第3話 妹、そして疾駆



「どう?落ち着いた?」

「うん……」


 再び近場のベンチに座って千紗ちゃんの頭を撫でてあげている。


 先ほど渡したポケットティッシュを使い切る勢いだが、まあ無くなったところで問題があるわけでもないし。


 また千紗ちゃんはティッシュを取り出して勢い良く鼻をかんでいる。顔を窺ってみると、確かに目元鼻元は赤くなっているが、それ以外は落ち着いているようだった。


 そういえば、ふと思ってアーケードに設置された時計を見てみた。千紗ちゃんと出会ってからそれなりに時間が経っていた。


 横目でちらと千紗ちゃんを見ても、まだ元気一杯というわけではなさそうだ。

 なにかいいものはないかと目線を辺りに巡らす。すると1つのものに目が止まった。


「ちょっと待っててね」


 そう千紗ちゃんに告げると、小走りで向かいの商店に立ち寄る。目的のものを頼むとすぐに手渡されたので、お金tを払って千紗ちゃんの元へ戻った。


「はい。千紗ちゃん、どうぞ」


 そういって差し出したのは狐色のコロッケだ。


「いいの!?」

「うん。今さっき食べたって言ってたけど……」

「ううん!食べたい!」


 本当に千紗ちゃんはこれが好きなんだな。小動物よろしくの食いつき具合だ。


「そう?じゃあそしたらまたお母さんを探そうか」

「ありがとう!」


 ちょっと餌付けみたいで引ける部分もあるけど、千紗ちゃんが空腹で倒れても困るし、何より元気になってくれたから問題はない。よね?


 立ち上がって千紗ちゃんに右手を差し出す。千紗ちゃんはすぐに私の手を握ってきて、そのまま歩き始めた。


 千紗ちゃんは笑顔のままコロッケを頬張っている。黄金色の衣が口に含まれるごとに甘美な歓声をあげていて、恍惚と口にしている。……私も食べればよかったかも。


 すると急に私の右手が後ろにとどまった。振り返ると千紗ちゃんは口を開けたまま遠くを見つめている。コロッケさえ目に映ってないかのような形相だった。


「────おかあさん……!」


 その唇が紡ぎ出したのは幸色を含んだ言葉。同時に一気に顔色が明るくなっていっく。


 千紗ちゃんの目線の先に1人の女性が見えた。遠くて顔はぼやけているが、あれが────千紗ちゃんのお母さん。


「おかあさん!」


 千紗ちゃんが駆け出す。私の手から温かさが抜ける。そのまま一直線に進んでいく。

 千紗ちゃんの背中が遠くなっていく。遠く、離れていく。



 ───私の背中に、一筋の冷や汗が垂れた。



 商店街を裂くように横切る一本の道。それはこことは違って普通の道路。歩行者専用道路じゃない。車だって通ることがある。


 その道へと、千紗ちゃんは走って向かっている。周りのことなど少しも見えていないかのように。車の音なんて聞こえていないかのように。ひたすらに足を前へ。


 ダメ───!口は動く。でも声は出ない。


 止まって───!脳は回っている。でも体は動かない。


 このままじゃ────!




