第2話 姉、そして涙



「えーと……?お、お譲ちゃん?お名前は?」

「わたしはね、千紗っていうの」

「───千紗ちゃん、ね」

「うん!お姉ちゃんは?」

「私は小春っていうの」

「小春おねえちゃん!小春おねえちゃん!」


 ふふーんと隣で千紗ちゃんが鼻歌を溢している。元気になってくれたのなら良いけど。


 どうする宛もなかったので、ひとまず近くのベンチに腰を掛けることにしたのだ。千紗ちゃんは先程のように泣く様子もなく、すっかり本調子だ。


 ……というか私は千紗ちゃんに懐かれてしまったのだろうか?私の隣にピッタリと座って、地面に届かない足をブラブラ振っている。体を横に揺らして機嫌が良さそうだ。


 さて、これからどうすれば良いのだろうか?ここで居座っていたら千紗ちゃんの家族が見つけてくれるかもしれないけど、絶対じゃない。というかそもそもどこで家族とはぐれたんだろうか。


「ねえ千紗ちゃん。どこでお母さんとはぐれたの?」

「うん……。きょうね、駅まえのお店に行くことになって、それでね、おかあさんといっしょに行って。でも、そこで…わたし、わたし……」

「あぁー!うん!分かったから!じゃあ一緒にお母さん探しに行こうか!」

「ホントに!?」


 そりゃあそんな泣かれそうな顔されたらね!?言うしかないじゃない!?


「ありがとう小春おねえちゃん!」


 ぱあぁと明るくなっていく表情。それを見たら何も言うことはなくなってしまう。


「じゃあ、とりあえずそのお店まで案内してくれる?」

「うん!」


 私が立ち上がると千紗ちゃんも立ち上がった。しかし千紗ちゃんは歩きだそうとはせず、じっと立ち尽くしていた。


「……千紗ちゃん?」


 千紗ちゃんは何かを言いたげに佇んでいた。でも逡巡しているようで、ちらちらと私の方を伺っている。見ているのは……私の手?


 ……まさか、ね。


 ゆっくりと千紗ちゃんに手を伸ばした。すると分かりやすく嬉しそうに笑って私の手を取った。


「……行こうか?」

「────うん!」


 私たちは並んで、いや少しだけ私が前を歩いた。


 お姉ちゃんと喧嘩して家を飛び出して。そうして今は見知らぬ少女の家族を探している。


 何とも変な話だ。どこか親近感の湧く千紗ちゃんを見ながら、そんなことを思っていた。




  ***




「千紗ちゃんとお母さんはここに来たんだ」

「うん。ここでお買いものしてたんだ」


 そこはどうってことのない駅前の商店街の一角。先ほど千紗ちゃんがいたところから、ほんの数分のところだった。


 恐らく千紗ちゃんはお母さんとはぐれた後、不安に駆られて自分で探し回ったのだろう。でもお母さんと出会えずに遠くへ行ってしまい、さらに元の場所にも帰れなくなった。そんなところだと思う。


「どこらへんで買い物していた?」

「あっちからあっちくらい、かな?」


 そう言って商店街の端から端を指差した。

 そうなんだ。ここは商店街。決して小さくはない。商店街全てを含めると1時間くらいは歩き回れると思う。


 千紗ちゃんの指差した方向に目を凝らすも、子どもを探しているような母親の姿はない。


「千紗ちゃん、お母さんいる?」


 でも千紗ちゃんは少し顔を沈めながら横に振るだけだった。恐らく千紗ちゃんがここから離れた間に、母親も千紗ちゃんを探してここから離れたのだろう。つまり行き違いになったんだ。


