第009話  俺のモツ


 異世界に転移して8日が過ぎようとしていた。

 九郎は今晩の寝床を岩棚の陰に定め夜の準備を始める。

 この世界に来て早8日。どうやらこの体は餓死しないらしい。未だに動けることが何よりの証拠だ。

 『フロウフシ』の肉体は飢えでは死なない。それが早くも分かった事になる。

 しかし餓死しないとは言っても腹は減る。生きているのだから当然だろう。


「くっそっ!」


 九郎は荒んだ目で薪になりそうな枯れ木を集め始めた。


 この乾いた大地でも育つ強い植物は存在していた。

 今や九郎の主食になっている、根の無い毒草もその一つだが、九郎は別の植物も見つけていた。

 最近たまに見かけるようになった、腰までしかない低い木は、それ自体何の水分も腹の足しにもならなかったが、備長炭のように硬く、火をつけると長い時間燃える事が分かっていた。


 九郎はその事を発見して以降この木々を燃やし、乾燥地の冷たい夜を凌いでいる。


「持ってきたモノの中で、100円ライターが一番役立つとはなあ……」


 いつものように雑草どくそうで飢えを紛らわせながら火を付ける。

 数秒とたたず積み上げた薪が燃え上がる。


「……焼肉食いてぇなあ……」


 日本で食べた、食べ放題の焼肉の味が今は恋しい。

 固形物と呼べるものは土と草しか入れていない。

 滴る脂の焼ける匂いを思い浮かべ、九郎の腹がグゥと鳴る。


「熱っ!」


 ぼーとしていたのだろう。誤って火の着いた薪を握ってしまって手の平を火傷してしまった。

 自分自身の焦げる匂いに腹をならすなど、笑えない。

 九郎は自嘲を浮かべて手を開く。


(これも直ぐに治っちまうんだろうけどな……)


 水ぶくれした手のひらからは早くも赤い粒子が湧き出していた。

 赤い粒子が手のひらを覆い、数秒もたたず綺麗な手のひらが姿を現す。最近再生のスピードが上がってきている気がする。


(『ヘンシツシャ』の能力はさっぱり解んねえし……)


 『フロウフシ』の力は身に染みて感じている。目を覆いたくなるような惨状も、気が狂いそうになる飢餓感にも、その効力を如何なく発揮している。

 しかしそれは現状を打破するような力では無い。

 死なない――その一点で九郎をこの世界に留めているが、孤独からも空腹からも逃れる術を持っていない。


 溜息を吐きながら、九郎は新たな薪を拾い上げる。

 すぐに治るのだろうが、熱いのはこりごりだ。火傷時の熱を思い出し、九郎が慎重に薪を手にしたその時――。


 ぼうっっ!


 まだ火にくべてない薪がいきなり燃え上がった。

 しかも握っていた箇所。


「でゅわっ!!?!」


 九郎は驚き薪を放り投げる。


「なんだぁ?」


 訝しみながら右手を見ても、先程と同じように火を掴んでしまったと言うのに、今度は火傷もしていない。

 再び火の着いていない薪を右手に取ると強く集中させる。すると――

  ぼうっ!!

