第021話  漫画的表現のアレ



「この………この『大地喰いランドスウォーム』の腹の中によぉっ!!!!」


 バーランの絶叫が洞窟内に木霊していた。

 じわりじわりと足元の土を崩していく酸。逃げるように九郎たちは土砂で作られた丘へと走る。

 大地を飲み込むミミズの腹の中で、九郎たちは少しでも高い場所を目指す。


「くそっ!!」


 革靴の底が溶けたのか、九郎は足の裏に刺すような痛みに悪態を吐く。ジュッと肌が焼ける感覚。踏みしめる大地が大地で無い事を、足の裏が伝えてくる。ゴムを踏んだ時のような、僅かに沈む地面は、今も微細動を繰り返している。


「何処へ逃げるって言うのよ……。どう考えたってお終いじゃない……」


 腋に抱えたベルフラムが、涙声で力なく呟いた。


「黙ってろ! 舌噛むぞっ!!」


 九郎はベルフラムに、短く答えて足に力を込める。


(気が付いたら腹の中ってピノキオかよっ!)


 童話の状況と酷似しているが、巨大なミミズの腹の中とはいささかメルヘンさに欠ける。ミミズが相手では、煙で燻してくしゃみを誘発し、外へ飛び出す事も出来ないだろう。陸上で飲み込まれたので、もちろん船も有りはしない。

 九郎は一番高い場所を探して周囲に目を走らせる。土砂で作られた丘の上に逆さに突き刺さった木が見える。


「バーランさん! あそこっ!」


 九郎は後ろで走るバーランに、木を指さす。

 バーランは鎧を脱ぎかけていたせいか、上手く走れず少し遅れていた。


「ベルフラム! 登れ!」

「う、うん……。ちょっと、お尻を触んないでよ!」

「うるせえっ! マセタ事言うのは後最低5年育ってからにしやがれっ!」


 九郎はベルフラムを木に捕まらせ、持ち上げる。ベルフラムの軽い尻を片手で押し上げながら、捕まる木に望みを託す。


(こいつが浮いてくれる事を願うしかねえな……)


 嵐の海でも丸太は浮く、いや浮いて欲しいと願いながら、九郎はベルフラムをより高い場所へと押しやる。

 いつの間に、こんなに水嵩が増えたのかと思うほど辺りが酸のうみに沈んでいる。


「くそっ! くそっ! くそっ……」


 バーランが、焦ったように何度も同じ言葉を口にしていた。木の枝に邪魔され上手く登れないようだ。


「ベルフラム! 絶対手を離すんじゃねえぞ!!!」


 九郎はベルフラムに大声で告げながら、バーランの元へと木を下る。


「もうちょっとっすよ! 引っ張り上げます!!」


 九郎は先程バーランを掘り起こした時と同じ言葉を叫びながら腕に力を込める。

 限界を感じない九郎の力が、人二人分は優に有ろうかと思われるバーランを、片手で引き上げる。


「すまん!!」

「いいから早く登ってくださいっ!!」


 短く礼を言うバーランを急かし、一心不乱に枝を登っていく九郎。

 根の方へ、根の方へと木を逆さに登る。後ろでは音のしない脅威が、じわりじわりと迫ってきている。


 どこまで胃液が満ちるのか。不安に駆られて振り返ると、酸の湖が冒険者達の遺体を飲み込んでいた。

 焦げたような音と共に白い煙が立ち上り、瞬く間に溶かされ沈んで行く死体。僅かな時をおいて、白い頭蓋骨が浮かんできた。


「もっと早く行けっ!!」

「もう無理よっ! これ以上は進めないわっ!!」


 枝も無くなった幹の先でバーランの焦った声と、ベルフラムの涙交じりの声が響く。

 ベルフラムの行く手はもう枝は無く、太い幹だけが残っている。

 ガクンと木が揺れる。


「……もう……やだぁ……ママぁ……」


 ベルフラムがとうとう進むのを諦めてその場で泣きだした。


「泣いてねえで早く進めっ!!」


 バーランの腕がベルフラムの肩に触れた。




    「あ」




 自分の声とは思えないほど、間抜けな声が九郎の口から零れ出ていた。

 魔法の光がゆっくりと頭上を移動していくように見えた。時が緩やかになったのかと錯覚するほど、ゆっくりと紫色の小さなドレスが、放物線を描いて落ちて来る。オレンジ色の魔法の光を遮るように、徐々に大きくなってくる紫色のドレスの影。

