愛情は6ミリで

射矢らた

 カチン、と音がして、私の安全装置セフティがはずれた気がした。

 ――やってやる。

「今夜も会う約束してますよ。またお決まりのコースでしょう」

 昼下がりの喫茶店で、窓から刺し込む日差しに額を覆いながら担当調査員の男は言った。私は俯き、黙ってタブレットに映る写真を一枚いちまい丹念に検める。彼は続けた。

「今までずっと耐えてきたんでしょう。泣き寝入りなんてすることはないし、やりたいことやらないと損ですよ。これは僕の持論ですけど」

 彼は気休めで言ったのかも知れない。けれどその言葉は私の背を押した。

「調査、ここまでの分お支払いします。今晩、自分でケリつけますので」

 私は写真を全部スマホに送ってもらい、依頼料を現金で清算し、コーヒー代を渡してタクシーで家に戻った。今朝早く夫を見送ってから開始した片づけの続きを始める。先週末に予約を入れた引越し屋が二人組で刻限ぴったりに来て、一時間もかからずに私の指示したものだけをトラックに積み込んだ。私は長年暮らした部屋をぐるりと見渡し、トラックに乗った。車は三十分ほど走り、年季の入った団地の一角に到着し、小一時間の作業を終えたのち現金を受け取って引き上げていった。

 少し重いナップザックを背負い、団地の住人になって初めて戸外へ出た頃にはすでに辺りは暗くなっていた。電車を乗り継ぎ、調査員の言った歌舞伎町のラブホテルへ向かう。情報通り、古くて安っぽいホテルだった。一人で入るということと、およそ十年振りに入るということとで店の前でいったん足踏みしたが、つま先だけ見ながら駆け込むようにして入った。ロビーの片側の壁には部屋を選ぶためのパネルがあり、すでに半分以上のパネルが消灯していた。安い部屋は全滅しているようだ。パネルの先にはエレベーターがあり、さらに奥にはフロントの小窓が開いていた。忍び寄り、すみません、と声を掛けると、少し間があってからのっそりとおばさんが顔を出した。情報通り、白髪混じりでべっ甲の眼鏡を掛けている。おばさんは最初から、訝しげな視線を眼鏡の奥から送ってきた。たぶん、監視カメラかなんかで見ていたのだろう。声をひそめて興信所の名前を言うと、ああ、と言ってすぐに手のひらを上にして見せた。

「心付け。みんなやってるの」

 ほんの一瞬理解に時間がかかって、わかってから、心のなかで、チッ、と舌打ちしながら、おばさんが見守る前で財布から三万円、数えて渡した。その際、財布をきらりと見られ、まだあと二、三枚、札が残っていたが、丸裸になるわけにはいかない。手早く財布を仕舞って、言い放った。

「ロビーってビデオ撮ってるんですよね? 画面観ながら待たせてもらいます」

 私はフロントのドアを開けてもらい中へ入って部屋を見廻し、最初に給湯器を見つけ、紙コップに勝手にお茶を注いでモニターの前のパイプ椅子に腰掛け、わざとらしく大きな溜め息をついた。ラブホテルへ来て、セックスができるわけでもないのに三万円も支払ったのだ。お茶の一杯や二杯、当然だろう。

 それから私はモニターと睨めっこを続けた。予定外だったのはおばさんがほとんどの時間モニターの前にいることで、彼女は客がフロントにやって来た時だけ、ずいぶん億劫そうに応対に向かうのだった。部屋から小窓まで少し遠いのだ。おばさんはモニターを眺めることだけが人生の糧とでも言わんばかりに、画面を指差しては、この二人若い、高校生じゃないの、と言って私を無用にぎょっとさせたり、ほら、これブルースワンのゆきちゃん、毎晩二、三人は違う男連れて来るのよ、売れっ子、とか、この二人は不倫だよ、ずいぶんな年齢差だわ、専務かしら、社長と秘書かしら、社長だったらウチみたいなとこに来ないか、とか、毎日毎日これだけを楽しみにやっています、とでも言わんばかりで、真剣に見ている私としてはいちいちうるさかったが、私の事情をことさらに聞き出すようなことはしなかった。