 またもや薪が炎に包まれた。


「おいおいおいおい! やっちまったかぁ!! 来ちまったかぁ!! 俺の『神の力ギフト』が!」


 燃え続ける薪を持ちながら九郎は興奮した声をあげた。

 不思議なことに手の平はもう熱さを感じない。


「これでこそファンタジーてもんだよな!」


 瞬く間に薪は燃え尽きた。が、手の平は未だに仄かに赤く熱を持っている。

 手が炎に『変質』している。

 そう感じた九郎は、怒った墨のような光を放つ手のひらを見ながら、治まらない興奮に身体を震わせた。


「いいじゃん、いいじゃんっ! 炎ってレッドだよな! ヒーローらしいじゃねえか!」


 出来た事は100円ライターと変わらない。

 しかし九郎はその身に宿った異能の力に興奮していた。

 『フロウフシ』と言う受け身の極致のような力では無く、燃やすと言う能動的な行為に気持ちが昂る。


「焼け木杭ぼっくいに火が付いたってか? んだよ、ソリストネ! 焦らしやがって!」


 ライターのオイルも心許無かった所だ。

 思わず集めていた薪全てに火を付け、不気味な儀式のようになる。

 しかしずっと飲み込まれそうな暗闇の中、僅かな炎で心と体を温めていたのだ。

 熱気に蒔かれて、九郎の気持ちも熱く燃える。


 と、その時――――。


   ざさり


 不意に傍で物音がした。見ると3日前に見かけた黒い6本足の犬が薪の炎に照らされ姿を現していた。

 黒犬は低く唸り声を上げながら、ゆっくりと九郎に近付いてくる。


「おいおいおい!? なんだよなんだよ! 今日は良い日だなぁ?! 必殺技を見出した俺に肉のプレゼントか?」


 興奮冷めやらぬ様子で九郎は黒犬と対峙する。

 間近で見るその黒犬は、柴犬とは似ても似つかぬ凶悪な顔をしていた。

 獰猛そうな目、大きな顎。低い声で唸る口元には黒い大きな牙が並んでいる。

 平時なら、怖気付く事間違いなしの形相である。


 しかしこの時の九郎は新たな力を得た事で調子に乗っていた。

 開いていた手を握り込み両手を構える。拳が赤く熱を帯びてくる。


「足が少し多いだけの柴犬モドキに負ける俺様じゃねえぞ! かかってきやがれっ!!」


 そう言うと九郎は一歩踏み出す。

 黒犬は九郎の動きに合わせるように一歩後ずさると、


 ォォォオオオオオーーーーーン!!!


 高く遠吠えを上げた。


  ざさり。ざさり。ざさり。


 その声が消え入る間際、新たな黒犬が瞬く間に6匹、炎に照らされ現れる。


「はっ! 数でどうこうしようってのか?! 上等だ!! 犬っころっっ!!」


 ついぞ発現した自分の能力に興奮した九郎の啖呵に、黒犬達が獰猛な唸り声で返事する。

 戦いの火蓋ゴングは拳を打ち鳴らした九郎の雄叫びと、野生の獣の咆哮によって夜の荒野に木霊した。


「ガラァッウ!!!」

「らっさっせー!」


 最初に姿を現していた黒犬が涎を垂らして飛びかかって来る。同時に九郎は赤く光る右拳をカウンター気味に思い切り突き出す。

 ぶちぶちと嫌な音させながら右拳が黒犬の鼻先をとらえる。

 拳を鼻先にめり込ませた黒犬はギャンッと鳴いて数十メートルほど吹っ飛んだ。


「なんだぁ!? 力も強くなってたんかよっ! 当然だよなっ! これから英雄になろうってのによっ!」


 想像以上に吹き飛んだ黒犬に、九郎は興奮をさらに高めて拳を掲げる。異世界に来て初めての戦闘で、頭の中はアドレナリンで一杯だ。

 しかし掲げたと思っていた九郎の右腕は、ぶらんと力なく垂れ下がっていた。


「な?!?」


 先程の嫌な音は自分の腕の筋が切れた音らしい。九郎がそれに気付いたのは、赤い粒子が垂れ下がった腕に纏わり始めていたから。


「っっちょっ!! った、たんま!」


 プラプラ揺れる右手を掲げ、次々と襲い掛かってくる黒犬に九郎は通じる筈もないセリフを吐く。

 二匹目の咬みつきをすんでの所で躱し、左足で蹴り上げる。ぶちんとまた嫌な音が鳴る。

 次に感じるのは右足の鋭い痛み。三匹目が黒々と光る牙を右脹脛に突き立てている。

 バランスを失い、九郎はもんどりうって地面に転ぶ。

 ここぞとばかり黒犬が飛びかかって来る。


「がっっっ!! ちょっと待てって! ぐっ! ぎっ! がぁぁっ!!」


 ぼぐんと鈍い音が暗闇に響いた。続くくぐもった悲鳴は闇に消える。

 焚火の炎に照らされた九郎の顔は体と逆向きに折られ、ありえない方向に向いて弱り顔を浮かべていた。


(力が強くなったのは脳のストッパーが無くなってたからかもなぁ……)