 ───いつだったっけ。私が小学生の時かな。


 学校の帰り道、お姉ちゃんと2人で帰っていた時。

 意味もなく走って帰るのが好きだった私。それにお姉ちゃんは付き合ってくれていた。


 ある日私が赤信号に気づかず渡りそうになった時、お姉ちゃんはどうしたっけ。


 そうだ────。




 ────こうやって駆け出してくれたんだ。




 何も考えていない。ただ走る。ただ手を伸ばす。

 千紗ちゃんへと。千紗ちゃんが道路に差し掛かる前に。

 一秒でも早く、一寸でも遠く。足を投げ出した。


 そして────。




 自動車が横切った。

 風が辺りを吹き荒らす。風に舞った髪の毛が揺れている。

 コンマ遅れてコロッケが地面に落ちた音が聞こえた。


 千紗ちゃんはここにいる。私の腕の中に。私が背中から抱きついて、そして止まった。

 私は生きている。千紗ちゃんも生きている。無事、ここにいる。


 心臓がうるさいくらいに高鳴っている。肺も張り裂けそうに酸素を欲している。


 千紗ちゃんは目の前を唖然と見つめていて、そして油の切れた機械みたいにぎこちなく振り向いた。


「……小春、おねえちゃん」


 目を白黒させながら私を見つめる。恐怖、驚き、不安、疑問。ありとあらゆる感情が渦巻いているような瞳の色だ。


 私は荒れた息さえも気にせずに微笑んだ。


「────大丈夫だった?千紗ちゃん」

「う、うん……」


 腕の力を弱めると千紗ちゃんは振り返って私と向き合った。

 私は口に粘りつく唾液を飲み込んでから一度息を吐き出した。


「駄目でしょ?道路を確認もなく渡ったら危ないよ?」


 急に走ったから喉の奥がざらつくように痛い。不快な気持ちを抑えながら言葉を続ける。


「次からはちゃんと右見て左見て、それからだよ?」

「ご、ごめんなさい……」


 小さく頭を下げた。私はそれに満足して頭をなでてあげる。


「────痛っ」


 安堵の溜め息を吐きながら立ち上がると、左膝に鈍痛が走った。目を向けると擦り傷のような赤い線が入っており、わずかに血が付いていた。


「こ、小春おねえちゃん!?どうしたのそのケガ!?」


 千紗ちゃんが声色を変えて私の膝を凝視してきた。千紗ちゃんの目線の高さ近くに怪我があるからか、顕著に目に入ったんだろう。


「あー、ちょっとね。今さっき付いただけだと思う。いたた……」

「小春おねえちゃん!そこにじっとしててね!」


 急に大きな声を出したかと思うと、千紗ちゃんはショルダーバッグを開けた。何をするのかと見ていると、小さなポーチが出てきてそこから絆創膏を取り出した。


 千紗ちゃんは慣れてなさそうな手つきで絆創膏の剥離紙をはがして、私の患部に絆創膏を押し付けた。そしてむふんと満足げに千紗ちゃんは胸を張った。


 左膝に貼られた絆創膏。ちゃんとまっすぐ貼れてなくて、少し歪んでいて。それでもそれを見たらどうしてか頬が上がっていた。


「……あっ!そうだ!おかあさん!」


 千紗ちゃんが素早く顔をあげる。私もそれにつられて顔を上げた。

 するとすぐそこにその人はいた。物腰が優しそうで柔和な顔で。でも今の状況を見て少し慌てている。この人が───。


「────おかあさん!」


 その人の足に千紗ちゃんが抱きついていった。

 探していた人に出会えた。会いたかった人に出会えた。きっとそれはとても幸せなことなんだろう。


「千紗!どこ行っていたの!?」


 千紗ちゃんのお母さんも愛おしそうに抱き寄せた。そこには私なんかは入る余地のない、強い絆を感じられた。


「心配したんだから……!」

「うん、うん!ごめん、ごめんなさい…!」


 微笑ましい景色だ。2人が抱き合って出会えたことを喜んでいる。

 自分の怪我も疲労も報われる。1つの後悔もない。


「あの……」


 千紗ちゃんのお母さんが私を見て立ち上がった。その顔立ちは優しそうで、どこかノスタルジックな気持ちを奮い立たせた。


「娘を助けていただき、本当にありがとうございました」


 彼女は深く深く、私に礼をしてきた。その整った最敬礼から大人の出で立ちを感じていた。


 対する私は───。


「やっ!その!全然大したことしていないので!ねっ!?その!頭を上げてください!」


 テンパっていた。他人からそんなお礼を向けられたこともない。ましてやこんな大人の相手となるとなおさら。


「いえ、あなたが助けて下さらなかったらうちの娘は……」


 何度も何度も頭を下げられる。


「いえっ!例え!例えそうだとしても私は───姉のように行動しただけですから」


 頭に浮かんでいるのはお姉ちゃんの後ろ姿。いつも守ってくれた。


 心に刻まれているのはお姉ちゃんの笑顔。いつも手を引っ張ってくれた。


 そういうと彼女は瞬きを繰り返した後、温和に笑いかけてきた。


「それは……良いお姉さんがいるのでしょうね」

「はい。私の────自慢の姉です」


 今、私は間違いなく胸を張れている。


 そこにトタトタと千紗ちゃんが歩み寄ってきた。拳を強く握っていて口は横一文字に結ばれていた。


「あの!小春おねえちゃん!」

「は、はいっ!?」


 ───迷いない瞳が、私に向けられる。


「わたしっ!小春おねえちゃんみたいなおねえちゃんになる!だれかを守って、いもうとも守って!そんなかっこいいおねえちゃんになるから!」


 それは意志だった。きっと今までの自分を変える意志。妹を守る意志。揺るぎない意志。


 私は何もしていない。きっとお姉ちゃんならこうすると思っただけだ。だからやった。ただそれだけ。


 でも私の行動で千紗ちゃんを救えたのなら、千紗ちゃんを変えることが出来たのなら。



 なら────私も守られるだけの自分から、変わることが出来たのだろうか?


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