 時計が二十一時を過ぎた。私はもう一度スマホを確認する。夫が昼間に寄越したラインによると、(今日は急に取引先との飲み会が入ったから(泣)、帰りは十二時過ぎると思いまーす。寝てていいからね!)ということだから、そろそろ来てもいいはずだ。

 それにしても、実にひっきりなしに客が出入りする。私は、みんなやってるなあ、と思い、ああ、そうか、と思った。金曜の夜だからだ。

「金曜って、宿泊のお客が多いんじゃないですか? 満室にならない?」

 私は心配になっておばさんに聞いた。心配というのはもちろん、満室になって夫が入室できないようなことになれば、いったん三万円返してほしいぞ、ということだ。するとおばさんは、

「そんなことない。金曜だからってやっぱり泊まる客より休憩の方が多いよ。まあ、成り行きで長居になる客はいるけども。ウチはそんなに満室になることないから安心しなさい」と言った。

 私はそれを聞いて一瞬、いいな、と思った。成り行きで長居。古い記憶の中には、そんな経験も何度かあった。明日はホテルから出勤しよう、と決めてしまった瞬間の、途方もないスリルと幸福感。それから始まる長い長い夜の、めくるめく淫猥な時間。二十代前半の記憶なんてぼんやりしたものばかりだけれど、そういう感覚だけは今でもリアルに蘇ってくる。下腹部が疼いて呼吸が浅くなるのを隠さなければいけないほどに。

 大学時代の先輩だった夫と二十七歳で結婚して、約十年。セックスをしていたのは最初の二、三年だ。いちど流産を経験して、それから私はセックスをしていない。私は夫が、私の流産が原因で行為を躊躇するようになったのではないかと想像し、私のほうから何も言い出さなかった。それは私のバカな見当違いだったのだ。女は三十代前半が一番性欲が強くなると聞いたことがある。私はその年齢期に突入し、何もせぬまま抜けてしまった。その間、夫は私の知らないところでどれだけのことをしてきたのだろう。わかっているだけでも今度で三回目なのだ。私にただの一度も触れようとしなかった約七年の間に、私以外の女と何回セックスをしたのだろう。数え上げてやりたい。夫の親兄弟と、今のようにモニターを囲み、ほら来た、また来た、と、一つひとつ数えてやりたい。ずっとずっと何年間も私に嘘をつき続けて、毎日のうのうと、何食わぬ顔で帰宅して、私の作った料理を批評しながら食べ、汚い下着を私に洗わせ、私が畳んだ下着を履き、私が磨いたお風呂で垢を落としている。

 今度という今度は、もう、許さん。

 決意をあらたにしたその時、二人はやって来た。

「来た」

 私が小声で叫ぶと、おばさんは、ああ、これかい、と言ってモニターを覗き込んでから、小窓へ向かう。夫は女と腕を組み、ぴったりと寄り添って矢鱈に笑っている。女は私と同じくらいだろうか。若くはないようだ。それが余計に腹が立った。二人はしばらくじゃれあいながら部屋を選び、フロントの方へ歩き出した。私は飛びかかりたい気持ちを押さえ、身をかがめてやり取りに耳を澄ます。おばさんがルームキーを渡すと、夫は、

「今日は高い部屋しか空いてないね。嫁が小遣いくんないからキツイわ」

 と言いくさった。おばさんは、えーえ、たまにはいい部屋もいいんじゃないの気分転換に、と返してから、のしのし戻ってきた。

「あの男バカかい。あんた、殺したらだめよ」

 おばさんの顔を見たら、目が本気だったから、私ははっと我に返って、

「あんなの殺して捕まるの私だってイヤです」

 と言って離婚届を広げて見せ、それでもおばさんが悲壮な表情をやめないので、立ち上がって目の前で何度も紙切れを振って見せた。そうしたら泣きたくなったけれど、歯を食いしばって我慢した。もう三度目なのだ。なんの信用もならないのだ。もう嫌だ。我慢することなんてないはずだ。やっつけていいはずだ。私はおばさんを放っておいて、もう一度椅子にどかんと腰を下した。