「…どこ行っちゃったの、おかあさん……」


 言葉の節々から失望というか落胆しているのが伺い取れた。また泣いてしまうんじゃないかと不安になる。


「だ、大丈夫だよ!私と一緒にお母さんを探そう?ね?」

「……ホントに?」

「うん!見つかるまで私が一緒にいるから!」

「うん!ありがとう小春おねえちゃん!」


 ああ、この笑顔だ。この顔を見ると私もなんだか元気になってくる。


 さて、これからどうしようか。

 一応周りを確認しても千紗ちゃんの母親らしき人はいない。となると商店街を練り歩くのが妥当だろうか。


 私が一歩進むと千紗ちゃんもそれに足並みをそろえた。その様子は可愛らしく、愛おしささえ感じてしまった。


「千紗ちゃんはお母さんと何を買いに来たの?」

「うーんとね、にんじんにね、かぼちゃにね。コロッケと…そう!コロッケ!」


 千紗ちゃんが大きな声を出して、爛々とした視線を向けてきた。


「コロッケがおいしいんだよ!アツアツでホクホクで!いっつもおかあさんが買ってくれるんだ!おかあさんもね、おいしそうに食べんるんだー!」

「今日もそのコロッケ食べたの?」

「うん!わたしとおかあさんで1個ずつね!」


 確か昔の記憶だったが、私もお母さんと商店街に来た時にコロッケを食べたことがある。そのコロッケはお姉ちゃんも好きで、よく三人で食べ歩きしていた。


「お母さんと2人でお買い物してたの?」

「うん、きょうは……」

「今日ってことはいつもは違うの?」

「いつもは……いもうとがいる」

「へえ、妹さんがいるんだ」

「うん……」


 思わず眉をしかめてしまった。どうしてか千紗ちゃんの声が小さくなっていた。それもしぼんだ風船みたいな尻すぼみな声だった。


「どうかしたの?」

「……ううん」


 そうは口で言っていても表情は優れないまま。暗雲掛かった空気が流れた。

 こんなことを小学生に思うのは間違っているかもだけど……気まずい!しょうもなく目が泳いでしまう。


「え、えーと千紗ちゃんさ……」


 千紗ちゃんは無言で私を見上げてきた。しどろもどろになりながらも言葉を紡いでいく。


「そ、相談というか、悩み事があるなら…私聞くよ?その、頼りないかもだけど……」


 すると千紗ちゃんは一瞬だけ目を見開いて顔を伏せた。


 その後はどちらも言葉を発することなく、ゆっくりとした歩調で進んでいった。


「……あの子は、きらいなの」


 ぽつりと、千紗ちゃんが呟いた。


「あの子はね、おかあさんをひとりじめしてるの。あの子がきてからね、おかあさんとずっといっしょなの。わたしよりあの子なの」


 それは嫉妬だと、判断したのは一瞬だった。


「おかいもの行くときもあの子はおんぶ。わたしはとなり。わたしとおしゃべりしてても、あのこはすぐ泣いておかあさんは行っちゃうの」


 聞いたことがある。きょうだいは下の子に嫉妬すると。今まで自分に向けられていた親の愛情が下の子に向けられるようになって、親が奪われたように感じると。


「だから、きらい。あの子がきらいなの」


 でもきっとこんな小さな子は知らないんだろう。自分の抱いている気持ちを何と言うのか。言語化も出来ないから整理も出来ない。ひたすらに負の感情が積もりに積もって。


 千紗ちゃんは語り終えたのか、口を閉ざしたように静かになった。黙々と歩いていって母親の姿を探している。


 こういう時、何て言えばいいのだろうか。私には下の子がいない。いるのはお姉ちゃんだけだ。だから千紗ちゃんの気持ちがわからない。


 と言うよりかは────私のお姉ちゃんも、そんな感情を私に持っていたのだろうか?


「……私にはね、妹がいないからよく分からないな。でもね、お姉ちゃんがいるんだ」


「小春おねえちゃんの、おねえちゃん?」


 ちょっと小首をかしげて私を見た。


「うん、大学生のお姉ちゃん。そのお姉ちゃんとね、喧嘩しちゃんたんだ」


 自分の言葉に少し驚いている私がいる。私は何かを考えて言っているわけではなく、自然と口から溢れているからだ。流れるように、口にしていた。


「ほんとね、小さなことなんだ。お姉ちゃんは優しくて強くて頼りがいがあって、私とは正反対。だからね、いっつも守られてばっかり」


 どうしてこんな話を言っているんだろうか。私だって分からないんだから、誰にだって分かるわけもない。


「でもそれが嫌になっちゃったの。守られるんじゃなくて、自分一人で出来るようになりたかったの。だから一人で勉強してみたんだ。いつもみたいにお姉ちゃんには頼らずに。私一人で」