 反射的に手を伸ばす。

 ――届かない――

 そんな確信めいた予感に九郎は足元の枝を蹴る。

 指先に布が僅かに触れた。無我夢中でそれを手繰り寄せる。

 そして――九郎はそれを神へと献上するように頭上に掲げた。


「キャァァァァァァァァァァァ!!!!」


 絹を割くようなベルフラムの悲鳴が、緩やかに感じていた時間を元へと戻していた。

 同時に大きな水音が足元でおこる。九郎の体に走る焼けるような激しい痛み。腰から下が冷たくも熱くも感じる。九郎の周囲が白煙でけぶり、刺激臭が漂う。


「バァァァラァァァアアアン!!」


 九郎は絞り出すように叫び声をあげていた。遥か頭上でバーランの恐怖に濁った眼が見えた気がした。


「クロウ! もういいわ! もう駄目なのよ……」


 掲げた腕の中でベルフラムが疲れたように首を振った。極限の恐怖と緊張が、現状を正しく理解させたのか。どう足掻いても無理だと、心が先に折れたのか。

 うわ言のようなか細い泣き事を呟いた後、ベルフラムの体から力が抜けた。


「黙ってろ! 暴れんなよ! 大人しくしてろよ! 言っただろ! 『俺が家まで送ってやる』って!!」


 しかし九郎はその言葉を一蹴する。体から煙を上げながらも、ベルフラムを酸の湖に落とさないよう、頭上に掲げて叫ぶ。


「でも!」


 ベルフラムが腕の中で頭を振った。酸はもう九郎の胸まで登ってきている。周囲に漂う刺激臭が、立ち昇る白煙が、ベルフラムの恐怖を煽り、彼女の生きる希望を蝕んでいく。


「これも何度も言ったよなあ!? 俺は不死身の英雄ヒーローだってよ!!」


 畳みかけるように九郎はベルフラムを諭す。九郎は焼けるような痛みに顔を歪めながらも、声だけはいつもと変わらぬ様子で嘯く。体の内側から痛みが込み上が得て来ている。足首から先はもう感覚が無い。しかし言った言葉の通り、九郎の体は『フロウフシ』だ。溶かされようとも、どれだけ爛れようとも『死』には直結しない。肌が爛れようとも肉で。肉が溶け落ちよとも骨だけで、体を支え、ベルフラムを落とさないよう泳ぎ続ける。


 直ぐ傍で大きい物が水に倒れる音が鳴る。


「あぅっ!!!」


 水面が大きく波打ち、飛沫がベルフラムのドレスに掛かる。ベルフラムが短く悲鳴を上げ、彼女の長いドレスが膝辺りからズルリと溶け落ちる。


「もっと小さく! 両膝を抱えろ!!」


 九郎の怒鳴り声にベルフラムは身を竦ませて膝を抱えた。胎児のように体を小さくしたままのベルフラムを両手で掲げ、九郎は体を再生させ続け、同時に足を動かし続ける。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ」


 今度はバーランの絶叫が近くから響いてきた。

 生きたまま体を焼かれる男の悲鳴。先程の大きな水音は、登っていた木が倒れた音。

 痛みの恐ろしさを如実に伝えてくる地獄の亡者のような叫びに、ベルフラムが目を瞑って耳を塞ぐ。


「がぁぁぁぁぁぁぁ! げひぃっ……ぐあぁぁ……」


 大の男が叫ぶ断末魔の悲鳴。その痛みが如何ほどのものかは、声が示している。

 九郎も一度全身を炎で炙られ続けた経験が無ければ、痛みに泣き叫んでいたに違いない。

 そう思いながらも、九郎は今更事の契機を思い出す。


(そうだ……。ベルフラムを放り投げやがったんだ……。生き残る為に? いや、少しでも長く生きる為に?)


