食べてしまう地獄の罪人――九郎は小さく自嘲する。

 やがて、口の中の肉がドロドロのペースト状になると、九郎はベルフラムを抱え、口移しで流し込んで行く。

 どろどろに溶けた肉を、舌で喉までゆっくりと運ぶ。

 ベルフラムの喉が動くのを確認すると、九郎は再び肉を口に含む。

 数度の口移しを終えると、九郎はベルフラムを抱き上げ暗闇の先へと歩き出す。

 静かに眠る腕の中の少女に、罪が及ばない事を願いながら……。


☠ ☠ ☠


××日目


 魔法の光の中、九郎は前に進む。

 背中のベルフラムもあれから徐々に回復し、歩けないまでも魔法を使う事ぐらいはできるようになっていた。


「動けない淑女レディーの唇を奪うだなんて、クロウはとんだ狼だったのね」


 ベルフラムが九郎の頬を横に引っ張りながらにやついていた。

 九郎はベルフラムが自力で物を食べられるようになるまで、何度も口移しで肉を与えていた。


「俺ふぁどっちかと言うと親鳥の気分だったふぇ……」


 両頬を弄ばれながら、九郎が不満気に言い返す。


「もうっ! いつになったら子ども扱いを止めてくれるのよ!」


 ベルフラムが九郎の肩から顔を覗かす。

 ずいぶん元気になった彼女の様子に、九郎の顔から自然と笑みが零れていた。

 ふくれっ面を晒しながらも、ベルフラムも幾分機嫌がよさそうだ。

 九郎がそう思ったその時――ベルフラムの赤い髪がフワリと舞い上がった。


「「!?!」」


 九郎はベルフラムと顔を見合す。

 ベルフラムも驚いた顔で九郎に抱きつく。


 ――風が吹いていた――

 冷たく澱んだ暗闇の空気に、僅かに草の香りが混じっていた。 


 首にベルフラムを引っ付けたまま、九郎は走り出す。

 ベルフラムは九郎の肩から顔を覗かせ、希望を見る目で眼前を見詰める。

 時間にしてどれだけかかったのか。かなりの距離を走っていても、その感覚は一瞬だった。


 目の前に射し込む光の色に九郎の目が細まる。

 どれだけこの日を夢見ていたか。どれだけこの光を欲していたか。

 崩れたなだらかな土を駆け上り、二人は何日ぶりかの太陽を浴びる。

 長い暗闇の出口は、なだらかな丘の中腹に大きな横穴となって開いていた。

 足元には踝ほどの背丈の柔らかい草が生い茂っている。

 眼下を見下ろすと麦畑が一面に黄金色に波打っている。


「クロウ!!」


 九郎の顔の横で、ベルフラムが大きな瞳に大粒の涙を溢れさせながら頬を寄せた。

 あまりの勢いに、九郎はバランスを崩し横倒しに倒れ込む。

 柔らかな草が背中を包み込む。

 時刻は夕暮れ前くらいか……秋の高い空が目に沁みる。


 ベルフラムは九郎の首に抱きついたまま、笑いながら泣き続けていた。


(こいつの泣き顔は沢山見てきたけれど……うれしくて流す涙は、初めてかもな……)


 九郎はベルフラムの頭を優しく撫でる。


「なあベルフラム――」


 ――諦めなくてよかっただろ? と続けようとした九郎の口に、ベルフラムの指が掛かる。

 九郎の肩から顔を上げたベルフラムは、涙でグシャグシャだ。

 ベルフラムはとめどなく溢れる涙を拭おうともせず、再び九郎に抱きつき――、


「―――――ベルって呼んで」


 はにかみながら九郎の頬に唇を寄せた。

 少女が唇を離した頬に、触れる風は冬の冷たさを伝えて来ていた。

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