 でもね、と私は呟いた。


「いつもみたいにお姉ちゃんは私にアドバイスくれたんだ。隣に寄り添ってきて声をかけてくれたんだ。でも私はそれに反抗しちゃって喧嘩になって。喧嘩っていうかは私が一人で暴走した感じだけどね」


 こんな話をされても困るだろうと思って横目で千紗ちゃんを見てみたら、意外にも真剣な顔付きで私と目が合った。理解できてないかもしれないけど、ちゃんと聞いてくれている姿勢が嬉しかった。


「でもさ、よくよく考えたらお姉ちゃんは私のことを大切に思ってくれているから、私を守ってくれていたんだよね。アドバイスをくれたんだよね。だからこの喧嘩で悪いのは私なんだ。私にしか否がない」


 勿論お姉ちゃんは過保護かもしれない。勉強も部活も生活も、全部お姉ちゃんが支えてくれた。お姉ちゃんありきの人生だった。それでもお姉ちゃんは私の事を大事に思ってくれている。思ってくれているからこそ、過保護だったんだ。


「だから私はお姉ちゃんに謝るつもりなんだ。お姉ちゃんは悪くないから、私が悪いから。次会った時にごめんなさいって言うつもりなんだ」


 私の言葉を千紗ちゃんは神妙そうに聞いている。


「千紗ちゃんはさ、妹さんのこと嫌いなの?」

「だっておかあさんが……」

「初めて見た時とか、どう思ったの?」

「……はじめて?」

「そう、初めての時」


 気がつくと私達の足は止まっていた。手を繋いだまま互いに見つめ合っている。


「はじめて見たとき、わたしは……」


 千紗ちゃんは自分の顔だから見えなかっただろう。でも私には見えていた。


「わたしは────かわいいと、思ったんだ」


 自分の言っていることさえ分からないかのような、驚嘆の表情を。


「……そっか。千紗ちゃんは妹さんが可愛かったんだ。生まれた時は嬉しいって思ってたんだ」


「……うん、うん。きっとそうなんだと思う」


 自分でも自分のことがわからない。そんな風に心ここにあらず頷いていた。


「でも次第にお母さんが千紗ちゃんじゃなくて妹さんのことばかり気に掛けるようになったから。だから妹さんのことを嫌いになっちゃったんだ」

「……うん」

「でもさ、それって妹さんはどう思うかな?」

「……どうって?」


 腰を下ろして千紗ちゃんと同じ目線の高さになる。くりりと真ん丸い瞳は透き通っていて、私の姿が反射で映っていた。


「だって妹さんはどうして千紗ちゃんに嫌われているのか分からないんだよ?何もしていないのに嫌われて。もし千紗ちゃんが理由もないまま嫌われていたら、千紗ちゃんはどう思う?」

「それはっ……」


 唇を開けては閉めて、そうして震わせて。段々と眉が不安そうに垂れていった。


「……いやなこと、かも」


 千紗ちゃんの顔に汗が落ちる。


「うん。私もそう思う。きっと私のお姉ちゃんは傷ついてる。いや、私が傷つけちゃったんだ」


 私の右手が。私の表情が。私の言葉が。きっとお姉ちゃんを傷つけた。


「だから私は謝るの、お姉ちゃんに。────千紗ちゃんは?」


 千紗ちゃんは良い子だ。きっときっと、将来はとても良い子になる。


「……わたしは───」


 だって────



「────あやまらなきゃ…!」



 ────今こうして自分の非を認めて、涙を流せるんだから。




 千紗ちゃんは私の胸に飛び込んできて泣きじゃくった。

 小さな体の全身が震えていて、その姿はまだ子供そのものだった。

 でも、きっと彼女の背中は大きくなるんだと、私は思ったんだ。


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