 九郎は先程何が起こったのかを思い出して奥歯を噛みしめていた。あの瞬間、ベルフラムの肩に手を掛けたバーランは、まるで枝でも払うかのように、自然な動作でベルフラムを後方へと放り投げていた。

 余りの自然さ故に、九郎はあっけに取られ、思わず間抜けな声が出ていた。

 そしてスローモーションで落ちて来るベルフラムに飛びついた時も何も考えなかった。

 ――「助けなきゃ」と言った使命感も、「助けたい」といった正義感も何もなく、半ば条件反射で飛びついていた。


(飛び出した子供を庇う人の心理って、案外こんなもんかもな……)


 一人今は関係の無い感慨を感じていた九郎の傍に、先程まで登っていた木が流れてくる。木が突き刺さっていた土台が崩れ倒れた為か。

 しかし、ベルフラムを放り投げたバーランの姿は無い。一時の命の時間を稼ぐために、少女を犠牲にする事に何の躊躇いも持たなかったバーラン。それが、先に逝くとは何とも皮肉な結果だ。


「ベルフラム! 乗り移れそうか?」


 九郎は浮かぶ木へと近付きベルフラムに尋ねる。痛みの感覚はもはや無いが、水面下では赤い粒子が溢れ出ているだろう。だが、未だ慣れて・・・はいないのか、水を掻く足先の感じがやけに頼りない。


(――これはぜってー今、俺骨だけだっ! 胸から下に肉がねえっ! 再生が追っついてねえっ!)


 自分の体がマンガで見るような感電した人のように、骨だけと化している事を自覚して九郎は弱り顔を浮かべる。もう笑うしか無い不思議な感覚だ。しかし何とか浮力を得られている状況は、やはり危険を感じてしまう。自分はこのまま沈んでも屁でも無いが、ベルフラムを道連れにしては元も子もない。

 水面下で、骨格標本と人体模型を行ったり来たりしながら、声をあげる九郎に、ベルフラムが硬く閉じていた目を恐る恐る開く。


「や、やって見るわ……」


 恐怖は未だに収まってはいないようだが、ベルフラムの胆力は中々のもののようだ。小さな手で浮かぶ木を掴もうとベルフラムが手を伸ばす。


「きゃああああっ!」


 枝を掴もうとしたベルフラムが、またもや九郎の手の上で身を竦ませ悲鳴を上げた。

 ベルフラムが木に触れるか触れないかの瞬間、グルンと浮かぶ木が回転し、バーランが再び姿を現していた。いや、バーランだったものが。

 ドロドロに溶け爛れた顔。今にも垂れ落ちそうな眼玉。頬は殆んど溶け落ち、顎か半ばまで開ききっている。鼻先は赤く爛れ、僅かに残った肉片がが白い煙を上げている。ほぼ骨の手だけで木の枝に引っかかっていたバーランは、もう一度グルリと水面下に消えると、道連れにでもするかのように木と共に沈んで行った。


(ちくしょう! 休めねえっ!)


 死なば諸共と木を道ずれにして沈んで行ったバーランに短い悪態を吐くと、九郎は再び流れに身を任すように立ち泳ぎで漂う。古式泳法と呼ばれる立ち泳ぎは、浮力の少ない池や滝壺が遊び場だった、海無し県民だからこその九郎の特技だ。

 手の上のベルフラムが泣きじゃくりながら、それでも身を小さくして震えていた。


 どのくらい時間がたったのだろう。ベルフラムの魔法の光が薄く光を落とす頃、九郎は眼前に先程見た大きな横穴が広がっていた。当初は水面下4メートルだった横穴は今や、水面下50センチ程の高さに開いている。水嵩が増えた事で、今なら何とか届きそうだ。