 真っ最中に踏み込んでやる。

 私はまで待つことにし、自分の遠い記憶を探って、夫が女(つまり私)をホテルに連れ込んだときどうしていたか、思い出しながら時間を計った。夫はいつも、まず風呂に湯張りをし、一緒に浸かりたがる。

 私はいま冷静だ。ちゃんと冷静だ。浮気現場で思い余って夫を刺し殺す、なんて話は聞くが、私はそんな不用意なことはしない。あんなのを殺して人生を棒に振るなんてバカらしい。ただ、痛めつけてやるだけだ。私の痛みを、わたし流に思い知らせてやるだけだ。そうしたら、すっきりと離婚してやる。

 二十分。風呂から上がる頃だ。私は立ち上がった。

「行きます」

「暴れないでちょうだいよ」

「はい」

 おばさんにスペアキーをもらい、206、と確かめ、息が詰まって、短い言葉しか返せなかった。エレベーターに乗り、二階のボタンを押す。チン、と鳴ってすぐに着いた。エレベーターを降り、背負っていたナップザックから素早くUZIウジを取り出し、初弾を装填する。夫の愛用の、電動ガスガンだ。直径6ミリ、0.25gのBB弾をいっぱいに詰めた予備弾倉スペアマガジンを三つ、デニムのお尻のポケットに突っ込む。サバゲー用のプラスチックゴーグルをかけ、廊下を小走りに部屋を探し、すぐに見つけた。206号室、プレートを確かめ、鍵を回し、銃を構えて中に躍り込んだ。部屋のどまん中にピンクのシーツの丸いベッドがあったが、いなかった。少しひるんだが、浴室から女の声が聞こえた。まだ風呂か。

 ドアを開け放つと、目の前に全裸で女に覆いかぶさる夫の背中があった。その背中はピンク色の液体にまみれ、白い床も液体で染まっている。二人の結合する部分が目に飛び込んできて、湿気と興奮で鼻では息ができず、そこから先はあまり覚えていない、引き金トリガーを引きちぎるくらい引いた。夫のケツ、女のケツ、クソケツ、逃げまどいうずくまる二人の全身に弾を浴びせた。浴室の壁に当たった弾が跳ね返って飛んできても痛みを感じなかった。「あおいおまえ××××××!」と、なにごとか喚き散らす夫の顔面を撃って黙らせようと浴室に足を踏み入れ、ピンクのローションで足が滑って体勢を崩した。そうか、最近は風呂場でこういう遊びも覚えたのか。立て直し、全弾打ち尽くし、空のマガジンを夫の顔に投げつけ、すぐに次弾を再装填リロード、また連射、それも打ち尽くしてリロード、連射。

「呼び捨てにするんじゃないわ!」

「お前って言うなッ!」

「お前がお前だ! お前ッ!」

 夫は手桶を投げシャンプーの容器を投げ応戦するがなんのことはない。狭い浴室で入り口を塞いでいるから逃げ場などない。女はぎゃあぎゃあ喚いたが、洗面器で顔面を護りバスタブの湯をバシャバシャと子供の水遊びのように飛ばすだけで精一杯、ピンク色に火照った無防備の体に、近距離ならアルミ缶をぶち抜く威力の重い弾を撃ち込みまくった。途中から二人はバスタブの中に飛び込んで逃げたがなんの意味もなかった。最初にトリガーを引いた時から、冷静さなんて吹き飛んでいた。もし握っていたのが実銃だったとしても、私は全弾打ち尽くしていたかも知れない。

「バカにすんなこのクソバカ!」

「クソ野郎! クソケツ野郎!」

「うるさい女ッ! クソ女ッ!」

 どんな顔をしていたのだろう。私は叫び続けた。撃って撃って、合計二百二十発。ほとんどを至近距離から裸の夫の体に命中させた。床は薄いグレー色のBB弾で埋まった。最後のマガジンが空になり、私はさらに銃とゴーグルを浴槽に投げつけ、浴室を出て離婚届をベッドの上に投げ捨て、部屋を出た。

