結界
「
かすかに聞こえる、耳に慣れた声。幻聴だ、とわかっていても、最後に耳に残るのが、炎の爆ぜる音だけでなくて良かったと思えてしまう。
「雪花?」
ああ、怒鳴らないで。最後なんだから、優しく呼んでくれてもいいじゃない。
「雪花?いるか?」
壁を叩く音が背中から聞こえる。身体を預けている壁が揺れる。珠樹、本物?
一瞬で、頭の中の霧が晴れた。炎が目の端に映る。怖い。恐怖が胃をせりあがってくる。それでも、声をあげる事はできなかった。私がここに居ることをしったら、珠樹は逃げてはくれない。
「雪花!どこだ?」
珠樹は、私がここには居るとわかっている。そういえば、迷子になった私をいつも見つけてくれたのは、珠樹だった。熱くなった壁を力の限りに叩いた。身体が弱っているのか、頭がぼうっとしているからか、大した音は出ない。それでも、気が付いて。
「珠樹!私は大丈夫だから、紫陽さんを探して」
叫びながら壁を叩く。空気が熱く息を吸うと喉が痛い。
「雪花、離れていろ」
煙の出口となっていた隙間から細い角材がのぞき、音を立てながら穴を広げようとしている。それ、お祓い用の
少しずつ広がった隙間から、珠樹の指先が見える。壁となっている板を掴み、何とか広げようとしているのがわかる。いや、ここ神社だよ?古くても壁の板は厚いから、手じゃ無理でしょう。火傷するし無理だとわかっているのに、嬉しいと、諦めないでと思う私は本当に薄情な女だと思う。
でも、逃げてほしいと思うのも本当。どうか、珠樹だけには生きてほしい。
『緑龍の加護を受ける者よ、退けぬのであれば我をここから出せ。さすれば、火は消そう』
頭に響く、黒龍様の声。『ここ』って、どこ?わかんないけど、今は珠樹だ。
「珠樹、ここは大丈夫。黒龍様が火を消してくれる。黒龍様を探し出すのに、少し時間がかかりそうなの。だから、珠樹はここから離れていて。すぐに、珠樹の所に行くから」
「……」
「お願い、離れていて」
「ここにいるから、迎えに来てくれ」
何言っているの?ここも、もう少ししたら火が来る。そうしたらこの壁だって崩れるし、何よりこの社自体いつまでもつかなんてわからない。社が崩れたらどうする気?
言葉にならない言葉を紡ごうとすると、珠樹が壁の向こうにへたり込む音がした。
「どのみち、たいして動けない。だから、黒龍様を救い出したら迎えに来てくれ。黒龍様なら、俺の事も運んでくれるかもしれないし」
「間に合わなかったら、どうする気?」
「……間に合わせるんだろう?信じているから、早く」
「……わかった」
本当なら熱が高くて動くこともつらいだろうに、来てくれた。それなら、私もそれに答えよう。
もう少しだけ、待っていて。
「黒龍様は、どこに?お願い。黒龍様を、探して」
数珠を左手から外してさっきよりも激しく振り回すけど、風は煙を運ぶだけだ。壁の隙間を通る風の音が、泣き声のように聞こえる。わからないんだ。
黒龍様、貴方の従者が泣いています。
『緑龍の加護を受ける者、こちらへ』
頭の中に響く声は、炎の燃え盛る方へと私を導く。これ、本当に黒龍様なのかな。まさか、珠樹も黒龍様も、紅(ホン)河(フェァ)が見せている夢なんじゃ。一瞬不安がよぎったが、風は黒龍様の声に従う私を止めない。この声を黒龍様だと思った自分の勘と、風鬼さんの風を信じたい。
導かれて進んだのは、炎にまかれながらも不自然なぐらい焦げ一つない柱。炎がこの柱をよけているような気さえする。ここに、黒龍様が?
『この柱を、壊せ』
これを壊せば、黒龍様は自由に動ける。でも、炎でも壊れることのない柱をどうやったらいいのだろう。
柱に手を付け中の気配を探れば、何度も頭の中に話しかけてきた黒龍様の気配を感じる。
これが、結界。人ならざる者の力で壊しては、ならないもの。
結界は神力で結んでおり、その力の均衡を壊すことで効力を失うと聞いた。だけど均衡壊す方法は?
