接吻しか知らない処女

@meymao

会議室のOL

冷房の効いた会議室の椅子に腰掛けるとひやりと冷たい感覚が太腿から伝わる。ぞろぞろと向かい合い座る人の揃うのをぼんやり見つめながら、記憶の右奥で初恋のひとに会った。きっといつかの下校時刻、遭遇した帰り道で。それは偶然の出会いだった。


大人になった物語はいつも現実世界で起こる。もっと昔の幼い時分には、それは妄想だったりファンタジーだった。今ならインターネット上でも起こり得る。

いつかのあの子に、現実の友達と仮想空間の友達との間をすり抜けて手を伸ばすことができる。Facebookの友達の友達にあの子を見つけることができる。大人になった今、あの頃の下校時刻の帰り道を追憶の情とともに訪れなくとも、その所在を突き止められる。


逆に誰かが自分を探し求めてどこかから見ているかもしれない。無邪気に晒した写真や情報を得て、身勝手な記憶に今のわたしを重ねるかもしれない。どの情報がどこまで誰かに見えているか、わたしは知らない。サービスのことを真に把握してなどいない。わたしは知らないところで誰かに出会っているかもしれない。どれだけ検索しても見つからないあの子は、この世界に少しのデータも落としてはいないのかもしれない。どちらにせよ、取り戻せない。


喉が乾いてアイスコーヒーを飲む。冷たい香ばしさが心地よく喉を通る。瞬時に涼を得て、川岸を思い出す。いくつも岸辺に並ぶ大きな岩を飛び越えて覗きこんだ水底には、なめらかな水草が接吻しか知らない処女のように流れに揺れている。日差しを遮る岩の影の水底で、瑞々しい色を輝かせている。水面のプリズム。向こう岸の信号機。言葉を持たないものだけが私を魅了する。


何者かが尊さを持ちうるとすれば、それは接吻しか知らない処女だ。接吻も知らない少女はまだ青い。処女ではない少女には未知への信仰がない。接吻しか知らない処女の渇望と溜息はきっと尊い。どのくらい尊いか、考えれば結局大したことじゃない。むしった夏草を放り投げる。


寝転がると土手の上では婦人が白日傘をさしている。白い日差しを拒絶するでも張り合うでもなく一体となった日傘は新鮮な季節の匂いを運ぶ。

柑橘のずっしりとした果肉感と冷たさを思い起こさせる。土手の芝生そこらに柑橘が転がり落ちる。皮を剥くときにミスト状になって空中を漂う果皮汁も、果肉のほんの欠片を舌にのせ口蓋に当て潰す感覚も、その後に残る果肉のうすい繊維やアルベドの苦味、柑橘の与えるさまざまな感覚を思い起こすことができる。


指先に染みたその甘酸っぱい匂いまでもが私に物体の持つ存在感を強く突きつける。私はその感覚を知っている。ああ私は生きている、柑橘が私をここに繋ぎ止める。

まぶたは赤い。鼻の奥に微かに残る匂いに恍惚としながら目をあけると日傘の婦人はどこにもいない。たしかにそこにある日差しには、身体を汗ばませる熱気はまるでない。


「どう思う?」と聞かれて視線をやる。急にそんなこと聞かれてもよく分からない。「いいと思います」と言う。「でも結論を急いでいないなら、もう少し検討してもいいと思います」と言う。話の途中がすっぽり抜け落ちて、会議の内容はほとんど入ってこない。


「わたしはうそをつくのが上手なの」「どうしてうそをつくの」「本当のことを言ったら、みんな怒るでしょう」と、わたしは私に話しかける。次の議題に移り、わたしは視線を窓の外に移す。


窓の向こうにはビルが立ち並び、電線や車や歩道橋がその間を埋めている。

あのビルの横から大きなおっさんがひょっこり顔出してくるといい。「よ!」みたいな。「久しぶり、何やってんの?」みたいな。

その後ろからおっさんの奥さんや年老いた母親や親戚の叔母さん、近所の人まで出てくる。そのうちビルと同じくらいだったおっさんがみるみる大きくなって『おおきなかぶ』みたいにファミリー総出で連なり、ビルを引っこ抜く。電線は土に張る根のように引きちぎられ、のろのろと横を通る車はさながらダンゴムシ。みんなの力を合わせて引っこ抜いたビルの下にあるものは......そんなことより、かき氷が食べたい。


かき氷のしあわせはスプーンにある。綿氷の下に突っ込まれてキンキンに冷えたステンレス製スプーンに、かき氷をのせて口の中に運ぶ。スプーンの背を舌にのせると、へばりつきそうなほどの冷たさが伝わる。離してはまたくっつけ、離してはまたくっつける。札束で頬を殴るようにペタペタとスプーンで舌をたたく。そのうちスプーンはぬるくなり、ぬるくなるだけに留まらず、血のような匂いがしてくる。


「では今回の定例会はここまでにします、議事録をあとでまとめて上げておきます」という声に押されて、みなが椅子を引き立ち上がる。意識が急に引き戻され、浅い眠りから醒めたように、いまが現実なのか夢なのか判断がつかない。ぼんやりと後をついて会議室を出ながら、今日の会議の成果は十年後にはどこへ流れ着いているだろうと想像する。夏の雨のように、流れる物語のように、どこからともなく、どこへゆくでもなく。

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