 エレベーターへ向かおうとし、走り出した途端、隣の部屋から勢い込んで出てきた女と思いきりぶつかって互いに転んだ。起き上がりざま初めて、自分がずぶ濡れで、はあはあ、荒く呼吸をしているのに気付いた。ぶつかった相手を見ると二十歳前後の若い女の子で、目が合うと慌てて顔を隠すようにして走り去ったが、行き先は同じだった。エレベーターを二人で待った。身長は私よりも少し高い。私のからだから床に滴り落ちる水を彼女が横目で見ているのがわかった。彼女はじっと俯いていたが、エレベータが着いた途端、私の顔を振り仰いで言った。

「おばさん」

「ついて来てもらえませんか」

 私は、金色の前髪から覗く少女の眼を見た。悪意のない真っすぐな目は、僅かに潤んでいた。職業柄、若年者の言うことには耳を傾けなければいけない。

「どうしたの」

 語調を落ち着かせて聞いた。それで彼女は気を許したのか、通路を走って戻りだした。夫たちに出くわさないかと一瞬気になったが、まだ大丈夫だと自分で言い聞かせた。彼女が入っていった部屋は、夫たちのいたのと同じ作りだった。目の前の丸いベッドに、裸の初老男性が横たわっている。

 ひと目で、死んでいる、と直感した。だらりと脱力している腕が、まるで生きている感じがなかった。途端足が動かなくなって、玄関から先へ進めなくなった。私が立ち止まったので、女は私を振り返った。

「あたしじゃない」

「し……」

 死んでる、と口に出して言うのを躊躇したが、ほかの表現が思いつかなかった。

「死んでる?」

 女は男のもとに近づいて答えた。

「たぶん」

「その、してるときに……、亡くなったの?」

 腹上死とか心臓麻痺とか脳溢血とか、そんな言葉が頭にちらつく。

「ううん」

「やったあと。お風呂行って」

「出てきたら。死んでた」

 彼女の声は冬の空気みたいに澄んでいたが、動揺しているのか話し方は途切れ途切れだった。まるで底なし沼から氷柱を引き揚げては見せつけられているようだった。

「それまでは元気だったの?」

「ふつう」

 もしかしたら生きてるんじゃないか、と思った。寝てるのかも知れない。そう思うと足がひとりでに動いた。なんとなく、鼻を手で覆い、息を止めて歩いた。だが、ベッドのそばに寄り、男の顔を見た途端、背筋がぞくりとした。生きて寝ている人間の顔ではなかった。葬式のときに目にする、死人の顔だった。私は自分の腕をきつく抱き、いちど大きく身震いをして自分を落ち着かせ、辺りを見回した。ベッド脇のサイドボードの上に、ピースの箱とライターが置いてあった。男のものだろう。灰皿には吸殻が一、二、三、四、五本、全部同じタバコだった。吸殻に混じって、空の薬の容器が捨てられていた。形からすると、カプセル。自殺、と思った。

「ねえ、このおじさん薬飲んでた?」

 私が容器を指差して聞くと、彼女はかぶりを振った。

 風呂に入っているあいだに飲んだのか。私は意を決してその容器に手を伸ばしかけ、あっ、と気付いて部屋のドアを閉めた。夫がもし通りざまに覗くようなことがあったら厄介だ。そうだ。こんなところに長居している場合ではない。早く立ち去らなければならない。アルミ箔が破られ、形のへしゃげたその容器をつまみあげ、息を吹きかけて付着しているタバコの灰を吹き飛ばし、印刷されている文字を読んでみたが、並んだアルファベットと数字が何を意味しているかは判らなかった。

「ねえあなた、この部屋で触ったところ全部、指紋消そう」

「指紋」

「なんで死んだかわからないけど、最後に一緒にいたってわかればいろいろ聞かれるよ。このおじさん、知らない人なんでしょう? こんなことお父さんお母さんに知られたらまずいんじゃないの。証拠を消すのよ」

 教職者としてあるまじきことを話しているのはわかっていた。ただ、このままでは帰れないと思っただけだった。少女は、お父さんお母さん、という言葉に表情をゆがませたように見えた。私はそれを、良心の呵責だとかもしくは親への反抗だとかと勝手に想像した。それから、女の子の記憶をたどって指紋をタオルでごしごし拭いて回り、手を引いて部屋を飛び出そうとして、ドアの手前で聞いた。