「ベルフラム! そこだ!そこに登れるか!?!」


 九郎はベルフラムを見上げながら、穴を顎で指し示す。

 下を見れる体勢でないベルフラムは、体を動かさずに首だけで周囲を見渡す。


「やってみる」


 先程の恐怖も冷めやらぬうちだが、それでも彼女は短く返す。生き残る為の本能が彼女を冷静にしているのかも知れない。

 ベルフラムが穴の淵に手を伸ばし、転がり込むように横穴に移動する。


「クロウも早くっ!」

「直ぐに上がるからベルフラムは少し先を見といてくれ!」


 手を伸ばそうとするベルフラムを遠ざけて、九郎はゆっくりと酸の湖から体を引き抜く。

 赤い粒子が胸から下を徐々に再生し始める。まるでCTスキャンの様に輪切りの体が姿を現す。足は既に慣れていたのか元の足が水面下に見える。


(さてと……何キロ走る事になるやら……)


 水面はもう横穴のすぐ下まで迫っていた。

 身体を横穴に引き上げ終えると九郎は立ち上がり、すぐさま駆け出す。

 横穴を恐る恐る調べていたベルフラムを横抱きに持ち上げると、今度は全速力で走り出す。


「何? 何? 何? どうしたのよっ!」


 いきなり横抱きにされ、ベルフラムが慌てていた。


「後ろ見りゃあ分かるっ!!!」


 必死の形相で走りながら九郎は叫ぶ。


「後ろって……」


 横抱きにされたベルフラムが、九郎の肩越しに後ろを見る。

 魔法の光はもうかなり光量を落としていて、今は10メートル先も見えない。

 だが空気を押し上げるような圧力は感じられたのか。


「何? 何か音が近付いてきているような……」


 ベルフラムは、薄暗い闇の中から大きな質量が押し寄せてきている事を感じ


「ひっ!!!」


 小さく息を飲みこんだ。


 土砂がすぐ近くまで迫って来ていた。

 酸に濡れ、ぐずぐずに成った、巨大な泥の塊がゆっくりと迫ってきていた。泥の濁流は滑るように横穴に流れ込むと、なにかに運ばれるように追いかけてくる。


「さっきの場所が巨大ミミズの胃の中だったんなら、ここがどこかも分かるだろうっ?」


 空元気で九郎が片目を瞑り、ベルフラムがまた顔を強張らせた。

 踏みしめる足元が、僅かに振動していた。先に続く道に目を凝らすと、稲穂が揺れるように波打ち蠢いている。

 奥へ奥へと誘う様に、穴全体が脈動している。


「どうするつもりなのよっ!!!」


 ベルフラムは九郎を見上げ、不安そうに問う。


「そりゃ、とっととお暇するんだよ! もちろん出口からなっ!」


 走りながら九郎が答える。床全体が動いている為か、走るスピードは風の様に早い。平面エスカレータの上を走っている気分だ。


「出るってどういう事? 私達食べられちゃったのよ?! 出口なんて……」


 そこまで言って、ベルフラムは眼を見開いて九郎を見る。


「あなた、何考えてるのよっ!! 嫌よっ! 信じらんないっ!」


 腕の中で暴れるベルフラムの抗議を無視して九郎は走り続ける。

 後ろに迫る泥の濁流は、床にしみ込むように水分を抜かれ、乾いた砂になって追って来る。


「どの道ここまで来ちまったら、結果は一緒だ! 死んで出るか、生きて出るかだ! だったら生きて出る方を選ぼうぜ、ベルフラム!!」


 九郎はやけくそ気味に叫び、ベルフラムに笑いかけた。

 こんな時に笑顔を向けられ、ベルフラムは呆気に取られ、涙の溜まった瞳で九郎を見あげる。


「……私の人生の最大の汚点になりそうね……」


 ベルフラムは九郎の首に手を回し、小さく一言呟くとぎゅっと目を閉じた。

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