 6匹の黒犬に齧られながら九郎は大きな溜め息を吐き出す。

 首と体が逆向きだろうと、『不死』の九郎は死んでいない。

 体に突き立てられる牙の感触に顔を顰めながらも、その痛みすら徐々に慣れて感じなくなってきている。

 チュートリアルで負ける自分に、遣る瀬無い気持ちはあるが、余裕は戻って来ていた。


 通常、人は体を壊してしまわぬよう、脳にストッパーを掛けているらしい。しかしながら、今の自分には体を壊すことが無い。だから今までとは別次元の力が出せたのではないか――そんな風に考えを纏める。

 酷い状況にありながら、どこか暢気に九郎が自分の力を考察していると、突き立てられた牙の傷跡に赤い粒子が纏わり始める。体の再生が始まった――九郎が安堵の吐息を吐き出すと同時、今度は黒犬達は一斉に九郎の腹に牙を立てた。


「っっっっっでぇぇぇぇぇえええええええええっ!!!」


 再び襲って来た痛みに、九郎は叫び声をあげて悶絶する。

 突然体をのけ反らせ大声を上げた九郎に驚いたのか、黒犬は九郎の腹に鼻先を突っ込むと腸を咥え一目散に散っていく。


「待てっ!! 持っていくんじゃねえっ! それは俺のモツだっ!!」


 九郎は焦って手を伸ばす。

 その言葉に応じるかのように、赤い粒子はすさまじい速度で九郎の腹から伸びていき―――


「返せっ!!!」


 九郎の声とともに急速に収縮した。

 赤い粒子は腸を咥えた黒犬もろとも引き寄せ、一瞬の時を待たず、九郎の腹はすっかりと元に戻っていた。


 顔を九郎の腹にめり込ませたままの六匹の黒犬達は、数度体を痙攣させると九郎の周りにどさりと落ちる。

 全ての黒犬の顔面は削り取られたように無くなっていた……。


「結局一番役立つのは『フロウフシ』の力かぁ……。この赤い粒子は副次効果だってのにこの威力。でも毎回痛い思いすんのだなぁ……」


 その後ろ向きの言葉と裏腹に九郎の顔には満面の笑みが浮かんでいる。

 今の自分では痛い思いをせずには、柴犬程度の動物にも勝てないことも分かったが、それは既にどうでも良い。なにせ待ちに待った固形物の食料を手に入れたのだ。


「約一週間ぶりのにっくだぁぁぁぁぁ!」


 九郎は周囲で頭を削られ事切れている黒犬の一匹を掴みあげ、焚火の炎の中に放り込む。動物の解体方法は猟師であった祖父から習って知ってはいたが、ナイフも持たない今の状況では役に立たない。それにそんな時間も惜しいと思う程、九郎は腹ペコなのだ。


「犬ってどんな味がするんだろうなぁ。海外じゃ食うところもあるって言うし、不味い訳じゃねえはずだよなぁ」


 手を擦り合わせて漂う匂いに目を細める。油の弾ける音と、漂ってくる匂いの暴力に待ちきれないと燃え盛る炎の中に手を突っ込む。

 熱さは感じない。いや、今の九郎であれば、例え熱さを感じていても同じ行動を取っただろう。


「ゴチになりやーっす!」


 顔の削れた犬に向かって一言言い、九郎は焼け焦げた犬の背中に歯をたてる。

 焼く時間が短かったのか、焼け残った犬の毛がチクチク舌を刺激した。

 血抜きも何もしておらず、鉄臭い匂いも鼻を突く。

 しかし齧った瞬間口に溢れる脂の甘味は何物にも代えがたい。


「結構いけんじゃねえか!」


 初めて食べる異世界の犬肉の味は筋張って少し固かったが、とても美味く感じられた。――――――さも当然のように毒が有ったが……。



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