「あなた何時ごろ来たの?」

「六時過ぎです」

「そんなにいたの?」

「サービスタイムで。やりまくられた」

 私は噴き出しそうになったが、ふうっ、と息を吐いてやり過ごした。

「一階ロビー、カメラで録画されてるから」

「あ」

「でも私、いい考えがある。私が先にエレベーターで下りるから、そのあとで下りてお金払いなさい。あなたお金持ってるの?」

「おじさんにもらった」

 女の子はそう言ってデニムスカートのポケットから折り畳んだ万札を取り出して見せた。私は内心、おお、ガチの援助交際だ、現行犯、と思いながら、

「うん、じゃあそれで払いなさい。まあ仕方ないよね」

と、なんで慰めてやらないといけないのかわからないが、そう言って部屋を出て、となりの部屋を気にしながら、一人でエレベーターに乗った。

 フロントのドアは開いたままになっていた。私は何気ない振りで部屋に入り、相変わらずモニターを眺めるおばさんに、

「お世話になりました」

とだけ言った。

「話はついたの?」

「まあ、離婚届渡してきましたから。ちゃんと提出してもらいます」

 どうやら夫たちはまだ部屋にいるらしい。早く立ち去らなければいけない。モニターに目をやると、ちょうどエレベーターが開いて女の子が一人で出てきた。よし。

「あの。支払いお願いします」

 小窓のほうから声が聞こえた。おばさんが立ち上がり、小窓のほうへ向かった。私はおばさんが背を向けたのを見計らい、ビデオデッキからテープを抜いた。

「あら、あんた一人? 相手の人は?」

 おばさんが何ごとか詰問し始めた。私はテープを脇に挟んで隠し、そそくさと立ち上がってドアを開けながら言った。

「じゃあ、失礼します」

 外へまわり、女の子を押しのけて小窓に一万円札を置き、彼女の腕を掴んで走った。おばさんが何か叫ぶのが聞こえたが、もうどうでもよかった。もうこのホテルに二度と来ることはない。金曜の歌舞伎町は酔客とホステスでごった返していた。迷路のような路地をのろのろ通るタクシーの車列をすり抜け、ヤマダ電機のびかびかした電飾の下を行き来する人のあいだを掻き分け、何度も他人にぶつかりそうになりながら、走って、一度も立ち止まらずに走って、ようやく新宿駅の東口に着いた。

「あなた、ここから、帰れるの?」

 私は柱にすがりつき、はあ、はあ、と息も絶え絶えに聞いた。

「あ、うん」

 女の子はほとんど息を切らしていなかった。若い。

「テープ、抜いたからさ、証拠は残ってないはず」

 私はそう言ってVHSのビデオテープを見せた。女の子は、すごい、と言って、そのとき初めて笑顔を見せた。可愛らしい、と思った。

「あのさ、あんまりあなたにうるさく言いたくはないけど、もうこんなことやめた方がいいと思うよ。じゅうぶんわかったでしょう。じゃあね」

「お金。さっきの、返します。それと、お礼の分、何枚か」

 少女の差し出した万札を数えると、六万円。

「なに、あのおじさんからこんなにもらったの?」

「ううん、もらったのは二万。前金で」

 私は、なんだかなあ、と思いながら、札束を睨み、えい、と一枚だけ引き抜いた。

「さっき払った分だけ返して。お礼とかはいらない。何にもなかったことにして。これで私たちはもう無関係。そういうことにして」

 少女は納得したのか不服なのかよくわからない表情で二、三回頷いた。私は、もう何も言わずに踵を返し、切符売り場に向かった。もう忘れよう、と思った。なにひとつ、満足感も達成感もなかった。ただ一刻も早く、布団にくるまって眠ってしまいたかった。ダウンジャケットのポケットに入れたスマートフォンが、少し前からブーブーと何度もバイブレーションしていた。嫌な予感しかしなかった。しばらく見ないでおこう、と思った。

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