四十四

 廊下でひとりで泣いていると、302号室から吉田知子が出てきて、美名の近くに寄ってきた。

「だいじょうぶ?」と知子が言った。

「いえ、すみません。マンションのことで、喧嘩が始まって……」美名は頬を伝う涙を袖でぬぐった。

 301号室には、もう理佐はいない。偽装の疑惑が報道された数日後、早々と配偶者との離婚が成立して、数日前に引っ越して行った。

「あのね、美名ちゃん。そのうちお知らせしようと思ってたんだけど、ウチもそろそろ引っ越ししようと思ってるのよ」知子が言った。

 3階以外の住人も、耐震偽装がわかってから、逃げるように引っ越しする人が後を絶たない。マンションの一回には、毎日引越センターのトラックが停まって荷物を搬入してる。

「やっぱり……、このマンションの偽装のことが原因ですか?」

「それもあるんだけど……、実はわたしね、ちょっと恥ずかしいんだけど、この歳になって妊娠しちゃったのよ。来年出産になる予定だから、37歳の高齢妊婦になっちゃうのよ」

 城岡家の地獄のような状況とはまったくことなる吉田家の事情を聞かされ、美名は驚いて何も反応できなかった。

「聖羅がいなくなってから、旦那もわたしも生きていく気力がずっとなくなってたんだけどね、ちょっと前の心霊現象があったでしょう? あれが原因で、ふたりでおびえているうちに、"幽霊はいるのか"とか"人は死んだらどうなるのか、天国や地獄はあるのか"みたいなことを夫婦で話し合ってるうちに、聖羅が亡くなったということにちゃんと夫婦で向き合うようになって、強く生きなきゃいけないという気持ちになってね。それと、須磨さんって言ったかな、あの霊能者さんが主人に『前を向いて生きろ、亡くなった娘さんもそれを望んでいる』みたいなことを言ったのも、大きな励みになったらしくて。でもまさかこの歳になってから妊娠するとは思わなかったけど……。きっと聖羅が産まれ変わってきてくれたのね」

 そう言いながら、すでに知子は幼い子供を慈しむ母親のような表情になっていた。

 305号室の中からは、夫婦喧嘩が続いているらしく茶碗やコップが割れる音が、唯介の怒鳴り声とともに響いてくる。

「主人の実家が、田舎の山のなかでけっこう大きな林檎農園をやってるんだけど、両親が歳を取ってそろそろしんどくなってきたから、帰ってきて手伝わないかって言われてね。子供を育てるなら、田舎のほうがいいかもしれないなんて話し合ってたんだけど……、いまいち決めかねてると、そこに降って湧いたようにこのマンションのことが発覚したでしょう? だから、ちょうどいい機会だから、そういうことに決めたのよ」

 理佐もいなくなった。302号室も空き室になる。303号室には当然、次の住人は入っていない。城岡家だけが、このマンションの三階に取り残されることになった。

「美名ちゃんも、元気出してね。今はたいへんだけど、前を向いていれば必ずいいことあるわ。……子供のころ、聖羅と仲良くしてくれて、本当にありがとう。わたし、美名ちゃんのこと、聖羅と同じくらい大事に思ってたから、離れ離れになるのは寂しいけど、また連絡するね」

 そう言って知子は302号室に帰っていった。

 いきなり305号室のドアが乱暴に開いて、ハンドバッグを持った真子が飛び出してきた。

「お母さん……」

 美名がそう声を掛けると、真子はちらりとこちらを見たが、やがでエレベーターとは反対側にある非常階段のほうへ行った。

 真子のサンダルと非常階段の材質の金属とがぶつかる音が響いてくる。

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