第35話 魔法は解けた

 古い記憶の扉を開く。この顔立ち、私は知っている。でもこんな晴れやかな表情した人だっただろうか? 私の持つデータベースから最も近い人の名を呟いたものの、あまり自信はない。


「えぇ、そうよ。そんな呼ばれ方するの久しぶりだから何だかくすぐったいわ」


 千尋さん。彼女は私の学生時代、同じ研究室でお世話になっていた一つ上の先輩だ。当時は、心霊スポットで出てきそうな程におどろおどろしい独特の空気をもった人だった。腰まで届くほどに長く伸ばした黒髪に、大きすぎる黒縁メガネ。病的までに青白い肌。私以上に日陰が似合う人で、年頃にも関わらず毎日よく似たジーンズとトレーナー、夏は黒いTシャツという格好を貫いていた。


 私はそんな地味というよりも不気味とも言える先輩から、研究室の居場所を与えてもらっていた。特に多く言葉を交わしていたわけではないが、お互い自分たちが世間からどう見られているのかを自覚していたため、様々な場所で助け合っていた。研修室内の連絡事項をメモにして渡しあったり、強制参加の飲み会ではボッチを隠すためにお互いが隠れ蓑となった。千尋さんという前例があることで、私の地味さも研究室では許容されやすかったし、彼女に比べると私はまだ強烈ではなかったから、私は私のスタイルを卒業まで守ることもできた。


 それなのに……。


 目の前の千尋さんは、完全に別人だった。私も今夜は別人のつもりだけれど、こんなの子ども騙しだと思えるほどの変貌ぶりだ。


 長かった髪は艶やかな黒髪のままだが、ショートになり、幾分体型はほっそりして、肌は以前よりも血色が良く見える。化粧もきちんとしていて、すっと通った鼻筋にぽってりとした唇はベージュの煌めきを放っている。服はあの頃ならば絶対に着なかったであろう白いワンピースで、胸元はレースで肌が透けて見えるのに清楚感がある。彼女自身の表情も、遅刻してきたにも関わらず落ち着き払っていて凛としている。学生時代にはなかった明るさが、ある。


 心を覆ったのは敗北感だ。私か、私以上に女を棄てていた彼女が、今は圧倒的な女の魅力を纏っている。そして、この場に大変相応しい地に足がついたキチンと感があるのだ。


 私は視線を下ろして自分の格好を眺めた。悪くはない。だけど、これはまるで友達の結婚式にかけつけたかのような姿。そうか。パーティーという名前がついていても、全てのイベントをひとまとめにはできない。このようなビジネスの場であれば、それはそれで別の装いが求められるし、キラリと光る格好の定義も違ってくる。


 思わずため息が漏れた。私はすっかり森さんに任せっきりにしてしまっていたけれど、よく考えたら森さんもこういうビジネスのパーティーなんて場には行ったことがないはず。森さんを責めることはできないし、何よりも入社してからこの五年、相変わらず『変わらない』ことに固執し、そうすることで自分を守れるのだと自ら騙し続けてきた私が悪い。


 そう、五年もあったのだ。これ程も長い時間があれば、あの千尋さんでも変わるきっかけがあったのだろう。


「紀川さん、綺麗になったわね」


 千尋さんがコロコロと笑う。テーブルの上の花よりも艶(あで)やかに。


「千尋さんこそ」

「実はね、この春に結婚する予定なの」

「……そうなんですか。それは、おめでとうございます」

「ありがとう」


 そうか。これは、結婚を控えた女性の輝きなのか。私の職場がある本社二階でも、時折女性社員が結婚する。その時が近づいてくると、皆総じてキラキラとしたオーラを振り撒き始める。私には一生縁が無さそうな現象。


 そう言えば、SNSでも学生時代の他の同級生が結婚したと書き込みをしているのを見ることが増えた。二十代半ば。普通は、そういう人生のイベントを迎えるタイミングなのだろうか。でも私は……。


 私はその後竹村係長を千尋さんに紹介し、千尋さんからも隣に座る男性二人を同僚だと言って紹介された。


 千尋さんは、織機メーカーに勤めている。同じ業界のメーカーだけれど、千尋さんのところは母体となる会社が巨大なこともあり、労働環境を含め何かと待遇がうちよりも優れているようだ。長期の海外研修なんて梅蜜機械では考えられないもの。プライベートの話を聞いてみても、かなり羽振りが良さそうだった。私は自分が住んでいる古アパートのことを思い出して、口の中が苦くなった。


 その後も私が座るテーブルでは会話が盛り上がり続けた。千尋さんはハキハキと話すようになっていたし、千尋さんの同僚も竹村係長も同じメーカーだけれど競合はしていないので、穏やかな雰囲気で情報交換をしている。しばらくすると、他のテーブルの方にも挨拶しに行くと言って、私以外の皆が席を立った。いつもならば、竹村係長に「私を置いていかないで!」と言ったかもしれないけれど、この時ばかりは一人になれてほっとしていた。


 ちょっと気を抜いたら涙が流れてしまいそうで。なんとか平静を保つのに必死だった。


 途中、主催側である古田社長がわざわざ私のところに来てくれた。突然の招待を詫びつつも、「うちのイベント、なかなか良かったでしょ?」という言葉を忘れないあたり、さすがである。私は招待に対する感謝を述べつつも、どこか上の空だった。


 十二時の時計の音を待たずに、シンデレラの魔法は解けた。もしくは、溶けた。いや、そもそも魔法なんてかかっていなかったのかもしれない。いつもより見栄えのする外見になったつもりだったのは私だけで、本当は裸の王様も同じ。


 パーティーが終わり、私は再び竹村係長の車に乗り込む。私は、竹村係長がパーティーの途中からずっと私の方を心配そうに見つめていたことに全く気づいていなかった。なんてたって、私の視界には白いモヤがかかっていて、全ての物事が朧気になっていた。


 同じ穴の狢(むじな)だと思っていた人が、生まれ変わったかのように美しく快活になっていたという事実。私だけ取り残されてしまったことに対する寂しさなのか、勝手に裏切られたような気持ちになってひたすらに惨めで虚しいのか、詳しいことは自分でも分からない。千尋さんの変化は、私自身が考えている以上に大きな衝撃だったということだろう。人はあまりにショックなことが起こると記憶喪失になるケースがあると聞いたことがあるが、今はそれに近い。頭の中を消しゴムが何往復もして、先ほどのことを無かったことにしようとしている。白で埋め尽くされていく。


 私って、私の存在って、何なのだろう。このまま記憶が曖昧になって、空気に溶けて消えてしまうんじゃないだろうか。そんな不安が胸の中を渦巻いて離れない。


 帰り道はあっという間だった。高速を降りて梅蜜機械がある街に入り、車は駅前に近づいていく。赤信号で止まった時、視界の端に竹村係長が住む高層マンションが見えた。今日も天高くそびえている。


「紀川」

「はい?」


 我ながら、間抜けな声しか出ない。


「大丈夫か?」


 竹村係長は眉間に皺を寄せていて、必死な形相でこちらを見つめている。私は何も答えられないまま、数秒が過ぎた。


「今から……俺ん家、来る?」



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