私が
黒龍様、黒龍様、どうか返事をして。
目の前が暗くなり、身体が崩れていくのがわかる。自分の身体が崩れていくのが、何故か見える。
ああ、私の身体このままだと燃えるかも。でも、身体が軽くなった。この姿なら、迎えに行ける。
迷わず柱に手を伸ばす。思った通り、私の両腕は柱にのみ込まれていき、あっという間に真っ暗な空間に立っていた。ここが、結界の中。
わかる、黒龍様が側にいる。正確な位置はつかめないけれど、それでも黒龍様はこの闇の中にいる。
どのくらい歩いただろう。身体を捨ててきたせいか疲れは感じないが、それでも時間の経過は不安をあおる。私の身体、燃えてないよね……。
そもそも、私が抱き着けば腕を回せそうな太さの柱だったのに、これだけ歩き回れるっていうのは、どうしてだろう。結界って、いったいどうなっているのだろう。
私は、何も知らない。いや、知ろうとしてこなかった。神力の扱いを少し教えてもらって、あとは紫陽さんに任せっきり。我ながら、情けない。
だめだ。落ち込んでも黒龍様は見つからない。今はただ、少しでも早く黒龍様を探してここから出なくては。
今の私に、出来ることは?
私が紫陽さんに教わったのは、神力を使って気配をたどる事。それは、黒龍様と宝珠を探すため。『私がどこにいるか、何をしているか、知ろうとして』朝陽の言葉が頭に浮かぶ。そう、知りたい。私は、黒龍様がどこにいるのか知りたい。
胸の中で黒龍様の名を紡ぎ、闇の中を神力で探る。
私は、何も出来ない。何も知らない。自分に神力があるなんて信じられない。
でも、この神力は朝(チャオ)陽(ヤン)の加護で有り、紫陽さんの教えだ。二人が、黒龍様を救い出すために私に与えてくれたもの。この力は信じられる。
闇の中から私を導く気配を感じる。とても強く気高い気配が、真直ぐに私に届く。早くしろ、と言うように私を導く。
「やっと来たか。人の娘よ」
探し当てた先にいたのは、闇の中で灰色の霧に包まれている龍。私が両手を広げたよりも少しだけ大きい。黒い体に金色の瞳、頭には朝陽と同じ鹿のような角がある。まぎれもない。黒龍様だ。
朝陽が人の姿をしているから、黒龍様も人の姿をしていると勝手に思い込んでいた。驚きを隠せず、声も出ない私をみて、不服そうに溜息をつく黒龍様。
「我をここから、出せ」
はい……。
とりあえず、恐る恐る灰色の霧に腕を伸ばす。霧に包まれた瞬間、腕に刺されるような痛みが走った。これが、結界。黒龍様は、この中にずっといた。
一歩進むごとに体中が見えない何かに刺されているように痛み、歩を阻む。黒龍様はずっとここにいたんだ。私だって、少しぐらい。
ゆっくりと、黒龍様に触れてみる。魚のような感触を想像していたが、実際触れると、湿り気もなく、固いかと思った鱗は柔らかく、まるで馬を撫でているよう。『出せ』って言ったよね。黒龍様のお腹辺りに腕を回して、力を入れて、立ち上がる。私よりも大きな身体。重いと覚悟をしていたのに、拍子抜けするぐらい軽く、勢い余って黒龍様の尻尾を踏んでしまった。
「も、申し訳、ありません!」
「……よい、疾くここから出せ。人ならば、出来るはず」
はい。今すぐに。軽い身体は、運ぶには困らない。尻尾を引きずるのは、許していただこう。霧から一歩踏み出した瞬間、引き留められるように身体が重くなり、黒龍様を抱いた腕を、見えない炎が包んだ。
痛い!熱い!って、黒龍様も目を閉じて苦しんでいる。さっきまで柔らかかった身体には、不自然に力が入って固くなっている。これ、無理に出ない方がいいんじゃ。
「疾く、出せ。結界から出れば、其方の痛みも消える」
痛みをこらえるような低い声。出れば、痛みは消えるの?黒龍様も?
それなら、もう少し我慢してください。
黒龍様を強く抱き、勢いをつけて何とか霧から出ると、確かに痛みは和らいだ。
が、見えない炎に焼かれた腕は感覚がなく、黒龍様から離すこともできないうえ、痛みを受けた体はもう動きたくないと訴える。私は黒龍様を抱いたままその場に倒れ込んだ。
どのくらいそうしていたんだろう。黒龍様が、腕の中で動き出した。お願い、動かないで。腕が落ちてしまいそう。
「娘、起きろ。ここを出るぞ。其方とて身体がなくなるのは困るであろう」
「……はい」
そうだ。もたもたしていたら燃えちゃう!身体がなくなるのも、珠樹が助からないのも困ります。急ぎましょう。
あれ?でもそういえば、身体が無いのに何で痛いんだろう。結界からでたら痛みも消えるって言っていたのに。
「その痛みは身体に戻っても続く。身体がなくなれば、今そこにいる其方も消える」
呆れたようにつぶやく黒龍様。って、結界から出たら痛みは消えるって言わなかった?嘘、ついたの?
「まだ動けぬのであろう。乗れ」
私の腰のあたりでフワフワと浮かぶ黒龍様。優しさは、あるのよね。さっきのは、嘘も方便ってやつよね?
でも、いいのかな?黒龍様、ずっとあの中にいたのだから私よりもつらいと思うのに。戸惑っていれば、早くしろ、というように龍の尾で叩かれた。痛いです。
「約束を違える気か?其方が死ねば、宝珠は取り戻せぬ」
そうだ、まだ終わりじゃない。宝珠を取り戻さなくちゃ。そっと黒龍様の背に身体を預ける。気高いこの龍に、気遣いの言葉は失礼になる気がして、ごめんなさいの言葉は胸に押し込んだ。
黒龍様は滑るように闇を飛ぶ。出口、どこだかわかるんだろうか。
「案ずるな、其方の身に着けている風鬼の風が、導いてくれている」
あ、考えていることわかりました?ちょっと気まずい空気をごまかすように笑えば、無言でさらに速度を上げる。突然、暗闇は灰色の世界に変わった。これ、煙?
「戻れ」
へ?どこに?問おうとした瞬間、私の身体に重みが戻った。黒龍様の背に預けていたはずの私の身体は、熱を持った柱に寄りかかり、さっきまでとは比べ物にならないほどの痛みと重みに襲われる。熱い。息苦しい。黒龍様、早く、火を消して。
「すぐには、火は消さぬ」
「なぜですか?」
「結界は完全に消滅したわけではない、このまま、燃やす」
結界を燃やす。珠樹は?この社の外で、動けなくなっているの。火が消えなくちゃ、助からない。
「風鬼の風が、炎から守っている。炎は、外の男には向かわぬ」
風鬼さんの風が珠樹を守る?それを信じて、このままここにいて、いいのだろうか。
「我が従者が、信じられぬか?」
そんなことはない。ない、けど。力が及ばないことだって、あるかもしれない!
「案ずるな。我が従者は、この程度の炎に負けはせぬ」
黒龍様が、自信たっぷりに笑う。大丈夫、だよね。
黒龍様が柱の周りをグルグルと回ると、風が炎を操り、柱は赤く染まる。染まる、のに。
炎にまかれながらも相変わらず焦げ一つない柱に、凛々しさすら感じてきた。どうして。
「どうして、こんなに……」
これが、紅河の施した結界。これだけの神力を持った人が、龍庭から春を奪った。怖い、と素直に思った。これだけの力を持った人が、どうして。
「我らの神力は使えぬからな。其方の放った炎では、紅河の神力で作られた結界を壊すには、少々時がかかる。しかし、壊せぬわけではない」
案ずるな、と言いながら変わらずに柱の周りをグルグルと回る。風が、私から炎を遠ざけてくれているが、建物の中はすでに炎に焼かれ崩れかけている。空気が熱い。肌が、喉が痛い。
柱が燃える気配は、全くない。周りにあるものはどんどん燃えているのに。何かが燃えれば、柱も一緒に燃える?これ以上は耐えられない私は、腰帯をほどき、柱に結び付けた。ちょっと、着物がはだけるけど、仕方ない。
「これに火をつけたら、柱にも移るかもしれない」
早く、と訴えた私に黒龍様が笑った、気がする。私の腰帯を燃やした炎は、上手く柱に移り、勇ましく舞いだした。頑張れ、頑張れ、と炎に向かってつぶやいてみる。
「もう、いいだろう。後は、放っておいても燃える。出るぞ、もう一度、乗れ」
再度、私の腰のあたりにフワフワと浮かぶ黒龍様。助かった、と思った瞬間、目の前が真っ暗に変わった。
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